価値観って大切にしなければならないものなのだろうか。
価値観を変えれば生きやすくなるんじゃないか
と思っていた。
思い込みや、自分以外の刷り込まれた思想を捨てて、現実に即した価値観を採用する。
捨てられるだけ捨て去って、楽になったことは事実だから、間違いではないと思う。
ただ、生きやすいと感じられる価値観を築くことができたとしても、時代は変わってしまう。
ゆっくりと、悟られることなく緩やかに、そして、静かに。
通用しない価値観を振りかざして、大恥をかいて、身動きが取れなくなって、やっと気づく。
再構築の時期が来たことを。
そんなことを繰り返ししてきた。
たぶん、大切なのは価値観ではないのだろう。
価値観は、感情を生み出すためのスケール。常に変化する現実は、一期一会の情緒を紡ぐための装置。同じ価値観であっても、時々で生み出される感情は異なるから。
価値観の目的は、感情の喚起。製造かな?
ということは、感情さえ生み出してくれるなら、価値観なんてなんだっていいのかもしれない。他人に危害を加えないとか、法を犯さないとか、良心に従うとか、その程度で。
生きやすい感情を、より多くの幸福感を味わいたいと願って、そうなるための価値観を築こうとしてきた。
けれど、結果としては真逆な人生になっている。
願う幸福と同濃度の不幸を味わうシステムの有無は別にしても、価値観そのものが感情を喚起させるためのものだとしたら、価値観が多彩なほど、それが大切なものほど、感情を増幅させることになる。好ましい感情も、耐え難いものも。
なら、価値観なんて最低限でいいのでは?
そもそも私が認識している価値観が間違っているのかもしれないけれど、それはそれとして、現実と価値観が相対したときの選択肢は、三つ。
押し通すか、変えるか、折れるか。
だから、世界は理不尽だった。
価値観によって摩擦が起きることは理解していても、価値観をどうでもいいとは思えなかった。
それこそが、私だったから。
けれど、現実に起こる問題にとって重要なのは、私の価値観なんかより、現実的な解決策だ。当たり前だけれど。
大切な価値観で、現実の問題を解決しようとすると、ほぼフラストレーションが溜る。価値観通りにはいかないし、コミュニケーションによる化学変化なんてめったに起きないし、我を通すにせよ、折るにせよ、嫌な気分になる。ストレスを解消しきれないから、心が摩耗してゆく。
私の言う価値観って、エゴだったのだろうな。
大切なのは、感情。
感情の生成に必要なのが、価値観と現実。
快適に生きるために必要なのが、精神の自由と、最低限の価値観と、現実にすり合わせるための思考。
価値観を最小化するために必要なのは、自分の価値観よりも重要と思えるなにか。
目的とか、動機とか。
それが、私にとっては、感情なのかもしれない。
目的って、実現可能なもののことだと思っていた。健康とか、痩せたいとか、キレイになりたいとか、お金を稼ぎたいとか、人の輪の中で笑っていたいとか。
病気や食うに困るほどの現実は、最優先で解消するとして、人生が退屈だと思えるくらい余裕がある時に求めているのは、やりたいことより、欲しい感情なのかもしれない。
できなかったことができた時とか、知らなかったことを知って世界が広がった時とか、バラバラだった知識が結びついて点が線になった時とか、そういう発見の喜び、歓喜、興奮みたいな感情。
心動かされる瞬間。
贅沢にも、私は自分の人生に感動を得たいらしい。めったにないことなのに、困ったものです。
感動したいから、お金を使いたくて、そのために稼ぎたい。働くことが嫌だとしても、感動するためならやれるってことかな?
といっても、毎日感動するのって、難しいしな。
感動じゃなく、感情の変化そのものを楽しめるようになれたら、ただの生活だって楽しめるのかもしれないけれど、そっちの方が難しいのかな。
結論に至らないけれど、現実的ではない動機ってものを、もう少し重視してみよう。
感情を。直感を。感覚を。論理を。
私が思う以上に、人生に必要なものかもしれないから。
fumori
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