妊活経験者が書く「コロナ禍の家族」の物語 ~僕の大好きな お母さんの笑顔~
僕の大好きな お母さんの笑顔
サクッ。
台所にいるお母さんがクラッカーをかじる音がここまで響いてくるのは、家が静まりかえっているから。お母さんが突然、テレビを捨ててしまったあの日から、うちではあらゆる物音が存在感をアピールしている。
僕はリビングのはじっこにある僕の机で、宿題と格闘している。お母さんは、ソファーに腰かけて、何かを見ているのかいないのか、ぼーっとクラッカーを食べている。父さんは、2階の自分の部屋で、パソコンをいじっているのだろう。
こんな毎日がずっと続いている。
原因はわかっている。お母さんはいま、「ウツ」というやつなのだ。
「じゃーん!」
僕は大げさにお母さんの前に飛び出して、両手のパーを頭の上にのせた。
「うさぎ……」
と、お母さんがつぶやく。
こっちを見てくれた! 僕は飛び上がるほどうれしくて、本当にちょっとだけジャンプした。
「じゃあ、お母さん。中学校に行ってくる。学校が再開して早々、遅れたら大変だから急ぐね。僕がいなくても大丈夫だよね?」
「私は大丈夫。大丈夫よ」
そう繰り返すお母さんに、僕は苦笑して、元気に言い放った。
「じゃあ行ってくるね!」
お母さんの顔は見なかった。きっと僕のほうを見て、笑顔で手を振ってくれているはず。そう信じたいから、わざと見ない。
玄関を出ると、バス停は五十メートルくらい先。まっすぐの道だから、走れば予測式体温計がアラームを鳴らすより速く着ける。毎朝の検温も、もう慣れっこだ。
ちょうどバスが来た。よし、時間通り。バスがちゃんと来るということは、世の中はまだ一応、まわっているのだ。まわしてくれている人たちがいる、と言ったほうが正しいのかな。
バスに乗り込み、車内を見渡すと、座席は一つも空いていなかった。座っている乗客はみんなマスクをして、下を向いている。立っている乗客は一人。先頭のほうでつり革をつかみ、前を向いている。
僕も前向きのまま、上の方の棒をつかんだ。つり革には触らない。こんな世の中になる以前は、つり革につかまりながら、目の前の座席に座る人のいじっているスマホをのぞき込んだり、どんな本を読んでいるのかなと想像してみたり、新聞のもらい読みをしたり、楽しめることがあった。だけど今は、バスの正面の窓からの景色が貴重な楽しみ――なのだが、今日は夏らしい格好をした女の人が先頭に立っていて、その後ろ姿しか見えない。ずいぶん薄着で、体のラインがわかる格好をしている。肩をあらわに出したトップスにショートパンツという出で立ち。
すると、その人は突然振り返った。しまった、油断した! 視線がぶつかり、冷や汗をかく。
女の人は、ふう、とため息をついて、
「きみ、私のこと見てたでしょ」と、真面目な顔をして言った。
僕はぎくりとした。でも、すぐにしかめ面は緩んで、彼女は顔をくしゃくしゃにさせて笑い出した。
「冗談だよ。大丈夫。怒ってないから! ……ほらね、ほっとした。顔に出やすいなあ」
ほっとして、あらためて正面から見ると、思っていたよりも年上のように見えた。
「ご、ごめんなさい……お姉さん」
「お姉さん〜? 私、四十六だよ」彼女はおかしそうに笑った。
「お母さんと同じだ!」
僕は驚いた。お母さんより肌はツヤツヤしているし、目にクマもない。真っ黒に日焼けして、この夏を謳歌してきた感じだ。まるでコロナなんてなかったみたいに。
「何。そんなに驚くこと?」
「お母さんはそういう格好しないから。いつも長ズボンか、丈の長い、スカートみたいなズボン履いてるし」
「ああ、流行ってるもんね。スカーチョ。動きやすくて、虫にも刺されにくいし、公園に行くには最適。画期的なファッションアイテムだと思うよ。私は残念ながらあまり公園には縁が無いし、着たことがないけどね」
「縁がないって......子ども、いないの?」
僕の気軽な質問に、彼女は、口では答えずに、うつむくようにうなずくだけだった。
「あ……ごめんなさい」
「いいのいいの。そんな顔しなくても、いいんだよ。子どもがいない人生にも、いいところはある。わざわざそういう人生を選ぶ人もいるくらいだから」
「子どもがいらなかったわけじゃないの?」
「うん。だから、がんばったよ。栄養のあるものいっぱい食べたし、お酒とか、よくないと言われているものは全部我慢した。病院でいっぱい検査したし、注射も何度もした。男の子にはちょっと言いづらい治療もしたよ。でも、できなかった。何度も、何度も、期待しては裏切られ……疲れちゃった」
「そんなに大変なんだ……」
「きみ、兄弟はいるの?」
「いないよ。だから、お母さんたちに何度も言ってきたよ。弟か妹を作ってって。でも、全然作ってくれない」
「作って、かあ。それじゃあ、お母さん、大変だ」
「なんで?」
「そう簡単に作れるものじゃないからさ」
「え…………」
「私たちのような年齢になると、だんだん子どもを作るものが難しくなってくるんだよ。病院に助けてもらう必要が出てくると、身体的にも負担。さっき言ったように、治療中は精神的にも、もろくなる。まして今はコロナ禍だよ。もし、治療中だとしたら、お母さんの心は悲鳴をあげているんじゃないかな?」
僕は、はっとした。考えてみれば、お母さんの具合が悪くなりはじめたのは、僕がお願いをしてからだ。コロナが流行りはじめてひどくなったから、コロナのヤツが原因だとばかり思っていた。僕はテレビが捨てられた日のお母さんの形相を思い出した。見たことがなかった、あの恐ろしい顔を忘れることができない。
「思い当たることがありそうだね」
僕はうなずいた。胸がドキドキして、口では返事ができなかったのだ。
「あ、もう私は降りなきゃ。じゃあね、きみ。お母さんを大事にね。思いやってあげるんだよ」
そう言って、手を振りながら、バスを降りていった。僕の降りるのも、もう次の停留所だ。いつも長くて退屈なバスの通学があっという間に終わってしまった。
学校にいる間も、僕はずっとあの人の言葉を思い返していた。
『お母さんの心は悲鳴をあげているんじゃないかな?』
スマホで子どもを作る治療のことを調べたら、「不妊治療」というらしい。
僕はなんてバカなんだろう。
冗談や芸でお母さんを笑わせようとばかりしてきたけど、そんなの全然意味なかった。すべては僕のバカなお願いが原因だったのだ。きっと、僕が学校に行っている間に、気づかれないように病院に通っていたんだ。休校中も、お母さんは「買い物に行ってくる」と言って長く外出したことが何度もあった。きっとあのときも病院に行っていたに違いない。買い物袋を持っていかないから、変だと思ったんだ。お母さん、なんで話してくれなかったの?
早く帰ってお母さんに会いたい。会ったらすぐ、「もういいよ」って言うんだ。「もう、がんばらなくていいよ」って。僕は弟や妹よりも、お母さんの笑顔が欲しい。あのきらきらした笑顔が見たいんだ!
学校が終わると、僕は全速力で家に戻った。
お母さんは朝と同じ姿勢で、ソファーに座っていた。口の周りにはまだ、クラッカーのかすがついている。僕はお母さんのそばに、ゆっくりと近づいていった。
「お母さん」
声をかけても、すぐには返事は返ってこない。いつものことだ。
「お母さん」
2回目の呼びかけでようやく、ふたつの瞳がこっちを向いた気がした。
「ただいま」
「あ、ああ、あなたなの。おかえり。早かったのね」
「いつもどおりだよ。それより、お母さんに話したいことがあるんだ」
「あら、なあに?」
けだるい雰囲気だけど、何とか話せそうでよかった。僕は勇気を出して口を開いた。
「ごめん。ごめんね、お母さん」
「何を謝るの。学校で何かあった?」
「ちがうんだ。お母さんと同い年の女の人に会って、その人が不妊治療で苦しんでいたって知ったんだ。お母さんも、もしかしたら、そうなのかもって。だから……」
「ふふふ、心配してくれたのね。ありがとう。私は大丈夫。大丈夫だから」
「大丈夫なんかじゃない! だって、こんなに……!」
僕は言葉をのみこんだ。その先は言ってはいけない気がしたからだ。
「だから、不妊治療ってやつ、もししているんだったら、もうやめていいよ。もういいんだ。弟も妹もいらないから」
できるだけ優しく伝えようとがんばっていたせいだろうか、いつのまにか、僕の頬に涙が流れていた。
お母さんはそんな僕を抱き寄せてくれた。
「いいの、いいのよ。あなたのせいじゃない。私が強くないから、いけないの。心配かけて、本当にごめんね」
謝ってほしいわけじゃないのに! 僕は焦って、急いで首を横に振った。
「ちがう! ちがうよ! お母さんは強い! だって、僕のお母さんだもん!」
僕はいっぱいの涙をお母さんの肩にこすりつけながら、自信をもって言った。
久しぶりすぎる抱擁に照れて、少し間を置いてから見上げると、そこには、涙ごしに、きらきら輝くものがあった。僕が見たくてたまらなかった、あの笑顔だった。