アウシュヴィッツ・ビルケナウ見学に行ってきた話
アウシュヴィッツ見学に行ってきました。みんなここに行くべき!と思いつつなかなか難しいと思うから、どんな感じだったかまとめてみます。
まず色々あってドイツに短期滞在することになって、ドイツに滞在するならナチスのことは調べなきゃと思って、そしたらやっぱりアウシュヴィッツにも行かなきゃ!と。ユダヤ人が虐殺された、ホロコーストが行われた場所。
ドイツってなんとなく過去の加害性を鑑みて、反省して、忘れないようにしてるイメージが元々あって、例えば道にはゴールドのプレートが配置してあったり。これは殺されたユダヤ人の住んでいた場所に配置されていて、名前と、亡くなった収容所が書いてある。(フランス、オーストリア、オランダにもあるらしい)日常にこういうものが混じってるのはホロコーストを風化させないために良いことだと思う。
あと私はアウシュヴィッツはドイツにあると思い込んでたけど、アウシュヴィッツはポーランドにあるのです。びっくり!(びっくりってゆーか、私がただの無知なだけなんだけど、こういう無知な人がアウシュヴィッツに行ったらこんなふうに思ったよみたいな記録でもあるよ)
行くことを決めて、調べて、唯一の日本人ガイドの中谷剛さんのツアーに参加したいと思いました。中谷さんのツアーは、メールで直接予約しました。(アウシュヴィッツ 日本人ガイド 連絡先、とかで検索したらすぐ出てくるよ!)なかなか予約取りにくいらしく3〜4日候補日を出したほうが良いらしいのでそんな感じでメールしました。ツアー10日前くらいには日程確定する感じ、余裕持ったスケジュールのほうが良さそう!
行く前に、アドルフに告ぐとアンネの日記と中谷さんの本を読んだ。あと荻上チキのsessionってラジオのアーカイブで、アウシュヴィッツ取材回もあるからそれも聴いて行った。
アウシュヴィッツはポーランドのクラフクという都市から電車かバスで1時間ほどの場所にあります。私は移動費を節約しまくってたので、夜行バスでベルリンからクラフクへ向かって、クラフクから電車でアウシュヴィッツ博物館の最寄駅へ向かいました。駅から20分くらい歩いてアウシュヴィッツへ到着。のどかなエリアだった。
中谷さんご本人を探して合流。何故か私が参加した回は全員女性で、人数は8人くらい。中谷さんには現金でガイド料を支払います。ユーロか、ズロチ(ポーランドの通貨)どちらでも可!
まず入り口を入って真っ白な道を歩いて中へ向かいます。その道で何か音声がずっと流れていて、それは殺されたユダヤ人の名前なんだよね。名前がわかっているのは1500人のみ。ほんとはもっとたくさん殺されているそう。名前の記録が残っている人はつまり、収容されてそこで強制労働をされた人だけ。その他大多数は、アウシュヴィッツに到着次第すぐガス室に送られて殺されたそうです。
最初にアウシュヴィッツに収容されたのは、ナチスに対して反逆したポーランド人。ポーランドの人々からしたら、彼らは英雄だそう。(ナチスという大悪党に反逆した凄い方々なので)
『働けば自由になれる』というスローガン
歴史の教科書でみたやつだーとなる。
門の横には有刺鉄線が張り巡らされていて、当時は電流が流れていたそう。強制労働がつらすぎて、自殺するためにわざと鉄線に近づく人もいたと。とにかく脱出は不可能な施設だったようです。
障害者を排除する施設もあったみたい。安楽死政策などもやっていたようで、優勢思想の極みという感じ。。身体障害、精神障害問わず多くの人が殺されたんだろう。
ガス室に向かわせるとき、ユダヤ人にはこれからシャワーを浴びるよと説明して、実際に天井にはシャワーのレプリカが付いていたそう。もちろんそこから水が出ることは無く、毒薬を投げ込まれ殺されていったと。。更にナチスは、ドイツ人に精神的負担が無いよう配慮して、ユダヤ人の囚人に死体を燃やす作業をさせていたそうです。
1人の医者がアウシュヴィッツに収容して強制労働をさせる もしくは ガス室に送って殺す どちらにするかを"選別"していたそう。基本的に子どもは仕事が出来ないため母親と一緒にガス室へ送られたそう。
今でもホロコーストの実態の調査は続いていて、先日もバッグの名前から辿り、ガス室で無くなった方のお孫さんが生きていることが判明し連絡を取ることが出来たそうです。
あとは写真不可でしたがユダヤ人から刈り取った髪の毛も保存されていました。他にも金歯や依頼など、事細かく遺留品が仕分けされていました。
ユダヤ人から奪った物は囚人たちに物仕分けさせていたそう。個数や品名などを書類に書かせて、数量と名称になったとき、人が持っていた物、ではなくただの"物"として感じるようになっていったそうです。
ザクセンハウゼン強制収容所ってところがアウシュヴィッツより前に運用されていて、そこの経験を活かして囚人たちに差をつけたそう。(収容の理由によってワッペンが異なり、例えばピンクのワッペンは同性愛者の方々だとか)差をつけることにより、一致団結しなくなる、収容者同士でいがみ合って協力しなくなる、という研究結果が出ていたそうです。大きな脱走や暴走を起こさなくなったため、他の収容所も同じシステム、服装で運用したそう。
士農工商って言葉があるけど、ユダヤ人に1番位の低い「商」の部分を押し付けてたと言っていた。押し付けて、その後に、ユダヤ人だけが金持ちだ、というイメージを広めた。ナチスは結局、スペイン風邪、経済不況、全てユダヤ人のせいにして彼らに不利な政策を進めていったそうです。
アウシュヴィッツは当初、障害者を排除する施設だったそうです。効率良く大量に殺す方法も、他の障害者排除の施設にアドバイスをもらって実行した。ユダヤ人だけじゃなく障害者、同性愛者、仕事してない、今で言うニートのような人もどんどん収容していった。あとはジプシーの女性にレントゲンを当てて妊娠させなくしたり(今はジプシーと呼ばず、ロマと呼ぶそうです)
そんな感じでアウシュヴィッツ全体を見学して、約3時間。炎天下の中歩きっぱなしで疲れたけど行って良かった。自分が勉強不足なだけなんだけど、知らない情報も多かったし、やっぱり現場に行ったことで感じることも物凄く沢山あった。
施設内に直接的にグロい描写はほぼ無くて、残ったものが淡々と展示されている感じ。とにかく、中谷さんのガイド付きで回れてほんとーーに良かった。説明がないと見落としちゃう部分とかあったと思うし、色々こちらに質問を投げかけてくれて考えるきっかけにもなった。夜と霧って本、まだ読めてないけど読まなきゃー
ちなみにポーランドのクラフクって都市がアウシュヴィッツから電車かバスで1時間くらい。そこに泊まったけど古い街並みが残ってて綺麗だったしウォッカ美味しかったし餃子みたいな料理も美味しかったからポーランド旅行自体おすすめ🇵🇱
-----あとはメモ色々-----
◾️アウシュヴィッツの生還者は全体の10%のみ。
2024年現在、もし生きていたら85歳くらいだそう。当時のことを語れる人がどんどん老化して亡くなっていくから風化させないよう引き継がなきゃと中谷さんは言ってた。
◾️アウシュヴィッツは空から降ってきたわけではない。選挙で買ったナチスがこういう政策を進めた。政府を批判する者を逮捕し始めたりってところから始まっている。
◾️現在言論の自由を許可されてるのが世界中で30%のみ。日本は一応その30%内に入ってる。
◾️ヒトラーの支持率は最初30%、それで選挙に勝って政権を握った。ほとんどは傍観者。でも傍観者が大衆迎合したため、どんどんナチス側の考えが盛り上がってしまった。
◾️アウシュヴィッツ自体が負の遺産を残す博物館としてのパイオニア。日本から石巻出身の人がインターンに来ている。震災の負の遺産を残す勉強をしているそう。ハンセン病の施設の人とかも。アウシュヴィッツの隣に、歴史を学び、宿泊もできる施設を建設中。
◾️平等とは何だろうか。パリ五輪でやっと、パラリンピックとオリンピックの賞金が同額になったそう。未来はもっと良い方向にいくといいな。
--------------
周りで、アウシュヴィッツ行ったことあるよーって人あんまりいないと思うので、もし行く予定だよーとか、質問したいよーとかあれば連絡ください!(誰でも連絡okだよ!)わたしも元々は周りにアウシュヴィッツ行ったことある人いなくて、たまたまドイツで知り合った方が、先週行ってきたよ〜って言ってたの聞いて興味持てたので。身近な人が行ってると色々聞けるしなんか近い感じするし!私もまだまだ勉強中だけど是非〜📧📧📧
現在のアウシュヴィッツの所長さんが、"君たちに責任はない。でも未来にこういうことを起こさない責任はある"的な言葉を残してるらしく、まさにその通りだなと思っているよ。考え続けて行動し続けるしかないからとりあえず目先のこととして、このnote書きました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?