短編 「八月の水平線」
1
「へたくそ」
声の方へ、千代が振り返った時、そこには誰もいなかった。
「どいて」
千代は強い力で押し出され、椅子から転げ落ちそうになった。机の前から弾かれて、よろけつつ、千代は不機嫌な顔で声の主へと振り返った。
「ちょっと、七海!
「千代はさ、へたくそすぎる。ここはこう描くの、分かる?」
七海と呼ばれた少女は、千代の言葉に聞く耳を持たず、熱心に手を動かして、千代のスケッチに訂正を入れていた。
「返して! 勝手なことしないでよ」
千代は、ぱっと七海の鉛筆を持つ手を掴んだ。すると、七海は、ようやく千代に目を向け、何? と意地の悪い顔で呟いた。
「どいて。私の絵だから」
七海の口が開いて、反論が飛び出そうとした時、美術室の扉が音を立て、顧問の入間先生が中へ入ってきた。先生は二人の様子を見て、顔をしかめる。
「二人とも、遊んでいるの? もう帰る? 遊ぶならエアコン切るからね」
一本の鉛筆を仲良く握りあっている姿は、確かにふざけているとしか思えなかっただろう。二人は納得のいかない顔をして、しぶしぶ離れた。
夏休みの美術室には、先生を除けば、七海と千代の二人しかいなかった。夏のコンクールを目前に控え、本来なら美術部員が集まり、盛大に制作に打ち込むはずなのだが、幽霊部員の多い部活ということもあり、美術室は静かなものだった。
人の出入りの減る夏休みの美術室には、いつにもまして、油臭いにおいが立ち込めていた。
千代は、画用紙に引かれた線に消しゴムを当て、ごしごしと擦りながら、自らの席へ戻っていった七海を睨み付けて、気に入らない、と心の中で呟いた。
七海は学校中が認めるほどの才女であり、美術部一の絵の才能の持ち主だった。また、全国コンクールに入賞した経歴もあり、学校の中だけでなく、その才能は広く知れ渡っている。
千代も、七海の才能を認めていない訳ではない。彼女の絵は好きだった。絵だけは……。
千代は、七海以外のほぼ唯一といっていい、真面目な美術部員であり、そのせいか、よく七海にちょっかいをかけられる。先ほどのダメ出しもそうであるし、突然、画集や美術展の目録を渡されることもあった。大抵、そういった本は大判で重たいのだが、七海はそんなことはお構いなしに、押し付けるように何冊も渡してくるので、千代の方ではいい迷惑なのであった。
さらにひどいのは、千代があるモチーフを描いている時、七海は必ずと言っていいほど、そのモチーフを真似て、千代よりも格段に上手い絵を仕上げてみせることだった。これが嫌がらせでなくて、何だというのだろうか。千代にとっては、劣等感を煽られるようでもあるし、未熟さを嘲笑われている風にも感じられ、出会った当初の憧れは、いつしか苦手意識に変わり、今では関わり合いを避けるようになった。
それでも、七海の方は、千代のそういう機微に鈍感なのか、変わらない態度で接している。或いは、本当に千代に対して、嫌がらせをしているつもりなのかもしれない。
「千代さん、それ、擦りすぎじゃない?」
ふと気付くと、千代の隣に入間先生が立っていた。千代が、七海へ向けていた意識を、画用紙に戻すと、先生の言う通り、紙の擦りすぎで、生地が毛羽立ってしまっていた。よく見ると、画面のそこかしこが、同様にぼろぼろだった。
「新しいの、用意しましょうか」
千代は、はいと声を漏らし、先生の言葉に頷いた。
すると、すっと七海が立ち上がった。
七海は、木枠を持ち出してきて、水張りを始めた。海綿を使って、画用紙をまんべんなく濡らし、手際よく水張りテープで木枠に固定した。
「千代、もう一個いる?」
「え?」
「だから、もう一つ、作ろうか?」
千代は多少、面食らった。
「い、いらない」
だいじょうぶ、と答えれば良かったかもしれない、と後悔しながら、千代は不思議そうに七海を見つめていた。
「二人は、本当に仲良しなのね」
入間先生がうれしそうに言った。
千代は相変わらず、七海を見つめたままで、七海が先生の一言に何の反応も示さないことを、やはり不思議そうに眺めていた。
「ねえ?」
先生の同意を欲しがるような態度に、千代は愛想笑いを返して、自分に対する七海の態度を反芻した。
千代にも、七海が自分にやさしくしてくれているという自覚があった。絵の手直しを勝手にしたり、画集を押し付けてきたりすることが、千代にとって迷惑だとしても、それは七海なりの気遣いなのだ、と。
けれど、それが善意から来る行いだとしても、千代にも受け入れられないものは、やはりあった。
千代にとって、何よりも不思議なのは、七海がそういったコミュニケーションしか取れないことだった。しかも、決まって、絵に関することばかり。それ以外について、七海は寡黙と言って相違なかった。
部活以外で見かける時、七海は必ずと言っていいほど、人混みの中にいて、誰と話すこともなく、喧騒の中で俯いていた。自分から進んで、騒がしい所へ寄っていくのを見て、千代は火に飛び込んでいく蛾みたいだと思った。七海は、他人の他愛ない会話に飛び込んでいって、わざと自分を傷付けているみたいだった。
だから、千代は、七海がさびしがっているのだ、と解釈した。友達もおらず、一人で寂しく、お弁当を食べ、食事が終われば、美術室へ飛んでいって、七海は絵ばかり描いている。
千代は、そんな七海に同情を寄せてはいた。けれど、絶対に友だちにはなれない、という確信もあった。
季節は、まだ寒かった頃にさかのぼる。
その冬、七海は死をモチーフにした絵を描き上げ、コンクールで金賞を受賞した。それまでなら、なんてことない話だったのだけれど、その絵を見た、クラスの女の子が七海に向かって、怒りだしてしまったのだ。
聞けば、そのモチーフは彼女が友人たちに秘密の話として語った、ペットの死に際を描いているのだという。
千代は、彼女が語ったという秘密の話を知っていた。彼女たちのグループは、千代の隣の席に集まり、いつも和気あいあいとおしゃべりをしていたからだ。七海も千代の席の近くだったから、偶然、その話を耳にしたのだろう。
怒りだした女の子は、七海にこの絵を撤回するように言いだした。曰く、これは私の話が基になっていて、それはプライバシーの侵害だから、と。
千代は、彼女の言っていることの是非はともかく、気持ちは分からないでもないと思った。自分が経験した哀しい出来事を、絵にされて、コンクールに提出されるなんてことは、自分の人生を食い物にされているようで、面白くないだろう。
だからこそ、七海の返事に面食らった。
「私は絶対に撤回なんてしない。これは私の絵だから」
結局、その子と七海は大喧嘩をした。喧嘩のあとも、何週間か険悪な雰囲気が続き、七海は彼女のグループの女子から嫌がらせを受け、千代自身も、美術部員ということで巻き添えを喰らった。
千代は、今もあの時の七海の剣幕を思い出して、ぞっとすることがある。たった一言、ごめんと謝ればよかったのではないか。それを頑固に、これは私の絵だ、と言い張り、喧嘩を売るような真似をする必要がどこにあったのだろうか、と千代は考える。
千代には、七海がこだわっている気持ちが、理解できなかった。
2
夏休みだというのに、千代が飽きもせず、毎日毎日、美術室へ通うのは、一つには、七海への対抗意識からだった。
いつも先に来た方が、美術室の鍵を開け、絵を描きながら、相手を待つ。
その日は千代が先で、七海は昼頃になって、ようやく美術室に顔を出した。
「今日は入間先生、休みだって。鍵とエアコンのスイッチだけ、忘れないようにしてねって」
「……うん」
七海は曖昧な返事をして、荷物も下ろさず、窓際へ寄った。山の中腹に建てられた学校からは、街と海が一望でき、太平洋へ突き出た岬や半島が、のこぎり状になって見える。
「この街は涼しいね。東京は気温三十五度だって」
千代は画用紙から顔を上げ、何を言っているのだろう、という顔で七海を見た。
「それで?」
「だから、涼しいねって」
「そりゃあ、東京に比べたら涼しいかもしれないけど、街を歩いていれば、汗だってかくよ?」
「ねえ、窓、あけてもいい?」
七海は千代の返事を聞く前に、錠をおろして、窓を開け放った。海風が部屋へ吹き込み、七海の短い髪を揺らす。終日、入間先生が持ち込み、製作していたプリントがまき上げられ、美術室中に散らばった。
「ちょ、ちょっと七海!」
千代が駆け寄り、窓に手をかける。
「閉めるの?」
七海は真っ直ぐで透明な瞳で、千代を見つめ、うろたえさせた。が、千代はすぐに持ち直して、
「どうして、開けたの?」
と尋ねた。七海の、閉めるの、という言葉への反発のつもりだった。
「もっと色んな音がしていた方がいいと思う。蝉の声とか、車の走る音とか」
七海は千代から目を外し、再び、湾になっている半島の海を遠い目で見下ろした。
千代は、七海の顔を見つめ、目の前の才女は一体、何を考えているのだろうと思った。絵が抜群に上手くて、勉強も出来て、運動神経もいい、才能の塊のような少女を、千代は得体のしれないもののように感じていた。ずっと、ずっと出会った頃から、その違和感はあったのだが、千代は知らない振りをしてきた。いや、違和感を覚えてはいたけれど、それが何なのかということは、千代には分からなかったのだ。
もちろん、今も千代が理解できている訳ではなかったけれど、ぼんやりと、七海への違和感の正体に気付き始めていた。
「七海は何を見てるの?」
「……海だよ」
七海は憂いを帯びた目で返すと、席に着き、描きかけの画用紙を取り出し、机の上に置いた。
「窓、閉めるよ?」
七海は返事どころか、顔も上げなかった。
「閉めるからね?」
相変わらず、何の反応もない七海に、千代は腹を立てながら、窓を閉めた。背の低い千代は、少しばかり外へ出っ張っている窓に背伸びをしなければ、手が届かない。つま先立ちで、鍵を閉め、千代は振り返った。
「七海、絵はどのくらいで終わりそう?」
と言い終わる前に、あっと声が出た。
七海は木枠に水張りした絵を、スナック菓子の袋でも開けるみたいに、ばりばりと引き裂いていたからだ。
「な、何してるの!?」
「気に入らないから、次のを描く」
半分ほどアクリル絵の具が乗っていた絵は、三つほどの大きな紙片に変わり、机の上へ無残に投げ出された。
七海はその紙を机の真ん中に集め、くしゃくしゃに握りつぶそうと、手を広げた。
「待って」
千代は、ぱっと手を伸ばし、七海の手を掴んだ。
「何」
と、七海。千代は反射的に言葉を返した。
「そんなことしないで」
「何で、千代がそんなこと言うの? 私の絵だよ」
「いらないなら、私がもらう」
「何でよ。そんな紙くず」
千代は、ぐっと言葉に詰まった。千代自身、どうしてそんなことをするのか、分からなかった。回らない頭で、ぐるぐると考えを巡らせて、どうにか
「七海の絵、好きだから」
と答えた。
「……」
千代は、七海が面食らったのを見た後で、案外、自分の返答も悪くなかったとほくそ笑んだ。苦し紛れに言った言葉だったけれど、結果的に、七海を黙らせることに成功し、千代は優越感を持って、椅子に座る七海を見下ろした。
紙片を大事そうに抱え、千代は言う。
「これ、もらうからね。いいでしょ?」
苦々しい表情で、七海がうなずいた。思いがけず、千代には絵の残骸が大切なものに変わった。何だか、今まで一方的にやられていたばかりの七海をやりこめて、一矢報いたよろこびと、七海の本性を知る前の、ただ純粋に七海が描いた絵に憧れていた時の気持ちが一緒になり、千代の胸をあたためる。
けれど、千代はその気持ちには気付いていなかった。七海をやっつけた、ということにばかり意識が向かって、絵を手に入れたよろこびについては、ほとんど無自覚だった。
一方で、七海は、にやにやと頬を緩めた千代を、不機嫌な顔で見つめ、千代に黙らされたことを静かに恨んでいた。負けず嫌いと言えば、それまでだが、それだけでは説明しきれないものも、七海の中に確かに存在していた。
「私、もう帰る」
苛立ちに任せ、七海は椅子を蹴飛ばし、美術室を飛び出していった。千代が止める暇もなかった。
取り残された千代は、ふと寂しさを感じた。けれど、すぐに七海への反感から、さびしさを否定し、振り払ったが、胸の内に吹きすさんだ風に、一層、人恋しくなった。
千代は、どちらかが悪い訳ではないのに、お互いがお互いを不機嫌にさせてしまうことに、胸を痛めた。千代が七海の絵を褒めたことは、ある種の意趣返しだったかもしれないけれど、言葉は本心から出たものだった。
それでも、七海は千代の言葉を喜ばず、不機嫌になったし、千代自身、顔をしかめた七海を見て、いい気になった。
千代はままならない現実に溜め息を吐き、机に伏した。
窓の外では、傾き出した太陽が午後の色をして、黄色い光線で街を染める。夕暮れが近くなっていた。
「千代さん、まだいる?」
千代がはっと顔を上げると、入り口には入間先生が立っていた。
「あれ、今日はお休みじゃ?」
予想外の、先生の登場に、千代の頭から、さっきまで考えていたことがすっぱりと吹き飛ぶ。
「学校に忘れ物しちゃって。千代さんたち、まだ頑張ってるかなって、顔を見に来ただけ。七海さんはまだ来てない?」
「七海はさっき来て、すぐに帰っちゃいました」
「あれ、珍しいね。七海さんが絵も描かずに帰っちゃうなんて」
思案顔になった先生が、千代が胸に抱えている紙片に気付く。
「千代さん、それ」
千代は指差されて、どぎまぎとした。
「あ、あのこれ、わたしがやった訳じゃなくて――」
「――七海さんが来て、やっていったの?」
は、はい、と千代はうなづいた。
「残念。とても素敵な絵だったのに」
入間先生は千代の隣へ寄ってきて、どこまで出来ていたの、と千代に尋ね、紙片を机の上に置くよう促した。
三つの絵の欠片が、ジグソーパズルのように整えられ、元あった形に繋ぎ合わされた。
千代が、今回の七海の絵を、はっきり見るのはこれが初めてだった。
「これ、ここから見た街の景色ですか?」
七海の絵は、水彩のような色遣いで描かれた、街と海を俯瞰する風景画だった。ただ、よほどの高い所から見下ろしているのか、街並みはほとんど豆粒のように見え、画面を埋めるのは、暗い夜空や雲の渦巻きもよう、そして、あまりに丸く歪められた水平線だった。
線は絵の重力に従って、あらゆるものを巻き込みながら、中心に向かって落ちていた。大きな渦の周りに、夜空や雲、海や山が同じように引力に引かれて、青白緑のマーブル模様を描き出す。線の全ては、重力の中心である消失点にのめり込んでいき、吸い込まれた風景は、鉛筆の線と同化して、色も形も細い線の中に閉じ込められる。
水平線は光にあふれた空色から、深海の群青色へと変わり、そこへ混じるのは、星空に逆巻く風の夜の色だった。
千代は息を飲み、思わず呟いた。
「綺麗」
千代は指先で、丸い水平線をなぞった。七海が描いた、ふくよかな線は、千代の細い指の影に見え隠れして、新たに描き直されていく。
「私も、こんな絵が描きたい」
隣にいた先生が、にっこりと笑う。名案を思い付いたという顔だった。
「なら、描いちゃおう。これをモチーフにしてさ、千代さんが描きたい絵を描こうよ」
「え、でも……」
「コンクールまであと五日だよ。何を描くのか、まだ決まってなかったでしょう? これで決まり! ね?」
先生は反論の余地を与える暇もなく、上機嫌で帰っていった。
再び、一人になった千代は憮然として、七海の絵をなぞっていた。コンクール用の絵は先生の言う通り、まだ一つも完成していなかった。描きたいもののイメージが不足していて、机の前に座っても、描き損じてしまうのだ。
物音一つしない校舎の中、世界から切り離されたような美術室で、かすかにクーラーのファンの回る音がする。南向きの美術室は、陽が傾いても、ぼんやりと暗くなっていくだけだった。
千代は、不要になった紙の裏に、七海の絵を模写していく。いや、絵の模写というより、線のトレースという方が正しいかもしれない。千代は、七海のなめらかな線の手触りを、必死で追いかけた。
どこまでも続いていく、らせん階段を覗き込むような、めまいのする遠い線の集合体を、千代は暗くなるまで、慈しんでいた。
次の日、美術室には千代より七海が先に来ていて、千代の模写を眺めていた。千代は七海の顔を見て、昨日の内に、絵を処分しておかなかったことを後悔した。
七海は、千代の絵を見下ろしたまま、言った。
「これ、私の絵だよ」
千代は小さく、うん、と答える。
「真似しないで」
そう言って、七海は三枚の絵の欠片を、ばらばらに引き裂いてしまった。ちぎれた紙の切れ端が、はらはらと床に落ち、七海の周りにスポットライトのように広がった。
七海は最後の一枚が動かなくなったのを見届けてから、顔を上げ、千代を睨み付けた。が、七海の腹立たしげな顔は、千代を見て、困惑に揺らいだ。
千代は、七海を真っ直ぐに見つめ、ただ静かに、はらはらと涙を流していたのだった。嗚咽も、慟哭もなく、彼女の頬を透明な涙がこぼれおちていく。
黄ばんだ太陽が夏をあたためていく中、朝に遅れたひぐらしが、訳も分からず、鳴いていた。
3
千代は七海の視線に気付くと、顔を逸らし、ごまかすように薄く笑った。手の甲で雑に涙を拭うと、頬にきらきらする涙の跡が残った。
「片付けるね」
千代はちりとりと箒をロッカーから出して、七海の周りに散らかっている絵の残骸を片付けだした。
静かな美術室に、千代の涙が、ぱた、ぱた、と画用紙の上に落ちる音が響く。
「っ! いいから、貸して」
七海が我慢しきれず、千代の手から箒を奪うと、手持ち無沙汰になった千代は、ぼんやりと、七海が絵の残骸を集め、ゴミ箱に捨てるのを見つめた
ガサガサと、紙片がゴミ箱へ落ちた時、千代は自然と机に足を向けていた。
千代の身体の奥から、何かがふつふつと湧き出してくる。泥のような何かは虹色に輝き、不意に千代を突き動かす。抑えようのない衝動が、千代を貫いた。
先の尖った鉛筆を取り出し、水張りした画用紙に、昨日と全く同じ筆致で、線を引いた。迷いなく、次もまた同じように線を描く。七海の絵の手触りを手繰り寄せ、千代は没頭していった。
眼差しは失われた絵への憧憬を、真っ直ぐ見つめて。
七海は、千代の様子に気付くと、ゆっくりと絵を描く準備を始めた。音を立てないよう、箒を置き、イーゼルを立てて、千代と相対するように椅子に座った。
二人の筆が、そっと線を描いていく。
「それじゃあ、確かに受け取りました。二人ともお疲れさま」
入間先生は、二人の完成した絵を持ち、美術室を出て行った。これからコンクールに郵送するのだという。
千代は隣に座る七海を横目で見た。不機嫌そうに目を細めているが、絵を完成させた達成感からか、表情は明るい。不機嫌を気取るのは、気分がいいのを隠すためだった。
「私、あんな顔じゃない」
と千代が言うのは、七海が描いた千代の肖像画のことだ。机にのめり込むような体勢で、絵に向かっている姿は、実物の千代よりも神経質に描かれていた。
「私の絵だって、あんなへたくそじゃない」
一方で、七海が言うのは、千代が描き上げた絵のことだろう。七海が引き裂いてしまった絵を基にして、千代が描いたのは、幼稚なフラクタル構造の風景画だった。
二人は不服そうにお互いの顔を見つめ合っていたが、ふと表情を緩めると、同時に笑い出した。
二人を、奇妙な連帯感が包み込んでいた。二人は、たった一つの作品を協力して作り上げたような、錯覚を覚えていた。五日間、いや、夏休み中、美術室に籠もって、黙々と絵を描いていた時間が、二人の間に等しく積もり、それが千代と七海を、深い所で結び付けた。
けれど、千代の中の、七海に対する違和感はいまだ、ほどけていなかった。一つ、絵が大好きな女の子、ということは理解した。それで、七海の全てが了解できてしまうことも。
理解不能なコミュニケーションも、嫌がらせのような親切も、絵に対する頑固さも、絵が好きだから、という理由で済ませることはできたけれど、千代はそうしなかった。
今、千代が思うのは、もう少しだけ、七海と親しくなりたい、七海のことを知りたい、ということだった。
「私、千代が怒ってるんだと思った」
ふいに、七海が口を開いた。
「え?」
「私が絵を破いた時のこと。怒って、自棄になって、それで絵を描いてるんだって」
千代は、不意を突かれた気がした。思いがけない所から、すっと突き出されたナイフは、深く内臓にまで至る。
「どうして、あんなに怒っていたの?」
千代は思わず、首を振った。
「怒ってないよ」
「……別に気を遣わなくていいよ。本当のこと言っても、私、気にしないから」
千代は混乱していた。まさか自分が、怒っていたとはまったく思ってもいなかったのだ。七海が絵をちぎって捨てた時、強い衝撃が千代を揺さぶったのは確かだったが、千代にとって、それはかなしみであるはずだった。
「分からない。私、ただ夢中で、えっと、七海の絵を残しておきたいって思っただけだから」
「あの絵……そんなにいいと思ったの?」
「いいとか、悪いとかじゃ、多分ないんだと思う。あの絵は、私の絵なんだって感じたから」
三つの絵の破片を、七海の手から取り上げたあと、千代は、あの絵が自分の心の中に、小さく場所を占めたという感触を覚えた。だから、絵が破かれた時、自分の身体が引き裂かれたように、千代は感じた。
「私の絵……」
千代は、また七海に怒られるような気がして、身構えた。けれど、七海は静かに、こう言った。
「分かる気がする。私も、千代を描き終えた時、これは私だけの絵じゃないって思った。これは私たちの絵なんだって」
それは五月。千代と七海が美術部に入部して、間もない頃で、ちょうど一番初めの作品の完成を目指している所だった。
初夏の風が新緑のみどりを美術室へ吹き込む中、千代は自らの前の席に座っている七海に、目を奪われていた。
千代の席からは、七海が、絵を描いている姿が見えた。
背筋をぴんと伸ばして、軽やかに筆を運んでいく七海と、まるでキャンパスに埋もれていた模様が浮き上がってくるかのように、一筆ごと、はっきりと形を表していく油彩。それは、学校から見る海のように、青く澄んで、きらきらと光っていた。
千代は、この時、はっきりと思った。
この人みたいになりたい、こんな絵を描いてみたい、と。
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