掌編 「よもつへぐひ」
身体にはかみさんが宿っていて、切った爪のひとかけらだっておろそかにしちゃいかんのだって、ばあちゃんが言ってた。
出てきた鼻血を抑えながら、水道のとこに行くとイサナに見つかってしまった。
居ったん?
階段の上から見てたよ。
そいじゃなくて、兎。
冬の冷てえ水で手についた血を洗う。血がさっと溶けるみたいに流れていった。イサナは蛇口の上のコンクリに乗っかって、こっちを見下ろしながら、あんましサボると委員長また泣くよ、と言う。
泣くほど可愛いやつじゃあねえでしょ。
抱かんかった? あったかくてやわっこくて、何かかよわい奴やったよ。
かよわいぃ?
意味は分かるけど、うまく説明できない言葉が最近増えてきた。たとえば、貧弱は分かるし、軟弱も分かるけど、どう違うのかといわれると自信ない。かよわいって、動物に使うような言葉だったか?
いなくなった日ん当番、ナギくんやったろ。何か見んかった?
見るって何を。
こっち、委員長が逃がしたんだと思ってるんけど。
逃がしてどうすんの。
毛皮剥いで売ったり、鍋にしたり。
こういう時、自分がしてみたいこと言うって聞いたよ。
根拠はあんの。証拠ないだけ。
茶化すのはやめた。空を見上げるイサナの目にはかみさんが宿ってるみたいだった。身体ん中に自分以外のものがちゃんと収まってる。別にイサナだって面白がって言ってるわけじゃない。
可愛がってた兎がいなくなったら、委員長かわいそうでしょ。
そいで、自分で?
自分かわいそうにするの、好きそでしょ。もっと可哀想や。
かわいそうな人言ったら、委員長泣くよ。
殺してしまうしかない。可哀想になりたくなる、あれはそういう生きもん。抱いたら分かるよ。
今もそういう気持ちみたいな顔して、イサナは手元を見ていた。汚れ落とすみたいに、親指で手を擦っている。
どんだけ可愛くても、よその命やし。
そこにあったと思ったら、簡単に消えてなくなる。大事なもののはずなのに、腕がもがれたみたいに悲しいのに、悲しいだけ。その気持ちはよく分かる。何も変わったりしないし、自分の身体だって気持ちに追いつかない。悲しみが深い分だけ、身体が裂けるなんてこともない。
でさ、ナギくん。当番やったろ? その日、委員長と一緒にさ。何も見んかったの?
……次の日に委員長が来たよ。箱持ってて、どうしよう言うてた。それ川に流したら、って話して、海まで、流れてくあとからついてった。
手についた血を流して、蛇口をしめた。跳ねた水が地面に染みこんで、排水溝に吸い込まれていった。口元を手の甲で拭うと、また血が付いた。
なんも見てない。箱は開けなかったから。。
中身、見てあげたらよかったんよ。
コンクリから飛び降りたイサナはこっちの手を取り、口をつけた。じわっと温けえのが広がった。
ナギくんになら、って気持ち分かるんよ。こんな話、聞いてくれんのナギくんくらいや。ナギくんには、かみさんが宿ってるんやろね。
美味そうに血ぃ啜るイサナの顔が火照ってる。
委員長は?
あん人はいいひと。どうでも、ね。かわいそうで可愛いけど。
お墓作ってあげんと。
兎の?
それ以外、誰かおる?
おらんね、と笑う。
かみさんには捧げものをしないといけない。自分の身体ん中で悪さするから、そしたら、かみさんは身体の外に飛び出してくる。爪が伸びたり、髪が伸びたり、ぜんぶかみさんの仕業。色んなかみさんがそれぞれ司ってる。
イサナんこと、誰にもしゃべらんから。
階段ですべって転んだだけよ?
全部知ってるから。
……かみさんがやったことも?
イサナのかみさん、好きや。
こっちのかみさんがそうしたいって、ずっと言ってる。イサナのかみさんがすることを見ていたい。身体から血が噴き出すくらい、強くそう思う。ほかの誰にも埋められんこの気持ちを、イサナなら満たしてくれる。イサナのすることが、イサナのかみさんが司ってるものが俺には大切だ。だから。
スコップ取ってくる、シャベル? どっちでもいいわ、そんなこと。坂の下んとこ、ちょうどいい場所あったから、ちょっと行ってくる。桃ノ木坂? そんな名前か、あそこ。
委員長おったー? ヨッチャンの馬鹿でけえ声。今から。
今から探しに下るとこ!
了
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