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はじめてDiorのドレスを着た思い出

いつまでも忘れたくない思い出がある。
はじめてDiorのドレスに袖を通した日のことだ。

大学に入ったばかりのころ、友達とパリ旅行へ出かけた。
特段裕福な家の生まれではないので、せっせとアルバイトをして貯めたそれほど多くない資金を手に、せっかくパリに来たのだからとモンテーニュ通りにあるDior本店を訪れることにした。Diorに何か思い入れがあったわけではなかったが、パリに本店があるデザイナーズブランドを一通り検討したときに、最も好みに合ったのがDiorだった。カナージュ模様の美しいレディディオール。バッグには手が届かないが、旅の思い出として本店でお財布くらい買ってみようか、と思ったのだ。

美しいパリの街並みの中でも、ひときわ華やかに感じるDior本店のエントランスをくぐった。白を基調とした店内には、アイコニックなレディディオールからシーズンの新作まで、色とりどりのバッグやスカーフがまるで美術品のように飾られていて、あまりの美しさに目がくらみそうになったのを覚えている。

「May I help you?」

普段からハイブランドでの買い物に慣れているわけでもなく、雰囲気に圧倒されて気遅れ気味だった私たちに、朗らかな英語で声をかけてくれたのは、ブラウンの瞳が印象的な男性店員だった。記憶をたどって推察すると、おそらく今の私と同じくらい、30代半ばごろだったのではと思う。買い物のためにいくつか覚えたフランス語はうまく使えそうになく、はなから英語で話しかけてくれた彼に甘え、こちらも英語でレディディオールのお財布を購入したいことを告げた。
彼は恭しいジェスチャで私たちをショーケースの前に案内し、私の希望にあわせていくつもの形や色味を見せてくれた。日本から来たの?今日はこの後どこへ行くの?と、雑談を交えながら商品の説明をしてくれた彼の心遣いのおかげで、当初の緊張は少しずつほぐれていった。

いくつもの提案の中からついに一つ選んでお会計をし、ラッピングを待つあいだに出してくれたオレンジジュース(とんでもなく美味しい!)を飲んでいると、なぜだか肩の荷が降りたような気分だった。ようやく落ち着いて周りを見渡す余裕もでき、まるでお城のような豪奢な店内を眺めていると、奥のフロアに並んでいるマネキンに目が留まった。
今まで見たどんな洋服とも違う、およそ私には縁のないであろう不思議なデザインのドレス。
私が目を奪われているのに気付いたのか、購入した商品を包み終わった彼が店内を案内しようかと申し出てくれた。他のものを購入する予定も資金もなく辞退しようとしたが、そんな遠慮はものともせず、彼は優雅な身のこなしで私たちを奥のフロアへ促してくれた。

普段買い物をするアパレルショップとは何もかもが違っていた。洋服はきっちりと等間隔で吊り下げられ、一着一着がまるで宝物のようにダウンライトの下で輝いていた。ろくに服飾の知識のない私が遠目から見ても、一目で上質な素材で作られたものだとわかる。静かな店内には一組だけ、お得意様だろうか、グレイヘアのマダムが女性店員と談笑しながら買い物を楽しんでいた。

熱にうかされたような気持ちで壁にかかった洋服を眺めていると、ふと、とある一着に目が留まった。
特別なデザインがあるわけではない、とてもシンプルなひざ丈の白いミニドレスだった。
触れることは許されないように思い、近くに寄ってそのドレスを見つめた。
フィットアンドフレアの流れるようなライン。
優しい光沢の上質な絹の織り目。
ため息が出るほど美しい。
すっかり心を奪われてしまい、そのドレスの前から動けなくなっている私に、件のムッシュが声をかけてきた。
「Would you like to try it on?」
まさか、購入できるわけもないドレスの試着なんて、そんな厚かましいことはできない!と言いたかったが、状況にすっかりのぼせてしまった私はすぐに言葉が出てこなかった。そうしている間に彼はすっとハンガーを手に取ると、自然な足取りで試着室のドアを開けた。
案内された試着室は、そのままそこに住めそうなほど広く、上等なソファやサイドテーブルまで置かれていた。天井まである大きな鏡の横には、NEW LOOKのバージャケットを着た女性の有名な写真が飾られている。
でも私はそのドレスを買えないわ、と伝えると彼は、とにかく着てみて、とウインクをして、試着室の扉を閉めた。

信じられない出来事に胸がどきどきしていた。まるでシンデレラにでもなったみたいに、夢見心地でそのドレスに袖を通してみた。
さらりとしたシルクの心地よい肌触り。
たっぷり肉厚な生地に包み込まれるような着心地。
背中のファスナーを上げると、ぴったり身体に沿った上半身から、腰の高い位置でふわりと広がるフレアのラインが信じられないくらい美しく、まるで白いチューリップを逆さにして着ているみたいだった。中にパニエを入れているわけでもないのに、柔らかな立体感のあるスカートが、身体を揺らすたびにひらひらと踊る。
この世にはこんなにも美しいお洋服があるのか。

感動に半ば泣きそうになりながら試着室の扉を開けると、待っていてくれた友達とムッシュが笑顔で出迎えてくれた。鏡越しに目を合わせて、どう思う?と感想を聞いてくれた彼に、いつかこんなドレスが似合う素敵な女性になりたい、と伝えると、
「You already are!」
とびきりの笑顔でそう言ってくれた。
私はすっかりDiorのファンになっていた。

ムッシュ・ディオールは「女性を美しくするだけでなく、幸せにしたい」という理念のもとブランドを設立したそうだ。その思いは時代を超えて、その男性店員にしっかりと引き継がれていた。
お財布を買いに来ただけだった日本人の大学生に対して、相手を見て態度を変えることなく、理念に沿った接客をしてくれた彼。
私はあの日、最高の気分でブティックを出て、その夢のような体験は旅の一番の思い出になった。あのとき買ったレディディオールの長財布は色あせるまで大切に使い、引退させた今もなお、キャビネットの中で思い出と共に眠っている。

あれから時は経ち、デザイナーズブランドのバッグやプレタポルテを購入できる程度に財力もついた。あの日を境にDiorのファンになった私は、自分へのご褒美や特別な日の衣装には必ずDiorを選んでいる。(パリの思い出を胸に、初めてドレスを購入したときの話はまた別の機会に記したい。)
しかし日本のブティックで買い物をするのみで、パリの本店を再訪することは未だできていない。
あの時出会ったムッシュはまだDiorにいらっしゃるだろうか。
お名前を聞かなかったことが悔やまれる。

いつかまた本店を訪れて、もしも彼に再会できたなら、とびきりのドレスを見繕ってもらって購入したい。そして、私、素敵なマダムになったでしょう、と、あのときの彼に負けない笑顔で言ってみたい。

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