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当たり前の、最初の日

長男に初めて怒った日のことを、ふと思い出すことがある。まだ生後数ヶ月、とてつもなく尊く、そしてかわいい時期である。

夏だったとかたまたま夫が近所の薬局に出かけていたとかどうでもいいことは覚えているのに、長男の何に対して怒ったのかまったく思い出せない。

まあともかく長男0歳、私が母親0歳のころの話である。

外ではやかましく蝉がないていて、夫がふらっと部屋を出ていったあとのこと。
無垢な双眸に溢れんばかりの涙を溜めて、我慢して、それでも堪えきれず大泣きした彼を眺めていた私は、情けないことに一緒に大泣きした。

かわいい我が子をこんなに泣かせて一体何をしているんだろうと思ったし、これからこの子を大人にするまでどれだけこんな顔をさせなくてはならないのかとまだ見ぬ未来が茨の道に思えたのだ。

薬局から帰ってきた夫はさぞかし驚いただろうと思う。ほんの数分出かけて帰ってきたら妻子がわんわん泣いていたのだから。

私が泣いているのを見た長男は、余計泣く。
それを見て私もまた泣く。
今思い出すと呆れるしかない、涙のループ。

彼が10歳、私が母親10歳になった今となっては、それもどうかと思うけれどお互い怒られることにも怒ることにも慣れて、そのひとつひとつに大した思い入れもない。

怒る、という作業は相手が誰であろうと大変に疲れる。

だからできるだけ怒りたくないし、事実、私は家族以外には滅多に怒らない。
少なくとも声をあげるような怒り方はしない。正直面倒だし、疲れるし。

ただ、そうは問屋が卸さないのが育児である。

あのまま、どんなときも優しく笑顔で受け止めていいことも悪いこともすべて私が引き受けて怒った顔ひとつ見せずに育てていたら、きっととても楽しかっただろう。かわいいかわいいとそれだけでいいのなら、と頭をよぎったことは一度や二度ではない。

けれど、もしそうしていたら、今の長男はいない。私もそうだ。怒っては落ち込んで、反省して、それを繰り返して今の自分がいる。

あの夏の日が出発点だったに違いない。

泣かせても怖がらせても、教えなくてはならないことがある。伝えなくてはならないことがある。それを看過するのは、優しさではないのだ。

さて、口を揃えて子どもたちは言う。

「ママは優しい、たまに怒るけど」

たまに、かどうかは実はかなり怪しい。
なんせ彼らは一回怒ったところで全然効果はないし、何度か同じことをしでかし、怒り、でようやく動く。いや動くならまだマシである。

そんな私でも優しいと言ってもらえるんだから、怒る私の気持ちも多少は伝わっているんだろう、それは実は優しさだと。疑わしいことこの上ないが。

人を憂う、と書いて優しい。

怒ることも悲しむことも癒すことも、誰かを憂う気持ちが優しさなんだと私は思う。

私はまだまだこの先も、きっと一生子どもたちのことを憂いて生きていくのだろう。それはたしかに茨の道かもしれないが、それはそれでいい。私は優しい、そういうことだ。

末っ子が通う保育園では、年長児は基本的に自分でお昼寝布団のシーツ交換をすることになっている。いやあ楽になったなあなんて思っていたのだが、その日が近くなると末っ子は言う。

「ママ、優しいからてつだってくれるよね?」

渋々手伝うと、彼はまた言う。

「おむかえはおかしもってきてね!ママ優しい!」

そこの君、ああいいからちょっと座れ?な?と膝詰めしてやりたい衝動に駆られる。これも憂いているということなのだろうか…いや…と頭を捻るしかない。

私の優しさは日々、試されている。

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