エッセイ:価値と常識、あるいはマジックプロやミシック一位、ホテルのロビーでカードをプレイすることについて

私は小さい頃変な奴だった。いまでも結構変な奴だと思うが、もっと変な奴だった。「普通」とか「常識」がわからなかった。付け加えるならすごく変な奴なうえに嫌な奴だった。小学生の頃から「常識的に」とか「普通に考えて」、「お前が悪い」としょっちゅう否定されていた。

常識とか普通ってなんだ?わからない。いや、今は昔ほどわからなくはない。今の私の友達には「常識のない人は嫌い」という人もいるし、その人の中の「常識」から逸脱していない程度の変な奴で済んでいるのだろう。それに不思議で不思議で仕方がなかった「常識」や「普通」の基準もわかってきた。進化心理学、認知心理学など、人の心に関する科学は、人間が何を受け入れやすくて何を受け入れにくいのかを教えてくれる。小さいころは、自分は正しいことを言っているのに、普通だとか常識だとか根拠のない否定をされることに憤りを感じていたが、それはなくなった。知識として普通や常識が理解できるようになったから、そういうものなのだと思うようになった。

とはいえ知識としてわかっても感覚としては結局普通や常識が理解できていないから、はっきりと明文化されたものや数値化されたものにはやはり安心感がある。それは誰かの普通や常識とは独立してそういうものだから。

私はMTGのオンライン版、MTGAでランキング一位を取ったのが、このnoteのアカウントやXのアカウントを作ったきっかけだ。一位という数字をとても誇らしく、信頼できるものに感じていた。なんやかんやあってプロプレイヤーになった。Magic Pro Leagueという名前があり、契約書があり、プロになったんだなと思った。

プロ制度がなくなった。プロというのは制度ではなくなった。プロというのははっきりとした制度ではなく曖昧なものになった。プロ制度がなくなってもプロと呼ばれる人がいて、プロツアーが「再開」して、自分の感覚としては違和感があったが、受け入れられているようなのでそういうものなのだと理解した。

知らず知らずの間にMTGAのミシック一位にも価値を感じなくなっていた。あれだけ頼もしく誇らしく見えていた数字だったのに。自分の立場が変わり、ミシック一位よりも難しい目標ができたから。いや、そうか?自分だけなのか?少なくとも自分が始めた頃はもっと一位に価値を感じる人が多かった気がする。MTGの世界一の人気配信者のcrokeyzは毎日のように一位を目指す配信をしていたし、プロプレイヤーたちも一位を取っては今はXになったTwitterで報告していたのを覚えている。それが今は国内外で冷笑的で、MTGAのランキングなんかとってもしょうもないというような雰囲気がある。そういうった周りの「常識」に流される程度には自分は変な奴じゃなくなったのかもしれない。

ミシック一位に価値はあるのか?ある人にとってはあるし、ない人にとってはないだろう。ではプロは?これも同じだろう。今だれだれが、例えば私がプロというのは、そう思う人にとってはそうだし、そう思わない人にとってはそうでない。明文化された基準がない以上、見た人の常識に基づき分類される。プロの価値を信じる人がいるからプロという言葉が使われる。ある人にその価値があると信じる人にとってその人がプロということだ。

価値。数字とか論理で記述されていてもそれに価値があるかは結局常識とか普通とかによって決まるのだ。貨幣と同じ。直接的には何の役にも立たないコインや紙に価値があるのはそれを信じる人がいるから。突き詰めれば価値というのは何でもそういうものだろう。人の命だって、いつかはなくなる。少なくとも私の理解としては神が作ったというよりは、物質のパターンが偶然人間というものを作っただけの可能性が高い。偶然生まれて偶然死んでなくなってゆく。それに価値があるのは価値を信じる人がいるから。

プロ制度がなくなり、紙のイベントが始まった。私はそんなに紙のカードにやる気はなかったが、元プロとして参加権をもらえて、行けば友達に会えるので一年間なんだかんだで参加してきた。そんな中、Xであるツイートにいいねやリツイートが多くついて流れてきた。会場近くのホテルのロビーでカードをプレイする人たちに対して「非常識」であると言うものだった。

宿泊者のためのフリースペースである以上は非常識とする根拠は彼らの中の常識だろう。そういう常識になったからそうなのだろう。そういうものだ。いや本当にそうか?ポケモンGOというものが爆発的に流行った。あれはGPSを利用する、人目に付く外でプレイをする前提で作られたゲームだ。見ず知らずの人同士が協力するレイドというイベントもある。プレイする姿を人に見せるのが普通という、設計され創られた常識だ。

じゃあカードは?一部のグループでは人前でプレイするのは「非常識」らしい。プレイしている人たちの常識のグループとそれを非常識とする人たちの常識のグループ、それらのグループはどうやってできたのだろうか。誰かがデザインした常識?偶然なりゆきでできた常識?わからないが、ポケモンGOがデザインして創った常識とは違い、マジックというコンテンツとそのユーザーにとってプラスの常識ではないだろう。ユーザー数の増加をコミュニティと利益とするのであれば、人前でプレイして楽しむ姿を見せることはプラスという常識のほうが都合がいい。習慣として遊ぶ趣味であるTCG(ポケモンGOもそうだ)を趣味として新しくはじめてもらうには単純接触による切り崩しが効くはずである。

紙のカードにそこまで興味がないので、そのあたりがどういう常識でも私にはどちらでもよい。ただ、常識というのはそれにより得をする人損をする人がいて、それを誰かが意図して作っていることもある。では、私の関心があるオンライン版のほうは?ミシック一位に価値があるほうが私は得をするだろう。この価値というのは、コンテンツの衰勢と表裏一体だ。コンテンツが盛り上がればその中でのランクの価値を信じる人が増えるし、逆もまた然り、ランクの価値を信じる人が増えることがコンテンツが盛り上がることでもある。

他人がどう思うかなんかわからないし、未来の自分が物事をどう感じるかもわからない。しかし、そのうちまた、ミシック一位というものに価値を感じて誇らしく思うようなときが来たらいいと思った。

正直なところ、最近の競技マジックの試作は自分好みではないものが多く、一時期に比べると情熱を持ててはいない。しかし、アリーナのランキングで喜んでいた過去の自分を愚かしいとか、しょうもないことで喜んでいたとは思わない。プロ(MPL)になる前ランク一位に価値の価値を信じてそれに挑んだ日々は輝かしかった。達成したときは喜びと興奮に満ちていた。今ランクに意味を感じていないのは別にしても、意味を感じていた過去をいい時間だったと感じている。

また自分含めたプレイヤーたちが、ランクの数字に意味を感じるようになればいいと思う。それが自分が愛した形の競技が盛り上がるということでもあると思う。自分が愛する形のマジックが盛り上がる世界では、ミシック一位に価値があるのが常識であるはずだ。

「競技イベントでの結果にこそ価値があり、ミシック一位に価値はない。」そんな常識を自分も形成する側にいたかもしれない。しかし、次それに対立する常識ができるとき自分はそちら側にいたい。冷笑的に何かに価値がないとするのは易い。新しい価値を作るのは難い。後者のほうがかっこいいと思う。

おもろいこと書くやんけ、ちょっと金投げたるわというあなたの気持ちが最大の報酬 今日という日に彩りをくれてありがとう