守るべきは、プライドではなく本音だった。
無意識にジャッジしてしまう癖が嫌だった。
ずっとなんとかしようともがいてきた。
けれど、もう止めようと思う。
ジャッジが問題になるのは、
都合よく相手のせいにできるから。
自分は悪くない。
それを、サポートするために
ジャッジが必要だった。
けれど、現実をニュートラルとしたら、
どちらが正しいもなくなってしまった。
今ある現実は、単なる解釈。
私自身の認識、目線、価値観。
そんな個人的な偏った観点で、
現実をジャッジしていた。
客観的な視点を得るためには、
相対的な欲の価値観から抜け出して、
どちらの価値観も肯定する愛の視点しか
ないと思うのだけれど、
全部を肯定されても、むしろ困ります。
こんな世知辛い現実で、愛に溢れていたら、
身包み剥がされ兼ねないもの。
つまり、現実を否定する感覚も、
非常に大事なわけですよ。
当たり前なのだけれど。
なら、誰かのせいにしない限りは、
好き嫌いをジャッジしても何の問題もないのでは?
そう思うに至りました。
私には、本音と建前の意味がわかりませんでした。
使い分ける必要があるとは思えなかったからです。
心を偽ることが、気持ち悪くて堪らないので、
思ったことをそのまま言ってしまって、
顰蹙を買う人生を送ってきました。
なので、嘘をつかずにいられるよう
表に出してはいけない自分を押さえつけ、
消去しようとしてきました。
が、うまくいくはずもなく、
いい人であろうとするほど、
気が滅入ってしまいました。
いくら我慢しても、
人から好かれるとは程遠かったから。
人から嫌われることが怖くなり、
顔色を伺うようになり、
自分以外のキャラを演じるようになり、
いつしか自分の好きなことも
わからなくなってきました。
けれど、現実はニュートラルであり、
私の世界は、私が意識するものを
映し出しているだけということを体感し、
ジャッジすることの大切さを知りました。
むしろ、
ジャッジは人間にしか出来ないこと。
あるがままを肯定する
愛の視点には、選べないもの。
人間だから、嫌うことができ、
逆に、本能を凌駕するくらい
好きなものにも出会えるのです。
たぶん。
個であり、個性があり、
相対的な世界に生きているからこそ
私たちは、ジャッジすることができる。
人を批判することだって、才能なのだ。
ただ、攻撃すればやり返されても文句は言えないので、
ベクトルは自分に向けておく方が無難。
自分の見ている世界は、
偏っているから、他者を批判しても
的外れになりがちだから。
自分の世界観を押し付けず、
相手の世界を侵略せず、
分かり合えない場合は、
程よい距離を保ち、
自分の世界の好き嫌いを
自分の世界で自由にさせておく。
心が自由なら、嘘をつく気持ち悪さもない。
相手が嫌いでも、いい。
現実に心を合わせなくていい。
ジャッジして、ぼやいてもいい。
これが、建前の素晴らしさだ。
嘘じゃなく、心に嘘をつないため。
心に嘘がなければ、
自分を嫌いにならずに済むかもしれない。
建前を駆使して、本音を守ろう。
守るべきは、
プライドではなく、本音だった。
好き嫌いで生きてゆこう。
本音を偽らず、清々と。
fumori
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