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掌編 「一方通行ジェラシー」

 桃子の寝顔を見ていた。夜が更けていくのを感じても、彼女の枕元から動くことが出来なかった。きまじめに閉じた口や、すっかり気の抜けた眉、頬の柔らかな産毛。
 彼女は時折寝息を止めて、それからゆっくりと息を吐き出す。手を当てた胸がたっぷりと時間をかけて下がっていくのを、呼吸するのも忘れて、じっと見守る。たった数秒、時計の秒針が四、五回鳴るほどの間、ぼくが見つめる世界は桃子一人だけだった。いつか太陽が昇るのをやめてしまうことを恐れるように、ぼくは彼女が突然、死んでしまうのではないかという妄念に取り憑かれる。
 だから、桃子が息を吐くと同時に漏れるのは、ぼくの安堵の溜め息なのだ。
 固く握り込んだ指を、ぼくは一つ一つほぐしていく。桃子の細い指は見かけ以上の頑固さで結ばれていて、彼女を起こさないように、指をほぐしていくのは、中々に苦労する。丸っこい爪が、彼女の柔らかな手の平を傷付けるのを、ぼくは恐れた。
 眠い目を擦りながら、それでも、桃子から目が離せないのはなぜだろう、と自問する。彼女を見ている間、嫌になるほど胸が苦しくなるのに、ぼくは桃子を愛するのをやめられない。桃子を見守っている時、ぼくは彼女の存在そのものを抱きしめているのかもしれない。いや、そうでありたいと願っている。刻一刻と変わっていく彼女の寝息も、寝顔も、寝相も、変わり続けることでいつか、まったく違うものになったとしても、なってしまうからこそ、愛し続けたい。一瞬間先の彼女に、出会い続けていたい。

 目覚めると、私はいつもたつきの呑気な寝顔に出会う。私の枕元へ顔を寄せて、彼は気持ちよさそうに眠っているが、夜の間に、彼が何をしているのかは全く知らなかった。
 私は朝型で、たつきは夜型なのだ。当然、生活のリズムも合わない。私が起き出す頃に、恐らく彼は眠りに就き、私が仕事から帰ってくると、彼が自分の仕事に取り掛かる。連絡は夕方ごろから、起き出したであろう彼が送ってきて、私の就業に合わせてくれる。在宅の分、家事の担当も多くて、たつきがこの生活を維持するために頑張ってくれているのは分かっている。
 ただ、私たちは直接顔を合わせて、話をするということがあまりに少ないんじゃないかと思うことがある。これじゃあ、一緒に生活している意味がないような気がする。もっと、たつきと話がしたい。
 そんなある日、たつきが書斎から出てきて、何かを探して、うろうろし始めた。
「どうしたの?」
「爪切りを探してる」
「爪切り?」
「タイプする時、キーボードに爪が当たるのが気になるんだ」
 ふーんと答えながら、引き出しから取り出した爪切りをたつきに渡そうとして、やめた。
「私が切ってあげるよ」
「……」
 たつきは一瞬止まったが、いや自分で出来るよ、といって、私に爪切りを渡すよう催促した。
「ね、私がしたいの」
 そう言うと、たつきはいつも拒まない。
「最近、どうなの?」
「どうって」
「仕事」
「……ああ、締切が重なってね。大変だよ」
「何か、手伝う?」
「いや、大丈夫」
 ぱちりぱちり、と小気味いい音が続く。
「次は、私が桃子の爪を切ろうか?」
「綺麗にそろえてよ?」
「もちろん」
 どうして、この人だったんだろうな、と突然思った。そんなことも思い出せなくなってる自分に驚く。ちょっとした鍵を手に、記憶を手繰る。キーワードは片思いだ。
 私たちはいつでもお互いに片思いだった。ほんの少しずつ、私たちは相手よりも、好きが強いのだ。だから、一緒にいられたんじゃないかな?
「ん?」
「何でもないよ」
 彼も気付いているかな、と考えていたら、小指だけ深爪にしてしまった。もちろん、わざとだけれど。

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