日記② 2020.4.14 象徴ついて
(前回の続き)
さて、前回の日記で僕は平行世界について、というよりもっとぶっちゃけて「現実が辛すぎて平行世界とかかんがえないとやってられない」みたいな事を書きました。
読んで下さった方ならよく分かると思いますが、僕は前回あえて主題を隠して文章を書きました。
それは当然の事ながら主題を書けない、書きたくない理由がある訳で、今回も、と言うか今後そのことを書くことはないと思います(たぶん)。
しかし僕は今それのせいで苦しんでいる。それをなんとかしようとして文章を書きたいが直接書くことはできない。このままでは八方塞がりです。
そこで今回は切り口をかえてみようと思います。僕のプライベートな問題の憂さ晴らしになりつつ、ある程度公共性が有りそうな切り口。
「象徴」という言葉があります。口語的に使うことは滅多にない言葉です。どちらかと言うと評論語にカテゴライズされてしまう場合が多いでしょう。
ただ、最近僕はその言葉はそんなに抽象的だろうかと考えるようになりました。なんと言うか、それはもっと身近で、生活に密着しているように思えてならないのです。(論理的に飛躍してる?)
例えば小学校の時に好きだった人とたまたま会ったとしましょう。その時きっと僕らは単に幼かった頃の日々を思い出すだけでなく、その時に抱いていた感情や感覚を思い出して、それを通した現在の自分の姿を見るのではないでしょうか。
単に過去を回顧するのではなく過去の感覚を伴って今の自分を照らしてみる。その時に、「未来を選択した自分」がいた場所に来てそのあり得た未来の可能性を目の当たりにして僕は、それでもそれを選ばなかったと言う事実からは逃れられないと自覚してどう思うだろう。
その瞬間、僕の中の「思い出」はやや歪な形に変形しはしないだろうか。
今回はここまでですまたよくわからないオチになってしまいました。どうなることやら……。