ポジティブシンキングが嫌いだった。
ポジティブシンキングが流行っていた頃。
心の中は、怒りや不満で一杯なのに、
前向きに捉え直そうとして、
えらい目に合った事がある。
ポジティブに変換すればするほど、
気分が滅入ってしまうので、
とっととギブアップした。
ポジティブシンキングは、
私に限れば、害悪でしかなかった。
そして、今朝。
創造という概念が変わりました。唐突に。
クリエイティビティって、
今はないものを作り出す力みたいなもの
だと思っているのだけれど、私の中では、
実際に作り出した結果のことだった。
現実化できる能力を、
想像力と解釈していた。
ただ、実際の工程に一番必要なのは、
あったらいいのに、と思えること。
思いつく能力。
イマジネーションとクリエイションは、
どちらも必要だけれど、違う力だった。
きっと、そんなこと当たり前だって
思う人ばっかだとは思うのだけれど、
私は無自覚だったんだよね。
その無自覚に気づいたら、
私の世界は、無自覚な思い込みで
構築されているかもしれない?
と疑わしくなったのです。
世界は私の思う通りにある
なんて、言ってみたものの、
その思いが無自覚に誤解していたなら、
私の世界は、私ではない価値観で
築かれた世界になってるわけよ。
私は、性別としては女だけれど、
女らしくはない。
女らしさなんて社会通念なので、
私の価値観ではないのだけれど、
女らしくない自分に対して
罪悪感的な感情を抱いている。
私ではなく、おかしいのは社会だ。
ずっと、そう思っていたのに、
自分が悪いような気がしていた。
無自覚に。
自分の中にある意味不明な
罪悪感に気づいたのは、
時代が変わったから。
男女の違いはあっても、
命としては対等であり、
同じ人間であること。
女としての立場ではなく、
命や人間として見れば、
比較する必要もないことだった。
引け目に感じていることが、
そもそも勘違いだった。
現実は、ニュートラル。
なのに、
私にとってのそれがタイトなのは、
私の解釈が、ニュートラルではないから。たぶん。
自分のものではない概念や
偏った価値観によって、
世界を認識するから、
生きにくい現実になるのかな、と。
社会通念が悪いのではなく、
それを当たり前のものとして
無自覚に自分の常識として
受け入れてきたこと。
経験き基づき採用した価値観が、
自己防衛的な立場であったり、
利己的、被害者的な視点だったり、
一方的であること。
自分以外の概念と、偏った価値観。
なら、私の無意識は、
殆どが、思い込みと勘違い。
生きにくいのも当然です。
この仮説が真実なら、話は簡単。
生きやすい世界観に書き換えればいい。
それだけ。
現実がニュートラルだとするなら、
私が生きている世界は、
私自身の認識でしかなくなります。
現実の事象を不当と断じる価値観があるから、
現実をタイトに感じるのかもしれません。
納得できるかはさておき、
心の世界は、立証する必要がないので、
基本、何でもあり。フリーダムっス。
なので、
現実が解釈でしかない、と信じる。
その上で、
価値観や解釈や意味を変えれば、
世界は変わるはずです。
価値観の更新。アップデートです。
ただ、今朝、私が感じたのは、
更新というより、新OSのダウンロード。
過去の辞書と比較すると、
言葉の解釈は時代によって
変わるものもあると思います。
新しい見出しがつくことも。
それが、アップデートだとすると、
解釈は当然として、版や、出版社、
表記されている言語まで変わった感じ。
私の世界観は、解釈で出来ている。
言葉によって理解できるものしか
認識しない世界。
辞書に記載された言語や解釈以外は、
認識できないというルールがあるらしい。
私が望む変化って、
私自身の辞書を新しくすることだったのかも。
今朝、私が創造力の解釈を変えたことで、
私の世界は、想像を創造する世界に
変わった気がします。
元より、世界は私の思う通りにある
というおいしい価値観を採用していたのですが、
創造に関する認識によって、不適合が起きていた。
だから、思う通りにはならなかったのかも。
クリエイションを生み出す
イマジネーションの凄さって、
概念を紡ぐことなのかもしれない。
今はないものを実現させるための
現実的な能力とは真逆の、非常識な視点。
それは、たぶん、圧倒的な主観。
わがままとか、利己的とか、
そういった社会通念で押さえつけられている
自分自身の本質。
それが、想像力の起源。
想像力がないとか、発揮しろとか言われても、
たぶん、できないんだよね。
今ある価値観を疑わない限り。
社会通念を間に受けている限り。
もちろん、
社会通念が間違っている訳ではなくて、
あれは社会で上手く生きるためのマニュアル。
大概はその通りに生きていれば、安泰だし、
誰かを傷つけたりしないし、
自分が傷つくことも最小限で済む。
けれど、
和を大切にする社会通念は、
言われたことをやるための
能力は高まるけれど、
マニュアル以外の発想を
ジャッジしてしまう。
今ない発想は、大方、
否定されてしまうんじゃないかな。
無意識に。
想像力を発揮するためには、
社会的ないい子の領域から出て、
全てが選べる主観的立場から、
みんなにとってより良い世界を
自分自身の幸せとして選ぶ。
そのくらい徳が高くないと、
難しいんじゃないかしら?
本能的な主観に従って、
利己的な世界を選んでいたら、
破滅しそうだし。
概念を生み出す力が想像力だとしたら、
世界を作り替えるほどパワフルなもの。
有り余って、破壊の限りを尽くすくらいに。
だからこそ、
相手の世界を侵さないスキルが
求められているのかな。
コミニュケーションが苦手なのは、
互いの世界が共存する距離感や
バランスを学ぶため??
だとしたら、
社交スキルが抜群にならない限り、
私のパワーは封印されたまま?
それが、私の課題。
バランス感覚。
コミニュケーションなのね。
想像力と創造力。
世界を破壊し、より良い世界を構築する
神がかったパワーは、私たち全ての命に
等しく与えられたギフト。
あるかどうかは別にして、
あると信じられるなら、得られるもの。
それを発揮できる世界で生きられたら、
この世界は素晴らしくなるしか
ないんじゃないかな。
願っているのは、そんな世界。
現状を肯定し、あるものを見て安心して、
呑気に暮らしている。
いいなと思ったら譲ってもらい、
欲しいと頼まれたらプレゼントする。
分けられないものは、一緒に使う。
時間に縛られず、
それぞれのペースと価値観で、
いい加減に生きて行きている。
もしかしたら、私たちは、
望む世界で生きられるのかもしれない。
その世界が、解釈で成り立っているのなら。
命に与えられたパワーは、封印されている。
封印の鍵は、それぞれの課題をクリアすること。
そんなRPGみたいなシナリオがあるなら、
それすら書き換える力が私たちにはあるのかも。
台本も言葉でできているから。
互いにとって害のない距離感を学び終えたら、
呑気なパラレルに移行できるのかしら?
ルールを書き換えたら、
クリアしなくてもなんとかなるかも?
どちらにしても、
新たな扉が開くことは、確実。
どんな世界か期待しながら、
もう少し社交スキルを学ばせてもらおうかな。
私の願うハッピーな世界を
壊さないでいられるように。
そんなことを考えている私って、
能天気で、すこぶるポジティブだと思うのです。
これが、世の人々が言ってる
ポジティブシンキングだったんだ。たぶん。
現実を肯定した上で、楽観的でいられること。
未来や、自分自身への信頼があるから、
確証がなくても、変わる方を選べる。
失敗するリスクを取れる。
私が嫌っていたのは、
ポジティブシンキングではなかったらしい。
ボロクソに言って、ごめんなさい。
fumori
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