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芸術の危機と夏休み

この間、数日ぶりに昼間に外に出て自転車に乗ったらあたたかな日差しと隣を走る風が心地良かった。こんなにはっきりと分かるのだろうか、というくらい秋の気配を感じた。少し、春みたいな匂いがした。

去年の私には感じられなかった感覚だった。進化がなくてつまらない自分に悶々としていたけれど久しぶりに成長を感じることができて嬉しい。

最近は大学生二度目の夏休みで何をしているかというと、バイトに行ったり高校の友だちに会ったり瀬戸内海に旅行に行ったりとまあ、確かに充実している日々である。

去年の予定を入れすぎてだらだらする時間がなかった、という後悔を生かして今年はかなりひとりでのんびりする時間がある。こういう時間が1番大切だったりする。
私はとにかく趣味に時間とお金をかけすぎる(その為に友だちが離れそうで怯えている)のでそれらに費やす余裕があるのは嬉しいことだ。

まあ特に何をしているかざっくり書くと、源さんのエッセイを読んだり音楽を聴いたりMIUと逃げ恥を見返したりラジオを聴きながら編み物をしたりたまに映画館に行ったり、、、である。
(お気付きだと思うがとにかく源さんの沼にズブズブの状態なのである)

ただ、こんな呑気な日々ばかりはそれはそれで向いてないなと思った。昔から学校と習い事と部活と、、、とスケジュールギチギチが通常運転だった私には慣れなすぎることだし、何より生活が狂う。人間、生活がすべてだと思っていて、楽しいことも嫌なことも面倒臭いことも起こるような生活の中でこそいろいろな考えがうまれてそれらがいつかの自分を形成する。

ただ今はそうして生活や触れた芸術から吸収したものをそのままにしてしまっている自分にとても憤りを感じている。

芸術を消費するものとして扱いたくないしそんな気は毛頭ないけれど、生き急ぐように本を読んだり映画を観たりしている自分もそれに加担しているのかと思うと恐ろしくなった。先週のANNスペシャルウィークのファミレス回で若林さんが「エンタメが消費されるのが早すぎる」と言っていてドキリとした。最近自分が考えていたことと同じだったから。私は同じ音楽を何年も聴くし同じドラマを何周もするし同じ映画を何回も観ている。中学生からずっと同じアーティストが好きだ。けれど新しいものを常に求めているのは事実だった。

そしてずっと、芸術の受け手でしかいられないことの焦りをどうにかするように今日も文章を書いてみている。
文章を書くのに自信はないし、ただの発散と趣味でしかない。けれど高校3年生の時に大好きな現代文の先生が授業が始まる前に私に言ってくれた「○○さんはいつも上手な文章を書くね」という言葉がずっと胸にある。というか、その言葉が自分を肯定するひとつの欠片になっていると言っても過言ではない。

でもやっぱり別に特別文章が上手いわけでも語彙力があるわけでもないからここら辺にしておこうかな。また気が向いたら誰が見るわけでもないけど言葉にしてみようと思う。必要に迫られたレポートは進まないけれど好きなものを書くのは楽しいから!

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