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24時間テレビを見たくない人がいても良い。チャリティーの意義とヤングケアラーだった当事者の思い③
前回のつづき
いまほど放課後等デイサービスや福祉のサービスが整っていない時代に、障がい児を育てる若い母親の味方となってくれるのは家族でした。
きょうだいは特別支援学校に通っていましたが、教師がきょうだいをみるのは、あくまで学校にいるときだけ。
学校から離れてからのケアや母親の精神的な負担を埋めてくれることはありませんでした。
そして一番なんでも話せて、文句も愚痴も言えて、手っ取り早くストレスのはけ口となるのがきょうだいであるわたしだったのです。
わたしも生まれてからきょうだいが普通と違うということが当たり前の環境で育ってきたので、母親の言うこと、母親の話す愚痴、それを真に受けてしまっていました。
・きょうだいを中心にして休みをどう過ごすか考える。
・きょうだいが行けるところや食べるメニューがあるところにだけ外出をする。
・きょうだいがいることで嫌な目に遭ったという母の愚痴を聞く。
・きょうだいがいなければ自分はこんな生活ではなかった、違った生き方ができたという愚痴を聞く。
そしてその生活というのは実は私が20代後半になっても、これが続いていました。
✅できないことを受け入れることは卑屈になる
母親も年齢を重ねて若いころのように、子にそそぐエネルギーはなくなりました。
きょうだいに対しては大人になっても同年代のように成長できないことで諦めの境地に立ったのかもしれません。
母親は次第にどちらかというと怒りよりは卑屈になっていきました。
それは母親として同年代の子をもつ人と比べてしまっているからかもしれません。
人は成長とともにライフイベントがあり、進学や成人式、就職や恋愛や結婚などもありますがきょうだいにはそのどれもなかった。
大人になったら、〇〇の仕事には就けないだろうか、〇〇ができるようになるのではないだろうか、お金の計算や一人でバスに乗ることができるようになれるのではないか・・・
そういった期待が一つずつ「できない」という現実を受け止めていくことになっていくのです。
いま思うと専業主婦を選んだのは、人との関わりを意識的に避けてきたのもあると思います。
どこから母が変わっていったのか分かりませんが、母の唯一の味方であり、イエスマンであるのはわたししかおらず、またわたし自身もそんなかわいそうな自分という母を見捨てられないと思ってしまっていたのです。
母の依存はわたしに向かい、わたしも母がかわいそうな人だと思い込んでしまうことで母の話を聞くというメンタルケアを続けることになっていました。
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ただ、やはりどこかで
「うちって変だな、これって重くない??」
と思うことも度々出てくるようになります。
特に異性とお付き合いが始まった頃などは母の意見を聞きすぎたり、母の話を彼氏にすると
「それって・・・」
と濁されることが出てきました。
人の家の母親を、まして彼女の母親を悪く言うことはできませんよね。
それでもちょっと変じゃないと言われることはありました。
わたしは20代後半になり、あることがきっかけとなって家を出ることになります。
家を離れてみて思うことは
「やっぱり自分の家は、母はおかしかったんだな」
と思うものです。
そして自分の意志で自分の休日を使うことができるという当たり前のことを身に染みて感じています。
ひとに合わせてばかりの生き方だったのが、
自分の意思をもつということ、それを大人になってからわたしはようやく自覚していったのです。
続きは次回
発刊年数は古いものですが普遍的なきょうだいの悩みが書かれている一冊です。
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