死にたいは、生きている。
死にたいと思うのは、生きたいから。
そんなフレーズがあるけれど、
死にたいと感じている時、
生きたいとは思えない。
言葉は、相反する意味を持つ。
なら、真実なのかもしれない。
けれど、
自覚しにくい。フィットしない。
うまく置き換わってはくれない。
言葉の重みがそのまま
心にのしかかってくる。
死にたいという自覚もないまま、
死にたいと言う声を受け止めるのは、
気分のいいものではない。
夜中に目覚めたら、
ちょうど二時だった。そんな感じ。
それ以外の時間なら、
もったいないとしか思わないのに、
妙に心が騒ぐ。
根拠のない不吉感を
進んで負ってしまう感じ。
勝手に意味付けて、
勝手に心を重くする。
嫌なのに、払拭できない。
いっそのこと死にたいというのが本心なら…
とさえ思いたくなる。
少なくとももやもやせずに済む。
そして、今日、
不吉感漂う真夜中の二時に目覚め、
唐突に確信した。
やっぱり死にたいは、生きたいとは違う。
死にたい思いは、
今、生きているから願うもの。
今、生きているという状態が、
死にたいの対義語。
死にたいは、今生きている。
それだけのことだった。
不吉でもなんでもなかった。
感じたかった本心は、
当たり前に、無自覚に
ただ生きていること。
生きている今だった。
死を願うことは、
幸せを願うことに似ている。
幸せになりたいと思っている間は、
今ある幸せには気づけない。
失えば不幸だとわかるけれど、
願いの前提は、今にないものだから。
今あるものを、願うことはできない。
なので、
今あるものに感謝するだけで、
幸せになれるはずなんだよね。
とは言え、
せっかくの俗世だ。
欲を捨て切って、ストイックに生きる
だけではもったいない。
負担にならない程度の欲は満たす。
ちょっとしたハッピーで今を満たす。
そうやって、
今を幸せで満たした先の未来に
幸せな人生は訪れる。
今ある幸せに感謝しつつ、
小さな幸せで今を満たす。
きっと大きな夢を叶えなくても、
幸せにはなれるのだろう。
世の中の大人たちは、
そうやって日々を生きているのだろう。
生活の安定と、ささやかな幸せ。
それだけでは退屈だから、
煩悩を満たすための
趣味や娯楽や芸術や教養や社交を求める。
ゴシップやマウントは、
いい刺激なのかもしれない。
慣れきった幸福の中にいながら味わえる
リスクが少ないスパイス。
社交的で、知的であることは、
身の丈に収まりながらも、
人生に退屈しないコツなのかも。
さて。
教養がなく、社交嫌いな私は、
どうしたらいいだろう?
趣味に生きたくても、趣味がない。
何が好きで、何が得意かわからない。
すぐに人と比べて、やる気をなくす。
一番になりたいという願いは大きく、
欲望に見合う努力はしない。
それが、本音だ。
趣味なのだから、
やっている行為が楽しいのだから、
楽しくなくても
やりたいことに時間費やしていることが
なによりの贅沢なのだから、やってみればいい。
未来に期待しても、
結果には期待しない。
人生をどう使うか。
それを選んでいるだけ。
やりたいこととか、
成し遂げたことではなく、
命の本質は、今を選ぶこと。
時間を費やすこと。
たぶん、今ある人生も、
そうやって選んできのだろう。
望み通りの人生ではなかったけれど、
それは、今ないものを望んでいるから。
私が人生に望んできたことは、
今、望んでいることではなかったから。
なにも得られていないのは、
楽することを選んだから。
何かを身につけるために
苦労する時間を避けて、
できる限り何もせず、
楽に生きられる選択をしてきた。
だから、なにも得られなかった。
やりたいことよりも、
成し遂げることよりも、
のんびり苦労せず生きたかった。
子供のまま、誰かに守られて、
安心して生きていたかった。
庇護されることと引き換えに、
不自由を受け入れてきた。
なら、押し付けられたのでは
なかったのかもしれない。
私が選んでそうしたのかも。
楽に生きるために。
苦労しなくて済むように。
選ぶことはできた。
子供の頃は別として。
私は、選んでこの人生にたどり着いた。
望まない人生にも、メリットはあった。
強要されたように感じたことも、選択だった。
自由より、技術より、
得を選んだだけだった。
願いは、今はないもの。
探している願いは、
失った今にあるもの。
幸せになりたいのなら、
大きな夢を追いかける前に、
失ったら不幸になるものを探してみる。
今ある幸せに感謝して、
小さな欲望を満たす。
今を満たすだけなら、
さほど労力はいらない。
甘いものを食べる。
コーヒーを飲む。
背伸びをする。
寒さを感じたら羽織る。
トイレを我慢しない。
深呼吸する。
今、感じていることに気づく。
言葉は自我に囚われやすい。
意識よりも、本能や感覚を満たす。
たぶん、それだけで不幸ではなくなる。
幸福も主観なので、
本能に不満がなくなれば、
不幸ではいられない。
なら、退屈に不幸を感じるのは、
間違っているのかも。
不幸せなのは、今を感じていないから。
今ある幸せに感謝しても、
本能を満たしても、
望んでもいないのに
死にたいと思うのは、
たぶん、そのせい。
今、生きていること。
それを、感じたいという欲求。
気づいて欲しかったのは、それ。
生きたいという願望ではなく、
生きている今という状態。
今とともにある命であること。
なら、死にたいは、
命の声だったのかもしれない。
fumori
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