無価値な自分の価値。
あくまでも、個人的な仮説です。
どこかに無価値な自分がいると、
価値ある自分になろうとする。
自分に欠乏感を抱いてしまうと、
それを補えそうなものに価値が生じる。
私以外の世界の価値が上がり、
必然、私自身の価値は下がる。
下がった価値を世界にある何かで埋めよう
とすると、更に、自分の価値は下がる。
一度、呑み込まれたら、
這い上がることは至難の業。
この世界には、
私の欠乏感を埋める何かなんてないから。
補填しようとすればするほど、
欠乏感は膨れ上がり、穴は広がり、
現実的なハードルは上がってゆく。
高利な借金みたいなもので、
首が回らなくなるのも、時間の問題。
逃げ場のなくなった私は、
実現不可能な夢に逃避する。
ほころびてゆく現実。
無価値100%の自分誕生です。
もしくは、自分には価値がない
と認識している世界の誕生です。
はい。詰みました。
無価値な自分を生み出した世界観に従属している限り、
私は一生、無価値なままです。
時は来たれり。
革命の始まりです。
私たちは、選択した価値観を基準にして
この世界を認識し、その世界観に従属します。
価値観を選ぶのは自分だけれど、
それに基づいて作られる世界観に
逆うことはできません。
だって、世界のルールですから。
勝手に裁かれ、価値の有無も決められています。
私が不当に思って、主張したところで、
私が選んだ価値観なので、私の不備を問われます。
どこかに無価値な私を自覚したら、
100%無価値な私へと堕ちる世界。
今ある現実は、
そんな凶悪な価値観を選択していた結果。
なら、選択を変えればいいのです。
自分には価値がある。
そう思えたら、瞬時に解決します。
なのですが、
そうはならない自我の浅ましさよ。
比較する自我が存在する限り、
価値ある自分を目指せば、
無価値な自分も生みだしてしまう。
なのに、今の私には、
自我以外で生きる方法がわからないのです。
自我にとっての価値ある自分とは、
寂しくないとか、怖くないとか、
安心できるとか、幸せとか、
ポジティブな感情を得られる状況にある自分のことなので、
自己都合なのですよ。
満ちた月が欠けるように、
心は揺れ動くもの。
ネガティブに触れることだって、
そりゃ、あります。
そして、瞬時に、自分にも、世界にも
価値を見出せなくなってしまう。
なので、
価値ある自分ではなく、
価値を見出している自分に移行してみようと思います。
価値とは、
自我の選んだ世界観によって計られ、
勝手に与えられるもの。
〇〇はあるか?
〇〇を為しているか?
〇〇を感じられるか?
価値は、条件によって線引きされています。
価値を見出している自分は、
自我の世界観に従属しません。
自我が喜んでいる時も、
悲しんで腐っている時も、
どんな状況に対しても、
同じだけの価値を置いています。
なぜなら、
現実を認識し、体感できるのは、
今、ここに私がいればこそ、なので。
私が存在しなければ、
この世界に価値を見出すことはできません。
この世界に価値を与えているのは、私なのです。
私という自我なのです。
自我がなければ、欠乏感を抱くこともないけれど、
この世界に価値を見出すこともできないのだと思います。
たぶん、世界と私は、等価だから。
欠乏感のない私は、
私と同等の価値を世界に見出すことになるでしょう。
心が満ち足りていれば、
同じくらい満ち足りた世界を認識できる。
足りない世界は、心の貧しさによって、
認識を制限されているのかも。
満ちた世界も、足りない世界も、
見ている場所が違うだけ。
心の状態で、認識できる範囲が変わるだけ。
たぶん、世界はずっと満ち足りている。
私の心が満ち足りていれば、
本来ある世界を垣間見れるし、
心が貧しければ、不足のない世界から
どうにかして欠乏感を見出すのだろう。
幸せなら、嬉しいし、
不幸せは嫌だけれど、
幸せでも、不幸せでも、
満ち足りていても、貧しくても、
今の私には、価値はある。
ってことにしておこう。
間違っていたっていいのです。
どうせ仮説なのだから。
存在している価値と、価値ある自分は違います。
価値と自我の主観は、連動しません。
自我は働きであって、私ではありません。
価値観に正解はありません。
幸も不幸も、自我の主観です。
幸せな私と同じだけ、不幸せな私にも価値があります。
価値は、ずっと変わらず、今に溢れています。
価値を見出す今の私が存在する限り、
目に映る世界には、価値あるものが生み出されます。
なんて世界を仮定して、
今日を生きてみようかな。
fumori