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幸せになるために生きることをやめやうと思うんだ。

幸せになるために生きてきた。

個人的だし、主観的だし、
ありきたり過ぎるけれど、
それが答えだった。

「何のために生きているのか?」

生きる理由がわからない代わりに、
生きる目的が必要だった。

幸せになるために生きる。

そう定めたら、
私にとっての幸福とは何なのか?
という問いが生まれた。

条件ではなく、自分を肯定するあり方。

そんな答えにたどり着いたら、
今度は、嫌いな自分を肯定する方法を
探り出した。

そんなことを繰り返している。

これだと思ったら、次の課題。
前進しているようで、
同じことの繰り返し。

たぶん、私の目的は、
「幸せになる」ことではないのだろう。

なので、「幸せになりたいのになれない」
ことも、問題ではなくなる。

では、私の人生の問題とは?

生きる理由が間違っていること
だったりしないだろうか?


あるがままの自分を肯定する。
幸せになるために。

けど、どう考えたって、無理。
そんな現実は、存在しない。

今の私が、自分の全てを肯定したら、
自分以外の価値観を否定することになるから。

社会とは、他人と自分の関係性。
それが、私の答えなんじゃないのかな。

何のために生きているのか?

私は、他者とうまくやりたい。

そして、社会の中にいて、
安心していたいのだ。たぶん。

ヒヨっているのです。

本当の願いは、
幸せじゃないと知っているから。

けれど、それに気づいてしまったら、
変わらなければならなくなるから、
決して手に入ることのない幸せを
探すことで、迷路にはまり込んで、
変わることを避けてきた。

本当の願いは、現実と折り合いをつけること。

無敵な自分を手放すこと。


今朝、しみじみ感じた。
我が家は、業が深いのだと。

葬式仏教徒でしかない私に
語るほどの学はないので、
間違っていたら、ごめんなさい。

ただ、起こる全てを業だと思ったら、
これまでの理不尽な人生の意味にも
納得できたんだよね。

運命とか定めとか、
そんな大したものではないのだけれど、
ずっと私個人の問題だと思ってきたことって、
家族内の歪だったんだな、と。

私を通して表現されているだけで、
個人の資質とか性格より強力な、
逃れられないしがらみに
巻き込まれていただけだった。

生まれながらにそんな状態だったから、
そんな狂気の渦に溺れている自覚すらなく、
むしろ、疑うことなく、歪んでいった。

何をしても、良かれと思ったことすら、
歪みを生み出してしまうのは、
私自身が歪んでいるから。

そして、生まれながらに
歪んでいるからこそ、
クリアな世界というものがわからない。

クリアな世界とは、こういうもの。
そんな夢や憧れを詰め込んだ
イマジネーションの世界すら、
歪んでいる。

歪んで視界で真っ直ぐと思っても、
歪んでいない人から見たら、
歪んでいるのです。

歪みを自覚しながら、
歪まないように努力するほど歪んでゆく。

そうやって、歪みは連鎖してゆく。

自分の不出来な個性は自覚できても、
無意識の歪みは、自覚しにくい。
気づいても、直しようがない。

そんな何かを、業と呼ぶのなら、
我が家のそれは、地の果てより深い。

私の個性は偏っている。
その個性から見る現実も、偏っている。
それは、死ぬまで変わることはない。

いい悪いは別にして、
オリジナルであることが、
人として生きるということだから。

同じように、
私が見ている現実は、
業によって歪んでいる。

いい悪いは別にして、
歪んでいることから
逃れることはできない。

受け継いでしまった以上、
その影響力から逃れることはできない。

自分が歪んでいるから、
見える現実が歪んでいる。
そう常に思い出すこと。

理不尽な現実は、
個性の偏りと受け継いだ歪みによって
生み出されている。

私は、偏りと歪みの世界を生きている。


何のために生きているのか?

正解はないけれど、たぶん、
私の命に限っては、理由なんかないのだろう。

生きるということは、業だと思うから。

業を解消して、苦労なく生きようとか、
天国へ行こうとか、魂を成長させようとか、
自分を納得させる理由なんか、いらない。

私は、今、生きていて、これからも生きる。

楽しいこともあれば、
嫌だな、と思うこともある。

どっちも、業だ。
歪んでいるから、そう感じられるだけ。

なので、本当は、
どう感じてもいいのだと思う。

今、楽しいことだって
飽きればつまらなくなるように、
今、辛いことだって、
面白く感じたっていいんだよね。

ずっと辛いって思ってきたけれど、
辛さに飽きてもいいわけよ。

今、感じていることに、意味はない。

何を感じても、どれも業なんだもの。
歪んでいるんだもの。
本当にクリアで歪みのない感情なんて、
私は知らないもの。

業こそが、私なんだもん。
堂々と、そう思えたらいい。

私自身であることを、
人生そのものを業として捉えてみる。

そこには、いい人生も、悪い人生もない。

私の人生があるだけ。

誰もが業を生きていることにすれば、
相手との関係性が悪かったとしても、
業の相性で済む話じゃない?

性格とか、行為なら、
解釈を変えればなんとかなるとか思って、
頑張ってしまうけれど、
業ならしょうがないもん。

歪んでいるのは、無意識だし、
勝手に背負わされたものだから、
本人のせいですらない。

相手が悪いと責めることも、
自分のせいだと落ち込むこともない。

ただ、業の相性がよくないだけ。

今を否定しない。

そんな風に考えられたら、
平和な人生になるんじゃないかな。

私が願っていたのは、
今を否定しない考え方だったのかもしれない。

自分も相手も現実も、
納得のいかない全ては、
私自身の歪みであり、
私同様、相手にも歪みがあり、
誰のせいではない業に翻弄されている。

私たちは、それぞれが抱える業に
悩み苦しんで生きている。

だからこそ、
赦し、認め、愛されることを求めている。

自分の業を赦すこと。
認め、愛することは、
私以外になる可能性を諦めること。

だから、手放せなかったのかも。

理想の自分。無敵で最強の自分。

そうなりたいから、手放せなかった。
けれど、自分以外になる憧れを手放せば、
残された私って、最強なんじゃない?

歪んだ世界でしか生きられない。
そう覚悟を決めれば、
自分以外で生きずに済む。

今、ここにいる自分だけでよくなる。

成長とか、変化とか、
そんなことより、今を否定しなくて済む。

私が欲しかったものって、
今だったのかもしれない。

fumori

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