掌編 「ビルを喰うビルの街」
「このビルは、築何年でしたか?」
半袖のワイシャツを着た、クールビズルックの若者が、後ろを歩く腰の曲がった管理人へ振り向き、尋ねた。
髪の薄い老人は、わずかに白髪の残った頭を掻き、あー、と歯切れ悪く、言い淀んだ。それを見て、若者はすぐに付け加える。
「今、いる場所は、築何年のビルです?」
古ぼけたビルの通路は、かび臭い空気に満ちていた。ぼろぼろの内装は剥げかけており、指で触ると、荒い石の粒が削れ落ちた。煙草のヤニで黄ばんだ壁は、その昔、この通路を通る誰もが喫煙者だったのだろう、という今はなき過去を思わせる。低い天井には、在りし日の煙草の煙が見えるようだった。
「ここは、もう六十年近くなりますかな。私が子どもの頃からありましたから」
若者は、バインダーに挟んだ資料と、六十年前よりも狭くなったビルの通路を見比べた。
「他は、どんな具合ですか?」
「ここの南側は、ちょうど建ってから三十年目のビルが食い込んできていて、それに押された築六年のタワーマンションが東の角を、ちょうど食い荒らしている所ですな」
若者は七三分けの髪を触り、資料をめくった。
「ええと、一年前に調査したのは……」
「確か、背の低い、太った方だったと思いますが」
「ああ、見つかりました。黄瀬さんですね」
「元気にしてらっしゃいますか?」
若者は神経質そうに目を光らせたが、一度、瞬きをすると、何事もなかったように資料に戻った。
「退職して、田舎に帰りました」
老人は彼のぶっきらぼうな言い方に、少し肩透かしをくったようだった。残念がるようなことを言うと、二人は黙り、廊下に静寂が訪れた。
築六十年の三階建てのビルでは、古いコンクリートが、他の新しいビルに咀嚼される、しゃくしゃくという音が響いていた。
虫が葉を食べ、大きく成長するように、この街ではビルもまた、コンクリートを食べて、成長する。
「一階に飲食店がありましたね。店主の方には、どのように説明されていますか?」
「このビルがなくなることに関しては、あちらも理解されていますね。いつかは起きることだった、と。ここの三階を住居にしていましたが、当面は都会に住む息子さん方のお世話になるそうです。本人たちも高齢ですから、職を失うよりも、移住することの方が重荷でしょうな」
若者は、もう何十回聞いたか分からない話に、ほとんど無意識で相槌を打っていた。管理人の老人も、よほど彼らに感情移入しているのか、ぺらぺらとプライベートなことまで語りだす。が、若者はそれを止める気配もない。自由に喋らせたあとの方が、スムーズに事が運ぶことを知っているのだ。
管理人は、ひとしきり店主たちの不幸を嘆くと、今度は、ビルを失う自分の身の上や、それが与える影響などを、とうとうと話し始める。当然、若者は資産であるビルが他のビルに飲み込まれることで、市や県、国から多額の補償金が出ることを知っている。老人の顔が、わずかに喜色めいて見えるのも、あながち、彼の贔屓目ではないだろう。築六十年の粗大ごみが消えることで、高齢の利用者を追い出す大義名分を得、そして、それが金を生み出すなど、想像するだけでも羨ましい限りだ、と若者は考える。
だが、それはもう少し先の話だ。
「避難経路はどうなっていますか? 確か、このビルには二つ階段があったと思いますが、ここの廊下がこれだけ狭くなっていますから、そちらも侵食が大分、進んでいるのではないですか?」
若者は、老人を一通り喋らせたあとで、畳みかけるように問いかけた。彼の予想通り、管理人はじんわりと嫌な顔をした。
「ええ、狭くはなっていますが、大丈夫だと思いますよ」
「案内していただけますか?」
この先の突き当りです、と老人は答えた。
通路の壁は、南から来たビルとほとんど同化を始めていた。そこには本来あるはずのない窓があり、いま侵食を続けているビルが、もし隣接していたのなら、この窓はどこから来たのだろう、と若者は考えた。
「ここです」
コの字型に曲がって、昇ってくる階段を、若者は見下ろした。踊り場がビルに食われ、ちょうど壁から、上りと下りの階段が生えて来ているように見えた。
「これじゃあ、この階段は使えませんね」
「はあ。でも、向こうにも別の階段がありますから」
「こちらの通路の幅も、建築害防止条例に違反する可能性がありますから、充分な設備とは言えませんね。まだ、飲食店の方々が、お住まいですよね」
老人は苦い顔をしたが、若者は構わず、続ける。
「これ以上、住み続けるのなら、新しい設備の設置が必要ですし、すみやかに退去していただくことも、考えないといけませんね」
老人の睨み付けるような視線に、若者は内心で溜め息を吐いた。この後に続く言葉を、彼は知っている。杓子定規な決め付けをするな、と彼らは批判する。どうせ役所の人間なんて、街に住んでいる人間の気持ちなど分かりはしないのだ、と罵倒するに決まっているのだ。
若者は甘んじて、批判を受けるつもりでいる。自分の仕事が融通の利かない性質のものだと理解しているし、それが市民との利害の一致を妨げていることも。
ただ、彼が思うのは、それがこの街を襲う災害の構造がもたらす問題なのだ、ということだった。
日本中の地方で起きている現象の一つが、今、この街に起こり、じわじわと街を殺していくのだ。ビルが人を駆逐し、街からは人がいなくなっていく。
この小説はこれでいったん終わりですが、ここからまだ続きを書こうかな、と考えています。また機会があれば、投稿します。
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