今の自分を越える読み
まるでインフレ漫画のようで嫌気がさすけれども、昨日書いた記事の内容も、結局は小説を説明する時の、数多ある言葉の一つに過ぎない。特に昨日は、表現に注目する文学的な読みが中心だったせいで、その射程は非常に狭いと言わざるを得ない。
というのも、文学とは所詮傍流で、人間のメインストリームを担ってきたのは民話や神話に代表される、物語群なのだから。
少し話は飛ぶけれども、その時々のベストセラー本が文脈的に位置づけられて、歴史を書かれるということはあまりに少ない。売れた本というのは、民衆に膾炙したということなのだから、時代の何かを掴んでいるものと考えていいはずなのに、そういった試みは少ない。
とはいっても、SFであったり、ミステリーであったり、多様なジャンルが交錯するベストセラーランキングを見て、一時代を切り取るのではなく、一気呵成に物語の流れを読み取るとは、至難の業なのだろう。
こうして物語は忘れられ、文学が権威化していく。
歴史を書くのはいつも勝者だ、という言葉があったと思うが、ぼくが考えるに、歴史を書き得るものが勝者になり得るのだろう。
これでは何も言っていないに等しいか?
とにかく、言葉を持たないものは忘れられていくだけだ。忘れられたものは存在しないのか? 自分自身への鼓舞の言葉としては、観測されないものは存在しない、と言って憚らないが、一般的な事実として、忘れられたものも存在していた、と言える。(言葉を弄するなら、想像し得ないものは存在しないとまで言えるが、閑話休題)
今回のまとめはひどく凡庸でつまらない。
忘れられた物語を掬い上げる試みとして、自らの読みを破壊し、刷新していくという行為に意味がある。新しさとは、過去と繋がって、初めて意味を成すのだから。
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