どれだけ最低な自分であっても、感謝したくなる考え方。
私でいい。こんな私のままであれ。
あなたがいい。そんなあなたのままであれ。
私たちは、みんな違うけれど、
今という時を刻む命を等しく与えられている。
その命を使って、今、この瞬間を共有している。
各々がその命を使い、未来を創る。
命が、世界を未来へ導いている。
たぶん、そんなようなことなのだと思う。
わかってて、どうにかなるなら、
とっくになってるだろうけれど…
これまでだって、
より良い未来を思い描いてきた。
それが、今、全く活かされていないのは、
私の未来が、誰かの価値観だったから。
なので、現実的になにかする前に、
命を使えるようになること。
そのために、私を赦す。
この世の誰よりも恐れている自分で生きる。
ズルくて、利己的で、
見栄っ張りで、知ったかぶりで、
負けず嫌いで、
負けた自分を許せなくなったり、
相手を恨んだり、
その場限りの持論を振りかざし、
空気を悪くしても気づかず、
悪気なくデリカシーのないことを言い、
褒められると調子に乗り、
なんでもないことに腹を立て、
感情的になって我を忘れ…
自分で書いていて悲しくなってきた。
そのくらい本当の私は、ショボい。
単純で、感情的で、考えても的外れで、
人が怖くて、コミニュケーションが取れない。
けれど、
それは私ではない価値観にとって、
都合の悪い自己像。
私自身の価値観がそもそもよく分からないのだから、自分がどんな性格であろうと、恥じることなんてないんだよね。
好き嫌いだって、私自身の価値観とは限らない。
恥とか、誇れる自分だって。
なにが良くて、悪いのか、
今、決めることではないのかもしれない。
なので、
こんな私で生きてゆこう
と、思うところまでは至った。
ただ、やっぱり怖いんだよね。
人に会うと、シャッターが下りる。
読めないくせに、空気を読もうとする。
いたたまれない気持ちになり、
なにもできない自分が嫌になる。
どうしたら、最低な自分で居られるのだろう。
どうしたら、この自分を引け目に思わずにいられるのだろう。
そんなことを考えながら、夕日を見ていた。
今日も一日が終わる。
何もしなかったけれど、
そんな私でいい。そう思おう。
誰かの役に立たなくても、
明日に命を繋ぐことができた。
それさえできれば、十分だ。
私は命なのだから、
今日を無事過ごせたなら、
それだけで、仕事は果たした。
何もしてない?
役に立ってない?
命からしたら、今日の私は、
いい家主だったんじゃない?
朝起きて、トイレ行って、歯磨きして、
散歩して、勉強して、お蕎麦食べて、
歯磨きして、動画みながら寝てしまい、
夕方、ご飯を買いに行って、
これから食べて、お風呂に入って、眠る。
今日だけじゃない。
これまでだって、ずっと命に必要な行為に時間を割いてきた。
随分、雑だったし、無理もさせたけれど、それでも、今、生きている。
命を繋ぐために時間を使うなんて当たり前だ。
本能を満たさなければ死んでしまうし、
メンテナンスしなければ、不具合が起きる。
そんなこと、やって当然だと思っていたし、手抜きばかりする自分に幻滅していたけれど、十分やってたんだわ。
ちゃんと命を生かしてきた。
私たちは、命を守り、
継続させることが最大の役目。
だから、
親を神のように崇めて、
育ててもらおうとする。
社会にも迎合する。
正義感より、保身に走る。
価値観なんかのせいじゃなかった。
生存本能だ。
私は、自分の命を繋ぐために、
社会を利用して生きていた。
自分でそれを望みながら、
植えつけられた価値観から、そんな利己的な自分を嫌悪していたのだろう。
なにも為さず、誰の役にも立たない自分を。
それは、自分の命を自分で守り、繋いで行くと決めて、人生を歩いている人の価値観。
だから、体を鍛えたり、勉強したり、目標を持って人生を進むことができる。
私は、有り難い事に恵まれていた。
体が丈夫だったし、食うに困らなかったし、嫌々やらされたとはいえ、勉強もさせてもらえた。
どれもが、当たり前だった。
親なら、当然。学生なら、当然。
女の子なら、当然。
当然だから、不満だったし、
やらされていることに気を取られ、
やれる有り難みなんて思いもしなかった。
勉強するのは、当たり前の権利で、しかも、嫌でもやらなければならないことだったから。
大人になったら、自分の命を、
自分だけの力で養って行かなければならない。
学校とは、生きる技術を習得する場所。
最低限の知識と、身につけるためのスキルを探すための猶予期間。
やりたいことを探すなんて、
ハッピーな場所じゃない。
職業訓練校だと思えばよかったんだな。
だったら、建前のよくわからない子供に、みんな仲良くなんて、言わないでよ。
友達と遊ぶことを、学校へ行く理由になんてしないでよ。
空気が読めず、なんでも間に受けて、できない自分を責める私みたいな不器用な子にとって、道徳観念は精神の殺戮器具だった。
どうせなら、嫌いな人とも、うまく付き合う社交を学ぶ場所、とかだったらよかったのになあ。
と、大概の人は、思春期に気づくのだろう。
長い思春期。人生を無駄にしたな。
それでも、いま、生きている。
生きる理由がなくても、
社会的に失敗してきたとしても、
特に大きな病気もせず、
命を繋いでは来た。
体が丈夫で、運が良かった。
ご先祖様のDNAと
母が作ってくれたご飯のおかげ。
私は、何もしてない。
と、思っていたけれど、謙虚が過ぎた。
命を繋ぐという時間は、別段、楽しいものではない。本能を満たすことが、当たり前にできるのは若い頃くらいだ。
今では、食欲もないのに、ご飯を作らねばならないし、対して食べてないのに太るし、長時間眠れないしね。
眠れないのに、寝ようとしたり、
寝不足のまま仕事したり。
ただ、生きるだけでも、十分、面倒くさいよ。
それを、毎日、続けて来たんだよね。
ありがとう。おつかれ。
私の役目は、今日の命を繋いでゆくこと。
それだけでいいや。今のところは。
命を使って、役に立ちたいけれど、今、考えても、またなりたい自分を演じることになりそうだから。
なので、今日の私は、今日の役目を無事果たしました。
明日、目覚めたら、明後日に命を繋いでいこう。
それさえしてくれたら、
どんなに最低な自分でもいいや。
自己中な私でも、私の命を繋いでくれた人々に感謝してすることぐらいできるだろうから。
fumori