心は、望んでいるのではなく、願っている。

生きることを怖がらず
挑戦して、失敗して、
経験して死んでゆきたい。

そんなことを考えていたはずなのに、
愚痴と嫉妬ばかり書き込んでいる。

いつのまにか自己受容が、
人生への諦めに成り代わっている。

諦めることで過去の後悔は減ったけれど、
未来に期待することもなくなった。

可能性に期待しなくなり、
夢も見れなくなって、
現実の自分と向き合ったら、
あんまりにもショボくて、
振り返ってもなにもなくて、
未来にも希望はなくて、
命の価値が値崩れしてしまった。
そんな気分。

もちろん、命は尊いのだけれど、
たぶん、そのはずなのだけれど、
納得できる理由もないまま、
いつかは必ず奪われる。

ずっと一緒にはいられない。
年齢分の経験しか得られない命を
頼るのは、心もとない。

自我は消滅する。
私の世界は、滅亡することになっている。

失われる人生を、
どうやって生きたらいいのだろう。

なんて、まともに生きてこなかった
人生への言い訳。

きっとまともに生きてきても、
虚しさには襲われただろう。

そのくらいら
自分を認められないし、
赦せないし、愛せないということ。

それは、認められたいし、
赦されたいし、愛されたいという願望。

心が淋しさで満たされているから。
そんな心に無自覚だから。

淋しさを紛らわせるために人生がある。

それが生きる理由だとしたら、
まあ、認めたくないですよ。

なんの根拠もなく、
もっと立派な人間だと思っていたし、
そんな自分にふさわしい人生がある
と思っていたくらいだから。

人のためになったり、
世の中に影響力を与えたり、
自分にしかない表現ができたり、
なんらかの底力がある気がしていた。

今はまだ本気出してないだけ。
時代が私に追いついていないだけ。
なんて。

そうでなければ、
こんな人生を生きてきた自分がいたたまれない。
ここまできたら、見返り的なものが欲しい。

人生に対するクレーマーですわ。
やれやれ。

別に、淋しさを紛らわせる人生が、
虚しいものとは限らない。

淋しさは単なる原動力。

淋しいから、行動し、協力し、
過去とは違う今を選択することができる。
不安に臆せず、多様な経験ができる。

結果が、失敗であろうと、
淋しさは紛れたわけだから、
本質的な欲求は満たされている。

なら、望む通りに成功しても、
虚しさを感じるのは、なぜだろう?

行動の末の変化はあるのだから、
淋しさは紛れたはず。

その淋しさに無自覚だから?

なら、どんな現実であれ、
人並みの生活を営めるなら、
淋しさを自覚して、
紛らわせていれば、
充実感を感じたりするのかな?

やりがいのある仕事とか、
生き甲斐になる趣味とか、
気のおけない仲間とか、
贅沢に過ごせるお金とか、
存在してくれる限り幸せでいられる推しとか、
心の平穏を得られる信仰とか、
自我が欲しがりそうな対象がなくても、
満たされた実感は得られるのだろうか。

自己実現に至らなくても、
理想の自分にならなくても、
欲しいものを得られなくても、
気を紛らわせるだけで、
虚しさや淋しさを感じずにいられるのだろうか?

何もない今のリアルな自分に安心し、
他人の人生を羨んだりせずにいられる?

自慢できるほどの幸福はないけれど、
不幸せとは言えない人生に満足できる?

本当に??
疑いの滲んだ自我の問い。

愚痴や不満、嫉妬や羨望。
それは、人の本質。
感じないではいられない。

自分以外の人生は、
羨ましいか、
自分よりはマシか、
自分の方がマシか、
ああはなりたくないか。

他人の幸福を心から喜べるのは、
自分に余裕があり、且つ利害のない
相手に限っているのは、私だけ?

利己的で、狭量で、意地汚い。
そんな人間。
それが私という人間性。

認めたくも、赦されたくも、愛されたくもない。

そんな最低な自分は、
理性によって拒絶され、
存在自体を疎まれた。

疎まれていたのは、ここ。

芽が出た以上、根が絶えることはない。
摘み取ることしかできないのに、
芽吹くたびになかったことにされ、
心を覆い尽くすほど蔓延ってしまった。

身動きが取れなくなった心は、
声を上げるしかなかった。
届かない声は、願いになった。

認めてほしい。赦してほしい。愛してほしい。

心の声は、欲望ではなく、祈願。

現実ではないから。
精神世界は、意識が変わらない限り
再構築しないから。

心は、祈ることしかできない。

祈りは、現実とは共鳴しない。
現実にないものを求めるのは、欲望と同じ。

が、もっとアバンギャルド。
祈りの声は聞こえないくらい小さいのに、
妥協しない。譲らない。

頑固だけれど、確信している。
気分で左右されたりせず、
求めているものを知っている。

認めたくない自分。
赦されるはずもない自分。
愛されてはいけない自分。

人間性の拒絶。
いい人になろうと努力した挙句、
人間でない存在になろうとした罰。

私の中にある拭えない恐怖は、
誰かに疎まれたという感覚。

きっと人生のどこかで、
そんな悲しい経験をしたのだろう。
…なんて誰かのせいにしていたら、
私が犯人でした。

私という自我が、
私の中にある人間性を疎んでいた。

自作自演と自己欺瞞。
そりゃ、人生空っぽなはずですよ。

リアルな人生には、見込みがない。

だから、精神世界に逃げ込んで、
気持ちの上だけでも惨めさを回避したいのかも。

不幸せではないけれど、
今あるのは、失いたくない幸福くらい。

幸せな濃度が薄い。
氷の溶けきった真夏のカルピス。
甘いけれど、薄くて、温い。

何もない人生に幸せを感じられたら、
それは素晴らしいけれど…

楽に生きたいのなら、
ベストなチョイスだけれど…

幸福が現実に作用されないのなら、
望んだものがある人生の方がよくない?

失いたくない幸福に加えて、
得たい現実まである人生は、どうでしょう?

欲望で心が満たされることはないけれど、
淋しさを紛らわせることはできるし、
上手くいけば、手に入るなにかがある。

スキルであったり、人間関係だったり、
お金だったり、思い出になる失敗談だったり、
有頂天になれるくらいの体験だったり。

そんな欲得を狩りに行ってみませんか?

 fumori 



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