私とは、価値観への執着や歪みかもしれない。
やっぱり、私なんていないのかもしれない。
相対的な価値観に反応しているだけ。
出会った価値観を吸収し続け、満タンになったら固定化され、破壊と創造を繰り返して、バランスのとれた器になってゆく。そんな気もする。
幼い頃の価値観のまま世界と向き合い、自滅して来たのは、過去に執着していたから。
知らない価値観に触れるたびに、書き換えてゆけばよかったのに、できるできないや、知識の有無で判断して、自分の方が上なら満足し、下なら落ち込んだ。
感情は過剰なほど豊かだったのに、心がなかった。前向きな学習能力はなく、ネガティブな記憶だけが蓄積していった。
与えられることが当たり前で、
愛されることが当たり前で、
野菜や煮物ばかりの田舎料理だと文句を言っては、怒られた。
今でも、我が家のメニューは、貧乏の極みだったと思っているけれど、毎食お腹いっぱいご飯を食べては、メニューに文句を言い、遠慮なく怒られる親子関係だったなら、案外悪くなかったのかもしれない。
存分に甘やかされてきたんだな。
当たり前に許されてきたから、未だに自覚は持てないのだけれど、社会性に欠けていながら見過ごされてきたのは、言っても仕方がないと諦められたのかもしれないし、最低限の分別はわかっているからと見逃されたのかもしれないし、極度の親バカだったのかもしれない。
両親がどう思っていたのか、私には分からないけれど、その根底にあったのは、信頼だったのかもしれない。
信頼と呼べるほど確たるものではないか。
まぁ、なんとかなるでしょう、くらい?
結局のところ、現時点の私は、社会的には全く価値の測れない人間だけれど、なんとか生きている。周囲の助けを借りながら、自分では赦すことのできない自分を赦されている。
私を苦しめてきた価値観のお陰で、今まで生きて来れたなら、生きるために適した価値観だったはずだ。
なら、なぜ、こんなにも消耗するのだろう?
私の価値観と違うというのなら、
私ってなんなんだろう?
そう考えると、私って、執着みたいなもの?
そもそも価値観は、相対的なものだと思っている。だとしたら、一方的な価値観なんてないはずなのに、自分と違う価値観を許せないという不条理。そこに、なんらかの偏りできる。
自分に都合よく考えるために、辻褄を合わせ、価値観が歪む。それが、私。
今の私は、価値観の歪みでしかないのかもしれない。そんな歪んだ存在を、合理的な思考が赦せるはずがない。
心以外では、救えない。
なのに、心が育っていない。
感情はあるのに、心がない。
落ち込むけれど、心はない。
自分が悪く思われたくない。
そこから、スタートだから。
他者からどう思われても構わない。
そこから始められたら、
心は育ってくれるのだろうか?
fumori