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旅立ったFB友達を悼む

「今日は○○さんの誕生日です、お祝いのメッセージを送ろう!」
毎日のような通知がありますが、今日の誕生日は旅立っていった友。

Facebookを始めた頃は自分の投稿への「いいね」の反応に気をよくし、随分と投稿しましたが、ここ数年は深海魚状態です。
画面を開けて投稿記事を見るものの、投稿はしません。海上からは生息しているのかいないのか分からない深海に潜む深海魚のように人の投稿をひっそりと眺めています。
「友達」が増えるにしたがって、何気ない投稿が思わぬ受け止め方をされてしまい、鬱陶しくなり投稿するのをやめました。
いっそのことアカウントを削除してしまえばいいのですが、同級生などとの連絡には便利ですし、趣味のグループなどの投稿は面白いので深海魚として静かに眺めています。

プロフィールの誕生日は非公開にしているので、誕生日になってもお祝いメッセージもありません。「お誕生日おめでとうございます。ますますのご活躍を祈っています」というありきたりのメッセージを受け取っても、「ありがとうございます。お互いに元気で!」などと返答をするのも煩わしいものの、齢を重ねると儀式的なお祝いメッセージも嬉しくなるものだろうか、と思ったりもします。

2011年に勧められて始めたFBですが、この間に何人かの「FB友達」が旅立っていきました。病に倒れた者、事情が分からない者、様々ですが、誕生日になると通知があります。

違う世界に行ってからまた1年が経ったのか。と思うと同時に、いつまでもFB内に残り、誕生日連絡が来ることについて、何か生命の尊厳を犯しているような名状しがたい違和感を感じていました。

やや躊躇しながら彼ら彼女らの掲示板をみると、「あちらの世界でも明るくやっていることだろうね」という書き込みもあれば、「おめでとう。良い1年になりますように」というような生涯一度のイベントがあったことを知らないような書き込みもあります。もちろん反応はありません。

どちらにしても、彼ら彼女らの「存在」を感じる日です。
FBで「友達」になった時もずっと会っていなかった、「友達」になった後もリアルに会うことはなかった「友達」の「存在」。
存在していた、という過去形ではなく、いまもいる、という存在感。

自分がいる世界から彼ら彼女らが消えてしまったということを実感できないまま、FBという空間だけで生きている、決してリアルに会うことはないし、メッセージを送っても返答がくるわけでもない「FB友達」。

「消え去ったFB友達」の誕生日のお知らせ通知が来ても、FBを始めてから会ったこともありませんし、そこに書き込まれるメッセージは、どこか異国の地で生活をしている相手に送るような内容だけに、悼む気持ちが湧き出ることはありませんでした。

今、感染症のために最期に立ち会うこともできず、白い樹木のようなかけらが入った箱が届けられ、親族・友人にとっては旅立ちを実感できないまま、気持ちの切り替えができないまま、中途半端な感情にさいなまれる、と聞きます。

このようなニュースを何度も目にするうちに、もう1年以上会っていない、感染リスクを考えると会うことができない肉親の最期に立ち会えない場面を無意識のうちにシミュレーション・想像するようになりました。
そんな場面を想像すればするほど、人の涙に誘われて涙が出ることはあっても、箱だけ見ても涙は出ないかもしれない、と思うようになります。悼む気持ちになるだろうか、とも。これではリアルに会うこともなく旅立ったFB友達と同じじゃないだろうか。

悼まなければならない。旅立ちを受け止めて悼まなければならない。

これまで、誕生日メッセージを眺めていただけでしたが、投稿はしないものの「懐かしいね。あっちの世界ではまだ3歳だね」と心の中で語りかけるだけで、彼ら彼女らとの昔の交流や些細な出来事を思い出し、自然と悼む気持ちになってきました。

万が一、そんな場面は考えたくありませんが、万が一肉親と会えずに箱だけで対面したとしても、「苦しかっただろうな、ゆっくり休んでください」と箱に語りかけることで、小箱の中に縮みこまった肉親はこちらの世界に未練無くあちらの世界にいけるだろうと思うようになりました。

写真はブルックナーが埋葬されているオーストリアのリンツの近くにあるザンクトフローリアン修道院の教会です。

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