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平凡なアラフォー母の、やっちまった話

やってみた、というよりは、やっちまった、のほうがしっくりくるような出来事は、曲がりなりにも四十年近く生きていると、それなりにある。

幼いころから集団生活が苦手で、だけど周りから浮くのは嫌で、薄っぺらい笑顔を顔面に貼り付けて常に人の視線を気にして生きていた。誰もそこまで自分のことを気にしちゃいない、と思えたのは、つい最近のことだ。

周りにあわせて言葉を選び、行動を選び、そのどれかひとつ間違えば不安になり、そもそも間違いってなんだ、人を傷つけたりしない限り間違いなんてあるのか、と今の私なら言えるのだが、あのころは気がつかなかった。

おかげで、私の歴史はやっちまったな、という苦い思い出に塗り潰されている。ひとつひとつはそんな些細な、と鼻で笑ってしまうようなものなのだが、チリも積もればなんとやら、である。

社会人になりお金と時間が自分の裁量で使えるようになって、そのころはとにかく楽しかった。ようやくいろんなしがらみから逃れて自分の努力ひとつでどうとでも成長していけるような気がしたし、とっても自由で、この自由こそが私の得たかったものだ、大人って素晴らしい、と単純に思っていた。

そのころの私にとって、その素晴らしい自由と対極にあったのが結婚と出産である。

二十代も後半にさしかかり、職場の同期や周りの友達もポツポツと結婚したり、母になったりしていたころの話である。焦るどころか、一生ひとりでいい、自分はひとりで生きていける、そのほうが向いていると思っていた。 

職場のカウンセラーさんには「あなたはみんなと同じが安心という人ではない。あまり結婚はおすすめできないなあ」なんて苦笑いされていた。どういう意味だったのか、未だによくわからない。

そんな折に夫と出会い、あれよあれよと結婚して翌年には長男が産まれてしまうのだが、まさに「やってみた」としか言いようがない。

気がついたら新幹線に乗せられていて、けっこうなスピードで走っていたので仕方ない、これはもう止まれないから次に降りられるところまで行くしかないかーまあなんとかなるだろーみたいな。

というわけで、私の人生最大の「やってみた」は結婚と出産である。そして、最大の「やっちまった」も、やはりこのふたつなのだ。

一般的には幸せなイメージで溢れるであろう結婚とか出産を「やっちまった」と表現するのはいささか世間体が悪いし、罪悪感もある。

誤解を招かないように一応説明しておくと、我が子はもちろん大好きだし、我が子を抱く機会をくれた夫にも感謝している。仕事と家事と育児に奔走する今の生活にも、おおむね満足している。

ただ、どうしても「やっちまった」感がつきまとうのは、この道は決して戻れないから、だと思う。

世の中、自分の思いきりさえあれば「やっぱやーめた、次行こ、次」とできることは意外と多い。仕事しかり、趣味しかり、人間関係しかり。いい意味でも悪い意味でも、リセットできることはたくさんある。

なのに、こと結婚と出産に関してはリセットボタンが見あたらない。少なくとも、お手軽に押せる場所にはない。

結婚して子供を産むまで、自分は何者かになれるのではないか、と微かな期待があった。

もちろん、何かに特別秀でているわけではないし絶世の美女でもスーパーボディでもないのだが、仕事に邁進してやりたいことはどんどんチャレンジして、新しい人間関係と出会って、自分の努力で人生をどんどんアップデートしていけると無条件で信じていた。何者でもない自分が楽しかったのだ。

それは、言うならばカテゴライズされていない、という自由だったのだと思う。

だから、結婚して「妻」というカテゴリーに、出産して「母」というカテゴリーになったとき、もう自分は「妻」「母」以外の何者にもなれないのか、という絶望感はちょっとすごかった。

もちろんそんなことはないし、世の中どんな状況だって成長できる人はたくさんいるのだけれど。

長男を産んで半年くらいは、わりとよく泣いた。両家にとっての初孫で、まだ祖母たちも若くてよく手伝ってくれたし、第一子で時間的余裕もあるし、産休と育休を利用していたから働かずともある程度の収入があって、なんて恵まれていたんだろうと今なら思う。

なのに、私の頭のなかは「やっちまった」ばかりだった。赤ちゃんは可愛く、ありがたいことに目立った問題もなく毎日すくすくと成長していく。いっぽうで、この子がいる限り「母」以外の何者にもなれない自分。ふたつのあいだでぐらんぐらん揺れていた。

産後のホルモンバランスの影響があったとしても、いわゆる産後うつとはすこし違う気がしていた。だって育児はそこそこ楽しめているし、子どもはかわいいのだ。これは「母」になりきれない自分の身勝手な思い。

そう思うと周りに話すのも憚られたし、そもそも自分が何で揺れていたのかそのときはよくわかっていなかったのかもしれない。

その後も、私のカテゴリーは変わり続けた。

保育園に入れば「働く母」に、下の子が産まれれば「子ども二人の母」に。仕事では「小さな子どもがいるスタッフ」になった。でも「母」というカテゴリーからは、決して出られない。

やっちまったなあ、と思う。

結婚して十年。失礼な表現だが、我が夫は私にとって、とにかく面倒くさい人である。家事はやるし子どもとも遊ぶ、実務的な面での不満はほとんどないが、賞味期限だのリモコンの位置だのトイレのタオル交換だの、細々したところでこだわりを発揮する。大雑把な私とははっきり言って相性が悪い。

そのうえ、いろいろなことをすぐ忘れる。

日常の約束事やスケジュールはとにかく、どこに行ったとか何を食べたとかこちらが思い出を語ってもえ、そうだっけ、となることが多い。一から説明するのが面倒で、もはや最近では思い出話に水を向けること自体やめてしまった。

子どもたちを外に連れ出すのが好きで、しかも必ず私も連れて行きたがる。とにかく家族一緒が好きなのだ。こちらとしては子どもたちの興味の矛先が違うから別々に動いてもいいし家でのんびりもいいではないか、と思うのだが、休日は必ず外出、しかも車の運転が好きなので数百キロの距離でも平気で日帰りプランで連れ出される。

私は基本的に単独行動が好きなのだが、もちろんそんなの考慮してくれない。せっかくの休みの日に朝からみんなでお出かけ、行き先は子どもと夫が決める。趣味のピアノも読書も、隙をみてちまちま時間をとるしかない。

やっちまったなあ、と思う。

独身時代、通う店といえば個人経営の隠れ家的なところだった。チェーン店は避け、ファミレスやファストフードなんてもってのほか。仕事帰りにはのれんをくぐり、ふらりと立ち飲みチョイ飲みを謳歌していた。

なのに、妊娠した瞬間から断酒である。出産したあとも授乳の関係で断酒は続き、ようやく外食ができるようになっても隠れ家なんてとんでもない、ファミレスとファストフードが精一杯。ガガガガガガ!!とブルドーザー並みの勢いで「妊婦」「母」それぞれの外堀が固められていった。

慣れない授乳、眠れない夜、離乳食作り、仕事復帰、保育園入園、小学校入学。そのときどきでブルドーザーがやってきて、私を否応無しに新しいカテゴリーへ放り込んで周りを固めていく。

やっちまったなあ、と思う。

結婚するとき、とりあえず生活が落ち着くまで、と思って夜勤をやめて日勤だけのクリニックに転職した。親友が勤めているクリニックだし、定時であがれるし、と気楽に決めた職場だ。気がついたら今年で十年目になってしまった。

どこの職場でも同じようなものだと思うけれど、社歴が長くなればなるほどできることが増えるぶん、給料にも、自分の評価にも反映されない仕事が増えていく。その大半は雑用と呼んでも差し支えない。

役職のポジション自体が少ないし、私にはしばらく昇格の話はないだろうと思う。かといってこの不況下で定期昇給は雀の涙だ。前後期で多少いい評価をもらっても、次のボーナスが多少上がる程度。この先ずっと働いていくモチベーションになるほどではない。

年齢的にもマルチタスク向きな自分の性格的にも、そこそこの規模の病院で十年も働いていれば役職のひとつもついていたかもしれないなあと思ったりする。べつに偉くなりたいわけではないけれど、働く上でひとつの目安になることは確かだ。

やっちまったなあ、と思う。

「妻」であること「母」であることを楽しむすぐそばで、いつも心のどこかでやっちまったなあ、と思っている。こんなはずじゃなかった、と。

避けていたファミレスやファストフードに救われ、わざわざ休日に人混みに出向き、なんの粋も感じないキャラクター物のグッズを子どもに買い与える。早起きして子どもたちを送って出勤し、働いて、どんなに仕事が残ろうと定時で帰って子どもたちを迎えに行き、ご飯を食べさせてお風呂にいれる。

こんなはずじゃなかった。

こんなはずではー。

「妻」になって十年「母」になって九年。今になってようやく、まあこんなものだろう、と思えるようになった。正直なところ、わりと長かった。自分の置かれた状況を必死で咀嚼して、少しずつ飲み込んで、なんとか乗り越えてきた日々だった。

結局のところ、私がこの先の人生で「妻」や「母」から急にほかの何者かになることは、もはやないだろう。それを夢見ることも、いつのまにかなくなっていた。けれど、それはとても幸せなことなのだと思う。

どんな状況におかれても、それが半ば強制的にもたらされたものであっても、そのなかで咀嚼して飲み込んでいくうちに気がつけばすべてが自分の一部になり、自分の歩いてきた道になる。それを、私はこの十年間で身をもって知った。

そのカテゴリーに飛び込まなかったら決して出会えなかった人たち、家族はもちろんママ友やPTA仲間、保育園や学校の先生たちは今や私にとってかけがえのない存在である。みんなが教えてくれたものが、星の数ほど積み上がって私の背中を押してくれている。

あのまま夫と出会わず独身のままであったとしても、子どもを産む機会がなかったとしても、きっと何かに悩んでいたに違いない。そしてきっと咀嚼して飲み込んでいたのだろうと思う。「独身」や「子どもを産まなかった人」もしくはまた別のカテゴリーのなかの自分を。

カテゴリーはあくまで枠組みであって、そのなかで生きるのは、自分なのだ。考えてみれば当たり前なのだけれど。

とはいえ、この十年間の「妻」「母」が私にもたらした影響力はなかなか大きかったようで、好きなもの、行きたいところ、食べたいものなんかが咄嗟に出てこなくなっている。「自分」が家出してしまっているような感覚だ。

おーい戻っておいで、と呼んでみたり探しにいってみたりするのだが、予想もつかないものが帰ってきたりして、ああもうあのころの自分はどこにもいないんだ、と悟る。帰ってきたものと手を繋ぐしかない。これもまあ悪くはないよね、と飲み込みながら。

この先、子どもたちがもっと大きくなって私も歳を重ねたときに、きっと懲りずに私はまた迷うのだろうと思う。それがとても運が良く幸せであることを忘れて、あの道もあったかもしれない、この道を選んでいたらよかったのかもしれない、と。

そのときのために、私は今この文章を書いている。歩いてきたその道こそがあなたの唯一の道なんですよ、ほらあのとき結果オーライだったなって思ったでしょ、と言えるように。

「やっちまった」ばかりの人生でも、悪くはないのだ。

結果オーライならばすべてよし、というわけではないが、今が悪くないならそれでいい。残されているのは、どんなに長くてもたかだか五十年くらいの人生なのだから。

それが私の「やってみた」結論である。


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