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中編 「世界は丘の向こう側」

1、そらの場合

「わたしがいなくなったら、バイクはそらが使ってよ」
 ひなたと最後から二番目に会った日、これからのことについて話したのは、その話題だけだった。ひなたはいつものように、太陽みたいに笑って、学校のことを聞きたがった。
 ガラス越しに見る訓練室はひどく殺風景で、私は取り残される私たちより、ひなたに同情してしまい、何気ない話も盛り上がるよう脚色して話した。あすかちゃんに叱られた話や、ちあやさんが直してくれたラジオ、先生が隠していた秘密のお菓子などなど、大げさに、大げさに、たくさんの息を吹き込むように話を膨らませた。
「わたしが宇宙に行っても、大切に乗ってね」
 別れ際、ひなたは私に鍵の束をくれた。一つ一つ、これは何の鍵、どれの鍵と説明してくれた。鍵は全部で四つあって、一つはバイクの鍵、あとの三つは大切な時に使う秘密の道具だとひなたは言った。最後にストラップを指差して、覚えている? 私に尋ねた。
 私は頷いて、覚えてるよ、と繰り返す。
 銀のイルカのストラップ。昔は青い色をしていたけれど、もうすっかり色が剥げて、銀色だ。
「元気でね、ひなた」
 つっかえずに言えたことが、奇跡みたいに思えた。きっと、別れる時には泣いてしまうだろうと思ったから。
 ひなたはやっぱり、にっこりと笑って、私を見送ってくれた。いつも明るくて、春の香りに包まれた、私の親友。
 彼女は人類代表として、宇宙へ旅立っていった。

 月灯りに、校舎の影が色濃く伸びていた。夜空の青を薄めて、あまりある月光が病人のように青ざめた学舎を、いっそう白く染めている。月は空の半分ほどを埋め尽くし、その身を半ば、校舎に隠していた。
 その月灯りの下で、軽快なエンジン音が遠くこだまする。校舎に残っていた生徒たちは、窓から身を乗り出して、喧騒の渦を高く、盛り上げる。
「そらー! 止まって! 止まりなさい!」
 グラウンドを一台のバイクが疾走している。そこには二人の女子生徒が乗り、後ろを髪の長い生徒が追いかける。
「と、とまらないよー!」
 と叫ぶのは、二宮そら。目を白黒させながら、ハンドルを握り、玉の汗を流して、ふらふらとバイクを走らせる。肩ひじ張った姿勢から真剣さは伝わるのだが、その真剣さがまったく運転に表れていないのが、そららしい、といえば、らしかった。
 彼女の後ろでは、お下げ髪を揺らし、ブレーキ、ブレーキと弱々しい声で叫びながら、神田ちあやが祈るように、そらにしがみついている。そらの背中に頬を押し当て、胴回りに回した腕で、そらのお腹をぎゅうぎゅうと締め付けるのだが、それが却って、そらを慌てさせていることには気付いていない。恐怖に目を閉じ、うわ言のように、ブレーキ、ブレーキぃ、とちあやは泣いた。
 そして、その危なっかしい運転の後を、息を切らし、東雲あすかが追いかける。そらたちが、何とも絶妙な速度で前を行くので、あすかは中々近付けないでいた。走るよりも遅い速度のバイクに追いつき、ようやく捕まえたと思うと、すぐに加速して、引き離される。そんなことをもう何度も繰り返しているからか、あすかの表情には苛立ちが募り、そらの背中にかける言葉も厳しくなっていく。
「バカそら! 止まりなさい!」
 が、なにせ走り回って、息が切れているものだから、その声も、パニックになっているそらには届かない。
 追いつき、引き離され、幾度か、またそれが繰り返された後、あすかはついに足を止め、膝に手を突いて、追いかけるのを諦めた。
「ぶ、ブレーキって言ってるのに」
 あすかが、はぁはぁ、と肩で息をして、がっくりと頭を落とした瞬間、彼女の前方で、がしゃん! と音がした。
「え?」
 あすかが視線を上げると、バイクは横倒しになり、タイヤが空転していた。生垣のコンクリートブロックにぶつかり、倒れたのだろう、とは予測がついた。だが、そらとちあやの姿が見えない。
「ちょ……そら、ちあやさん!」
 あすかが重い足をひきずるようにして、駆け寄ると、生垣の向こうから、そらがむっくりと起き上がった。
「いたた……」
「そら!」
 額を抑え、起き上がるそらに駆け寄り、あすかがぱっとそらの手を掴む。
「平気? 怪我してない?」
 額を抑えた手をどけて、あすかはじっとそらの頭を見つめた。
「よかった、血は出てないみたい」
 ほっと息を吐いて、あすかは安堵する。そらは、呑気に、大げさだよ、と言い、あっけらかんとした顔で、あすかを笑った。
 あすかはその顔を見て、心配して損した、とぼやき、溜め息を吐く。
「あれ、ちあやさんは?」
 と、そら。二人がきょろきょろと辺りを見回すと、
「ここー、助けてー」
 と生垣の中から、手が伸び、ふらふらと揺れた。
 ちあやは生垣の枝に埋もれていた。
「お、起き上がれないよー?」
 そらとあすかで、生垣に埋もれているちあやを助け起こすと、玄関から学年主任の大崎が駆けてくるのが見えた。三人は気付けば、下校中の生徒たちに囲まれ、注目の的になっていた。
「三人とも、何をやっているんですか!」
 野次馬めいた人の群れを掻き分けて、大崎が三人の前に立つ。
「ああ……」
 生垣のコンクリートブロックが崩れているのを見て、大崎は溜め息を吐いた。
「何ですか、これ。どうして学校の敷地内でバイクなんて乗ろうと思ったんですか。どうして問題ばっかり起こすんです……?」
 大崎は額を抑えて、頭痛の種を押さえ込もうとしているように見えた。あすかとちあやが目を見合わせ、先生、と声をかける。
「ごめんなさい、先生。バイクに乗る練習がしたかったんです」
 だが、一番に口を開いたのは、そらだった。あすかは困惑した表情で振り返り、ちょっと、とそらに詰め寄る。
「そんなこと言って、先生を怒らせて、どうするの?」
「え、だって、どうしてバイクに乗るのかって」
「そうじゃなくて、先生は怒ってるの。どうして乗ったのか、聞きたいんじゃなくて、乗らないでほしかったの!」
 そらとあすかが、二人で問答をしていると、背後で、
「バカみたい」
 と呟く声がした。
 あすかはばっと振り返り、その声の主を睨み付けた。
 あすかの視線の先には、高木あいがいた。色素の薄い茶色の猫毛を指で弄び、つまらなそうな目で、あすかの視線を見つめ返している。
「何?」
 棘のある声で、あいがあすかに問い返す。
「どうして、そうつっかからないと、気がすまないわけ」
「別につっかかってないけど」
「その態度がつっかかってるっていうの!」
「それを言うなら、そっちが先につっかかって来たんでしょ」
 弾かれたように、あいに掴みかかろうとするあすかを、ちあやが止めた。その隣で、そらが笑顔を作り、
「ごめんね、驚かせて……」
 とあいに頭を下げた。
 すっかり、二人の剣幕に怯えていた大崎も、あすかとあいの間に入り、
「高木さんも、用がないなら、早く下校して」
 と一応の威厳を見せる。あいは、はぁ、と溜め息とも返事ともつかない吐息を漏らし、きびすを返した。
「何よ、あの態度。そらがやさしくするから、つけ上がるのよ」
「あすかちゃんも、相当だよー」
 と冷めた態度で、ちあやが諭す。それを見ていた大崎が、心底、疲れ切った顔で
「三人とも、場所変えるから、とりあえず付いてきて」
 と言って、三人に背中を向けると、あっ、と声を出し、もう一度、そらたちの方に向き直った。
「怪我、ない? というか、一番に聞くべきでしょ、私……」
 と言い、がっくり肩を落とした。
「私は平気です」
「私も」
 とあすかとちあやが順に答えて、それぞれがそらを見る。
「へ、平気です」
 そらはえへへ、と頭を掻いた。
「血、出てるわよ、二宮さん」
 はーあ、と大崎は頭を抱えた。
「まずは保健室からね」
 そらの怪我が軽い擦り傷と分かると、大崎のお説教は、一時間ほど続いた。このご時世にガソリンがどれほど貴重なものかとか、学生が遊び半分で使っていいものではないのだとか、危機感のない態度が成績にも表れているとか、散々、まくしたてた後、彼女は急に冷静になり、まあ、そんなこと言っても、しょうがないんだけどね、と自分に言い聞かせるように呟いた。
 三十年ほど前、月に隕石が衝突し、以来、地球の環境は大きく変わった。月が以前よりも地球に接近し、引力の影響から自転周期が遅くなり、月が覆い隠す地域には太陽の光が届かなくなった。それらの影響はすぐには表面化しなかったが、時が経つにつれ、決定的な事実が判明すると、事態は一変した。
 月は今も地球に向かって、落ちている途中であり、二つの星は引かれ合い、いずれ衝突する運命だと、各国の研究機関が発表した。そして、そのエックスデーがおよそ百日後だと公表されたのが、前日のことであった。
 街の空は長らく、夜のままである。

 指導という名の愚痴から解放され、そらとあすかは街へと続く坂を下っていた。丘の上にある学校からは街の外の地平線が見え、ちょうど下校の頃、夜明け前の桃色とも橙色ともつかない太陽の光の残滓を目にすることができた。
「ちあやさんは?」
「先生から呼び出しだって」
 地平線の色を眺め、二人は急な坂を下っていく。そらの右手には包帯が巻かれていて、それを庇うように、あすかがそらの鞄を持っていた。
「一つ、聞いてもいい?」
 あすかがそらの方を向くと、彼女の顔は月の逆光になり、表情が見えなくなった。
「どうして、あんな危ないことしたの? それに、あのバイク、ひなたのでしょう」
 月は校舎の裏に隠れ、二人は暗い夜の日陰に入った。ひんやりとした空気が彼女たちの頬に触れ、怖いほどの沈黙が流れた。
「私、ひなたにもらったバイクで太陽を見に行こうと思うんだ」
 あすかが立ち止まる。不思議そうに振り返ったそらの手を掴み、
「ダメ! 何、バカなこと……」
 痛いよ、とそらが呟く。
 あすかは、包帯の巻かれたそらの手をじっと眺め、ごめん、と目を逸らした。
「何、言ってるんだろう。これじゃ、あいと同じだよね」
 口を固く結び、あすかは伏し目がちに、何か思案しているようだった。美しく長い髪がこぼれ、俯いた顔の横を流れた。
「でも、どうして? 何か、理由はあるの?」
「……太陽って、綺麗だなって思ったから」
 そらが視線を向けた先には、燃える地平線があった。地獄の釜が開いて、わずかな隙間から地獄の業火が垣間見えるような光。あすかには、そう見えた。
「いつも通り、何も考えてないのね」
「うん、それに、ひなたにも見えるかなって。端まで行けば、私は太陽の影でしょう。そしたら、私の影が月に映って、宇宙にいるひなたにも分かるんじゃないかって思うんだ」
 あすかはもう一度、そらの顔を見た。やはり、表情は影になって、分からなかったが、きらきらと光る瞳は見つけることができた。
「そう、かもね」
 だから、否定するようなことは言えなかった。

 次の日、大崎に没収されたバイクが返ってくるということで、そらとあすかは放課後、駐輪場へ向かった。
 駐輪場には一足早く、ちあやが来ていて、既にバイクの点検をすませているようだった。
「ちあやさん、どうですか?」
「フロントフォークとハンドルがちょっと調子悪いねー。倒れた時に、歪んじゃったかも。ただ、ライトは平気だったし、エンジンも問題ないかな」
 けど、とちあやが続ける。
「けど?」
「ガソリンが抜かれてる」
 えー! とそらが叫んだ。
「そんな! どうしてですか?」
「先生たちがやったみたい」
「だから、おかしいって言ったのよ。こんなすぐ返してくれるのは、裏があるって」
 どこか自慢げなあすかを尻目に、そらはバイクにもたれかかって、へなへなとへたりこんだ。
「あ、ごめん……」
「ううん、あすかちゃんは悪くないよ」
 サドルに抱き付いて、そらはバイクに頬ずりを始めた。うー、あー、と言葉にならない何かを、口から垂れ流し、泥のように溶けかけている。
 それを脇に、あすかはちあやに、ちょっと、と声をかけ、そらに聞こえないよう、背を向けた。
「ちあやさんは、そらがバイクで何をするつもりか、知ってるんですか?」
 ああ、そのこと、とちあやは至って呑気に答える。
「太陽を見に行くんでしょ。私も付いていくつもり」
「止めないんですか?」
「どうして? みんな、もうすぐ滅んじゃうのに」
 低い声の調子に、あすかがはっとして、ちあやの顔を見ると、彼女はにやりと笑って、ふふふ、と不敵な声を出した。
「あすかちゃんの気持ちも分からないではないけど、私はどちらかというと、そらの方かなー」
 ちあやはそらを見て、少し遠い目をした。
「どうせ死んじゃうなら、好きに生きたっていいんじゃない? って、私は思うなー」
「……別に、その考え方を否定したい訳じゃないんです。ただ、もっと別なことはないのかって思うだけで」
「じゃあ、あすかちゃんはお留守番ね」
 ぽんと頭を撫でられるあすか。唇をとがらせて、不服そうにちあやを睨んだ。
「別に、行きたいって言ってないですし」
 あすかもそらを見て、物憂げに表情を曇らせた。
「私、ひなたと約束したんです。そらのこと守るからって」
 あすかは頭の上のちあやの手を振り払い、挑戦的に瞳を見つめ返し、
「このバイク、もう走れないですか?」
 と聞いた。
「リザーブなら、少しは動くと思うよ」
 それを聞いて、あすかは、よしっ、と自分の頬を叩いた。
「そら! 私を下まで乗せていって」

 バイクを学校の坂の目の前まで移動させると、あすかはちあやから受け取ったグローブとヘルメットを装着し、そらの後ろに乗り込む。
「ホントに下まででいいの? 家まで送るよ?」
「あの運転を見て、そこまでお願いする勇気は、さすがにないから……」
 どういうこと? とそらは本当に分からないといった様子で、あすかの方を見た。
「これはテスト。無事に下まで行けたら、そらのこと手伝ってあげる」
「……よく分からないんだけど」
「ガソリンのこと! あてがあるの」
「えー! それなら、今、教えてよ」
 あすかは子どもみたいに無邪気に笑って、そらのヘルメットをがしっと掴んだ。
「いやよ、絶対に教えない。もし、今教えて、そらが事故でも起こしたら、全部、私のせいじゃない。そんなのは絶対ダメ。だから、テストするの。ガソリンが欲しいなら、とにかく合格すればいいのよ。それで問題は解決」
 ほら、前を向いて、とあすかは鷲掴みにしたヘルメットごと、そらを前に向かせる。
 少しむくれていたそらだったが、納得したのか、ヘルメットの紐を再度、締め直すと、バイクのキックに脚をかけ、一発でエンジンを始動させた。
「わっ」
 ぼぽぽぽ、と軽快なリズムを刻んで、あすかの足の間でエンジンがぶるぶると震えた。そらは、アクセルを捻り、ぶるる、ぶるる、と二回、エンジンを空ぶかしする。
 エンジンの音を聞きつけたのか、職員室がにわかに騒がしくなり、窓から大崎が顔を出した。
「こらっ、二宮、神田!」
「先生たちは、私が食い止めるよ」
 というちあやに、そらはサムズアップで答えた。
「それじゃ、あすかちゃん、準備はいい?」
 あすかはそらにぎゅっと抱きついて、うん、と頷いた。ガッ、チャンと音がして、ギアが入ると、間抜けたエンジン音に似合わない馬力で、バイクは発進した。発進に合わせて、あすかの身体は揺れ、そらのヘルメットにこつんとぶつかった。
「しっかり掴まってね」
 エンジンが音を高く響かせたと思うと、再び、ガッ、チャンがあり、ギアがファーストからセカンドに入る。
 それが二回続いて、バイクは坂を滑走し始めた。一瞬の浮遊感と加速のGが、交互に入れ替わるのを、あすかは怖いと思った。が、すぐにそんな感傷は塗り潰された。
 そらとあすかは、軽妙なリズムと共に坂を下っていく。丘から街に続く道は丘の周りをとぐろを巻くように、右にねじれる。彼女たちの行く手には、大きな月があり、薄暗いアスファルトの舗道を黄色く照らしていた。
 ゆるく続くカーブを、そらは一定の角度を取り、余裕を持って、曲がっていく。それに合わせて、あすかも身体を傾けると、そらの肩越しに、前方が見えた。
 途端に、交互二車線のそれなりに大きな道幅が、狭くなっていくように見えた。道々に据えられたマンホールや、道路に浮いた砂利に、バイクはこのままコケるのではないか、という予感がよぎる。
 二人の影は、丘の背面に面する、竹林の中に入った。
 あすかは思わず目をつむる。頬に当たる風が強かったからではない。歯を食いしばって、そらにしがみつき、どうして自分はこんなに頼りないのだろう、と思った。やっぱり、私はひなたの代わりにはなれない、と。
「あすかちゃん、見て」
 そらのお腹に回した手に、彼女の左手が重なる。
 閉じたまぶたの上から、光が当たり、あすかの視界が、目を閉じていても明るくなる。あすかは眩しさに恐怖も忘れて、目を開いた。
 目の前に、月が見えた。にっこりとえくぼを見せて、笑う月。眼下には、地平線まで続く街並みが月灯りに照り映え、その向こうに、太陽の赫々とした炎の指先が、稜線の向こうから伸びているのが見えた。
「綺麗でしょ?」
 顔は見えずとも、あすかには、そらがほがらかに微笑んでいるのが分かった。上機嫌のそらは、あすかの手を掴み、疾走するバイクの横へ、翼のように広げた。
 あすかの手に、時速四十キロメートルの風がぶつかる。それは想像していたよりも、ずっとやさしい風だった。びぃーん、と高鳴るエンジン音が、今度はどこか間抜けな音に聞こえ、あすかは笑った。
 風に対し、手の平を垂直に立てると、重みが加わり、腕が後ろに流れた。それをあすかは、まるで世界の手触りみたいだ、と思った。街のパノラマを、二人の白い指が撫でていき、月光に縁どられたその影は、夜空を飛ぶ爆撃機のように、家並みの上を這いまわる。
「いいでしょ、これに乗って旅をするんだよ」
 あすかは、そらに身を寄せて、ぴったりと身体を重ねた。風に凍えたあすかの身体は、そらのあたたかな背中を、以前よりもっとずっと心地いいものだと感じた。
「そらのバカ……」
 あすかが小さな声で呟くと、そらは案の定、何か言った? と呑気に答えた。
「何でもない!」
 月灯りの下を、バイクの影が滑っていく。二人の親友を乗せて。

2、ちあやの場合

 私は、自分は頭がいい、と信じてきたし、今もそう悪くないと思っている。学校の勉強は授業を聞いているだけで充分だし、説明書があれば、大抵のものは作れてしまう。機械いじりは、父親の仕事を見ている内に習った趣味で、家電の修理くらいなら何でもこなせる。苦労を知らない小童と評されるなら、それも多分、間違ってはいないだろう。現実世界はコンピュータの中のシミュレーションなのだ、という実感を持っていた頃の私は、生意気なガキだったから。
 マクロを組んで、数値を代入すれば、ご覧の通り、結果が出力される。どんな場所で作っても、ミックスジュースはミックスジュースなのだ。
 けれど、そんな世界を打ち破ったのは、ひなただった。私にとってのカオス理論。
 私の知る限り、完璧超人とは彼女のことを指す言葉だ。なにせ、人類の新たなアダムとイブに選ばれるほどなのだし。
 とにかく、滅びゆく世界で私が無様にあがいているとしたら、それは何といってもひなたの責任だ。
 彼女が教えてくれたほど、世界の手触りというのは、なめらかではない。

 そら、ちあや、あすかの三人は古ぼけたガレージの中にいた。部屋の真ん中には、バイクが置かれ、用途の想像もつかない奇妙な工具が、壁にかけられている。
「ひなたが準備のいい子で本当に助かったよ」
 と、ちあやが二人に振り返る。
「スペアパーツが全て、揃えてあったから、修理は問題なく済んだ。何なら、もう一台バイクが組めるほどだったよ」
 ただ、と声の調子が低くなり、
「問題はガソリンだ。相変わらず、燃料が足りないし、それに、あすかちゃんも一緒に行くことが決まって、さらなる問題も発生したかなー」
 呑気にバイクを眺めていたそらが、
「何ですか?」
 と口を開く。
「バイクが足りない」
 元々、そらとちあやの二人乗りで、地平線の果てを目指す計画だったのが、あすかの参加によって、崩れた。三人乗りも不可能ではないが、その上で、荷物を積むということは現実的に厳しかった。
「でも、私、バイクの運転なんてできません」
 弱腰のあすかが、ふるふると首を振る。長い髪がふわりと揺れた。
「できないじゃなくて、練習するの」
「そ、そういうちあやさんは運転できるんですか?」
「私? できるよ」
 だって自転車と同じでしょ、と続いた文句に、あすかは眉をひそめる。
「あすかちゃんは自転車も乗れないもんね」
 と口をはさんだそらを睨み付け、あすかは挑むようにちあやを見つめた。
「予備のバイクがあるんですか?」
 ちあやはガレージの真ん中に据えられたバイクに視線を移し、
「あることはある」
 と曖昧な返事をした。
「それより、ガソリンの件はどう?」
「まだ交渉中です」
「それじゃあ仕方ない。そら、あれ貸して」
 ちあやはそらから受け取ったキーホルダーの内、一つの鍵を選び出すと、ガレージの棚を開け、その内側の金庫に、鍵を使用した。
「これで本当の本当に最後だ」
 取り出したのは、ガソリン携行缶だった。
 ちあやは携行缶をあすかに持たせ、自分はガラクタの山に手を突っ込んで、何かを探す。
「中身、ほとんど入ってないですよ?」
 ちゃぽちゃぽ、と中身を揺らして、あすかが尋ねる。
「それ、ひなたが残してくれた秘密のガソリンなんだ。初めは、その缶いっぱいに入ってたんだけどね」
 と、そら。
「それを使うということは、つまり、この旅が成功するかは、あすかちゃん次第ということになるね」
 そう言って、ちあやは笑った。
 そして、ガラクタから目当てのものを見つけたのか、小さく感嘆の声を漏らして、手を引き抜くと、そこには古臭い鍔付きの半キャップがあった。
「まずは、バイクを探しに行こうか」

 目的地は、ちあやの祖父の旧宅だった。峠を越えたところにある高級住宅街の、ちょうど中ほどにある。隕石の衝突後、街に下りてきた彼女の祖父母は、身一つで山を下りてきたため、家具も車もほとんど手付かずになっているはずだ、というのがちあやの説明だった。祖父がぶらりと遊びに出るのに使っていた原付バイクが、旧宅に眠っているというのだ。
 だが、峠は街から見て東にあり、そこはつまり、交通の要衝でもある。街に届く食料品や日用品の数々は、そこを通って、街へやってくる。また、地球滅亡の発表の以前から、少しずつ悪くなっていた治安を守るため、そこには自警団が検問を張っているはずだった。
 原付バイクに乗り込んだ三人は、ふらふらと街の大通りを走っていく。ふらふらと心許ない今日の運転手は、ちあやだった。
「検問があるのは、山の頂点の休憩所なのは知ってる?」
 ちあや、あすか、そら、と並び、声が聞こえた順に首を振る。
「実は、山を少しのぼったところに、今は使われていない旧道が通っていて、もちろん廃道の名にふさわしい荒れ具合らしいけれど、人が歩いていくくらいはできるっていうんだ」
「そこをバイクで行くんですか?」
「あんまり道がひどければ、押していくよ」
「……何もなければいいですけど」
 とあすかが不安な声を上げたところで、バイクは峠の坂道に差し掛かる。三人を乗せたバイクは、悲痛な叫びを上げて、エンジンを回した。それでも、三人分の重さに、どんどんと減速していくのだが。

 旧道は、ちあやの言葉通り、ものすごい荒れ模様だった。アスファルトは割れ、濃密な下生えがはえており、伸び放題。標識、カーブミラー、ガードレールのどれも苔がびっしりとこびりつき、果てには、ガードレールの端は錆びで朽ち果てようとしていた。さらに、道の脇に生えた木々は好き放題に枝を伸ばし、月灯りの届かない絶対的なくらやみを作り出していた。
「本当に、行くんですか?」
 あすかの消極的な言葉に、
「行くしかないでしょう」
 とちあやが釘をさす。目の前を、バイクの前照灯が弱々しい光で照らしていた。鬱蒼とした寒々しい森の入口は、絵本に出てくるような魔女の住処を思わせた。
「あ、そら?」
 草を掻き分けて、ずんずんと進んでいくそら。ふと立ち止まり、ちあや達の方へ振り返った。
「ここ、獣道になってるよ」
 草の合間に埋もれるように、か細い道が通っていた。
「この道を誰かが利用しているみたいだね。人とは限らないけど」
「ちあやさん、怖いこと言わないでください!」
 意地悪な笑みを浮かべ、ちあやはあすかをからかった。子どもみたいにじゃれつくと、あすかは呆れた目でちあやを見つめ、邪険に扱った。
「ちあやさん、ちょっと変ですよ」
「きっと、怖いんだよ。ちあやさん、中学生になるまで幽霊、信じてたから」
 あ、とも、わ、ともつかない声を上げて、ちあやはうろたえた。
「し、信じてる訳ないだろう」
 ちあやは、そらにそっと近付いて、その話はしないって約束だろう、と耳打ちする。
「そうでしたっけ?」
 と、そらは笑った。
 バイクの前照灯を頼りに、三人は獣道を歩く。周りはまったくのくらやみで、聞こえるのはバイクのエンジンが震える音のみ。月の光が枝葉にかかり、木漏れ日のように、下生えに降る。そのまだら模様の道を踏みしめた時だった。
 きゅい、きゅい、きゅい、と警告音が鳴り、道端のガードレールで何かが赤く光った。
「わ、え、何?」
 とあたふたするあすか。ちあやは彼女の腕にぎゅっとしがみついた。
「ちあやさん、バイク倒れちゃうから!」
 ちあやが手を離したバイクのハンドルを掴み、あすかが彼女を叱る。
「二人ともバイクに乗って!」
 先頭を行くそらが、鋭く声を飛ばす。
「多分、人感センサーだよ。自警団が付けたんだと思う」
 あすかの背中にぴったりとくっつき、ちあやが説明する。
「私、運転できないんですけど!」
「大丈夫、私も初めは下手だったから」
 と慰めるそら。
「早く、そらも乗って!」
 あすかが叫ぶと、そらは首を振った。
 ガードレールに取り付けられたセンサーから、声がして、
「お前ら、そこを動くなよ!」
 三人ともだ、と怒号が飛ぶ。
「私は、追っ手を引き付けるよ。三人じゃ、スピードも出ないし」
「でも――」
「――どこで落ち合う?」
 あすかの言葉を遮って、ちあやがそらに尋ねる。
「検問所で待ち合わせよう」
 と言ったところで、背後から草を掻き分ける音が聞こえてきた。
「それじゃあ、解散!」
 ちあやは渋るあすかの手ごと、アクセルを捻った。バイクは走り出し、あすかはそらの心配どころではなくなる。
 相変わらず、背後では追っ手の立てる物音が聞こえ、道は暗い。
 そらはあすかたちの背中を見送り、ガードレールを飛び越えて、左へ向かって走り出した。新道へ出て、検問所へ向かうつもりなのだろう。
「こら、待てー!」
 捕物帳のような叫び声が、峠に響いた。

 あすかとちあやの二人は、暗い森の奥へ続く獣道をひたすら真っ直ぐ、進んでいた。気付けば、追っ手の足音はもう聞こえない。バイクはのろのろと走り、ガソリンを浪費しないよう、低回転でエンジンが回る。
「そら、逃げ切れましたかね?」
「どうだろう。無事、新道まで辿り着ければ、安全だろうけど」
 と言って、ちあやは辺りを見回した。どこも深い森のくらやみが広がり、音さえ紛れる漆黒が一寸先を塗りこめる。
 二人は再び、無言になった。小走り程度の速度で、バイクは走っていく。
 ふと、あすかが前方に何かを見つけた。
「ちあやさん、あれ」
 彼女の視線の先には、白くたなびく帯状のものがあった。
「あれは、煙?」
 ゆらゆらと揺れて、それは道に覆いかぶさった枝葉の間に消えていく。煙の立ち昇る根元は、わずかに明るくなっていた。
「焚き火でもしてるんでしょうか」
「どうも、消えかけみたいだけどね」
 近付いてみると、それは果たして、焚き火の跡だった。燃え残った炭が燻ぶって、灯り一つない森をほのかに照らす。見れば、ここはよく火が焚かれるのか、下生えがなく、円形に土が露出しており、空を覆う木々の葉も、火に温められて、紅葉していた。
「自警団の人ですかね?」
「……」
 ちあやは辺りをきょろきょろと見回し、あすかにぴったりとくっついた。
「怖いんですか? 私より年上なのに」
 薄笑いを浮かべたあすかは、ちあやの表情を見て、怪訝そうに眉を寄せた。
「あすか、バイクのエンジンを切ったらダメだよ」
 ちあやが小さく囁いた時、焚き火の向こうから、枝を払い、一人の男が現れた。
「あ? 珍しいな」
 ひどく痩せかけた頬が、熾火の灯りで見えた。深い影が男の顔中に差し込み、くらやみに浮かび上がったような瞳が、ぎょろりと二人を見据えた。
「こんな所でどうしたんだ? 迷子にでもなったのか? どこへ行くんだ? 俺が案内してやろうか?」
 男は笑った、ように見えた。口を三日月形に歪めたが、そこはぽっかりと洞のように暗かった。
「私たち、峠を越えて、別荘に行くんです」
「ああ、別荘か。おつかいか? それとも泥棒か?」
「その両方ですかね」
 にこやかに雑談するあすかの後ろで、ちあやは彼女の腰に手を回し、ゆっくりと後ずさった。ちあやの動きにつられ、あすかも静かに後ろへ下がっていく。
「あの、ちあやさん、何してるんですか?」
「しっ、静かに」
 男に聞こえないくらいの声で、二人は言葉を交わした。
「バイクなんて、今時珍しいな。俺も昔はよく乗ったもんだよ。なあ、少し俺にも乗せてくれないか?」
「悪いけど、友だちを待たせていて、もう行かないと」
「そんな連れないこと言うなよ。ほんの少しだけだよ。ちょっと一回り」
 ざく、ざく、ざく、と土を踏みしめ、男が二人を近付く。焚き火を迂回して、あと一歩で腕が届くという距離で、背後から鋭く、笛の音が響いた。
「お前たち、動くな!」
 男女一組の自警団が、警棒を振るい、獣道を進んでくる。
「どうしよう、ちあやさん。また逃げる?」
 あすかは後ろを振り返り、ちあやに尋ねた。
 だが、ちあやは男から目を離さず、じっと身を固めていた。
「ああ、連れがいたのか。残念だなあ。もしよければ、別荘までは俺が案内したんだけどなあ」
 男は二人を見つめたまま、ゆっくりと後退した。熾火の灯りが届かないくらやみに、溶け込んでいくように、男は下がった。
 自警団が二人に追いつくと、彼はすっかり闇に消え、いなくなった。
「あなたたち、二人だけ?」
 自警団の女性が、二人に声をかけた。
「は、はい」
 と怯えたようにあすかが答える。自警団に捕まってしまったという焦りが、表情に出ていた。
「あなたたちの身柄を拘束させてもらうわ。検問所まで連行します」
 バイクのエンジンを止められ、あげく、二人は鍵まで没収された。
「ちあやさん、これまずいよね?」
 とあすかが尋ねるが、ちあやは辺りを警戒し、あすかの声が耳に入っていないようだった。
「ちあやさん!」
 肩をゆすぶられ、ちあやはようやく我に返る。
「な、何、あすかちゃん」
「何じゃないですよ。私たち、捕まっちゃったんですよ?」
「……いや、それでよかったと思うよ」
 え、とあすかが声を漏らす。
 二人は自警団に連れられ、獣道を引き返していた。先頭を行く自警団員が頭に付けた石灯が、ぼんやりと道を浮かび上がらせる。
「あすかちゃんは気付かなかったの?」
「何のことですか?」
「さっきの焚き火の周り、白かったよね」
「……炭、ですよね?」
 一瞬、ちあやは言い淀んだ。口にすべきか、悩んでいるようにも見えた。
「動物の骨だよ。それも大型の」
 わずかに思案し、鹿とか食べるんですかね、とあすかは呑気に答えた。

 一方、そらは自警団に捕まり、ちあやとあすかの二人より先に、検問所に連れてこられていた。薄暗く、寒い事務所に閉じ込められ、軽く一時間は経っていた。
 検問所は峠の頂上の開けた場所にある。隕石が衝突する前は、日の出を拝む観光地として有名だったため、今も、広い駐車場と展望台が残り、自警団がそれを利用し、活動している。
 事務所の窓からは、ちょうど広い駐車場が見えていた。そらが捕まってからは、二台ほどのトラックが街へ下りていったきりで、検問は平和そのものだった。
 時折、自警団のメンバーがそらの様子を見に来たが、話しかけもせず、すぐに事務所から離れていった。おかげで、そらは暇を持て余し、天井の染みを右端から数える羽目になっていた。
 すると、外でエンジン音が聞こえ、そらの視界に一台の大型トラックが滑り込んできた。運転席から下りてきたのは女性で、そらは少し驚いた。
 運転手は、そらの視線に気づいたのか、事務所に目を向ける。彼女はひらひらと手を振り、助手席に何か話しかけたようだった。
 彼女は助手席から下りてくると、真っ直ぐに事務所へやってきて、扉を開けた。
「そら、そこで何してるの」
「……あいの方こそ、何してるの?」
 事務所の入り口に立っているのは、高木あいだった。ふわふわの猫毛を後ろで一つ結びにして、普段より活動的な印象を受ける。
「私はお母さ……母の手伝い」
「あいのお母さんって」
「ドライバー。昔っからね」
 自警団に付き添われて、あいの母が事務所へ入ってきた。
「久しぶり、そらちゃん。みんな元気にしてる?」
「はい、みんな……元気です」
 自警団は、あいの母に書類を渡し、一度ちらりとそらを見た。
「そら、どうせ暇でしょ。一緒に来てよ」
 あいの誘いに、そらが事務所を出ても、自警団は何も言わなかった。
「どこ行くの?」
「展望台」
 ゆうに百台は車の停められそうな駐車場を縦断して、あいとそらは崖際の展望台へ歩みを進めていく。
「どうして、あんなところにいたの?」
「え?」
「だから、どうして、検問所で捕まってるのって話。私だって話したんだから、次はそらの番でしょ」
 そらの前方に、櫓のように組まれた展望台が見えてきた。ともすれば、アスレチックの遊具にも見えかねないそれは、月灯りの中、ひっそりとたたずんでいた。
 そらは、別荘にバイクを取りに行く予定だったことを、あいに話した。その途中で、自警団に捕まったのだ、と。
「バイクが欲しいの? 何で?」
「あすかちゃんの分が増えたから」
「ああ、そういうこと? 私、あの子からガソリンを譲ってほしいって頼まれてるの。仕事で使う分、優先的に配給されてるからさ」
 そらは、無言であいの話を聞いていた。あすかのあて、というのは、あいのことだったのか、と。
「太陽を見に行くって本気?」
「うん。あいも一緒に――」
 あいは、展望台の階段に足をかけた。
「それは無理。で、何で?」
「……ひなたとの約束だから」
「ひなた、ひなたってみんな言うけどさ、それ誰なの? 神様か何か?」
 階段を昇る途中、あいはそらの方へ振り返った。
「……本当に覚えてないんだね」
「何の話?」
「何でもないよ」
 そらは、あいを追い越して、展望台のてっぺんへ駆けあがった。
 そこからは山の峰々が一望できた。深い緑の山肌が、月灯りを浴びて、黒く照り映えている。のこぎり状の山の端がじぐざくに交差して、遠く続くと、地平線には橙色の太陽の残滓が顔を覗かせた。
「太陽なら、ここで充分」
 東から流れてきた雲に、太陽の光が当たり、薔薇色に染まっていた。形を変えつつ、西へ運ばれていく雲は、一人ぼっちの羊のようだった。
「そこら中に見える煙、分かる?」
 あいは、あちこちを指差した。
 深い暗緑の合間から、野火のような煙が幾筋も立ち上り、夜空に消えていく。風に吹き流され、煙は一様に、西を向いていた。
「こんな山の中でも、人が暮らしてるのよ」
「街には下りてこないの?」
「ここで暮らしてる人たちは、以前、街に受け入れを拒否された人たちなの。よその街から来た人や、住んでいた地区が閉鎖された人たち。だけど、どこに行くこともできず、ここにいる」
 風が、あいの髪をさらった。色素の薄い茶髪は、月の光を受けて、黄昏のような色で輝く。
「それでも、あなたは太陽を見に行くなんて言うの?」
 そらは、あいの横顔を見つめていた。豊かな髪に埋もれた身体は、一目では分からないけれど、細く痩せている。彼女自身も、彼女の家族も五年前に街の外からやってきたことを、そらは知っている。なぜ、彼女の一家が街に受け入れられたかというと、それはあいの母親がトラックを街に持ち込んだからにすぎない。役に立つものは受け入れる。そうでないものは拒絶する。限られた資源の中、生きるためには仕方のないことなのかもしれない。
「あいの言いたいことは分かるよ。でも、それが、私のしたいことを否定する理由にはならないと思う」
 あいが、ゆっくりと振り返る。
「それに、世界にかなしみがあるから、喜んではいけないんだとしたら、ひなたはこれからどう生きていったらいいの? 私たちを置いて、出て行ったひなたが、これから先、ずっと落ち込んでいなきゃいけないのなら、私はそんなの間違ってるって言うよ」
 あいは、そらの瞳をじっと覗き込んだ。何の感情もない、ふつうの顔をして、ただ目を見つめた。
「私は、私の近くにいる人にしか、やさしくできないよ」
 それを聞いて、あいは安心したように微笑んだ。
「そう。そらはそういう考えなんだ」
 あいは展望台の手すりに寄りかかって、空を見上げた。夜空には変わらず、鬱陶しいくらい大きな月が浮かび、夜の青を薄めて、照らす。あまりに近すぎる月に、うさぎが住んでいるとは、もはや誰も信じない。
「ごめん、そら。私、いじわるしちゃった」
「え?」
 そらの方へ向き直り、今度は不敵な笑みを浮かべるあい。
「今の言い方はずるかったと思う。他人のこと引き合いに出して、そらのこと、いじめるなんてさ。だから、ちゃんと言い直すね」
 太陽を見に行きたいなんて能天気なこと言う、そらのこと、私は大っ嫌い、とあいは言って、笑った。
「私は、あいのこと、好きだよ」
 あはははは、とあいは大きく口を開けて、笑い声を上げた。駐車場に、あいの声が響き、景色がくわんくわんと揺れるような気がした。
 ちょうど事務所から出てきたあいの母親が、展望台のあいとそらに向かって、手を振る。
 ひとしきり、笑い終わると、目尻を拭い、あいは口を開いた。
「そらは、私にやさしくしてくれるんだね」
 展望台の階段を下りる途中、あいは囁くように、
「バイクなら、家にあるけど」
 と言った。
「……もらってもいいの?」
「どうせ乗る人もいないし、それに鍵もなくなっちゃったから。ちあやなら、そういうの直すの得意でしょ?」
「ありがとう、あい」
 それに、彼女は応えなかった。
 事務所の辺りまで戻ると、あいは助手席の扉を開けて、そらに振り返った。
「乗らないの? どうせ、街に帰るんでしょ?」
「あすかちゃんとちあやさんを待ってないと」
「それなら、ちょうど来たみたいだけど?」
 あいの視線の先には、自警団に連れられた二人の姿があった。
「そのまま、バイクも持ってちゃってよ」
 そらは、あいのやさしい笑顔を、何とも言えない気持ちで見ていた。

3、あいの場合

 十二歳から今までの記憶が、上手く思い出せない時がある。まだ、この街に来て、間もない頃のことだ。二年か、三年ほどしか経っていないのに、何故だか、存在すらしてなかったと錯覚してしまうくらい、さっぱりと記憶がない。
 忙しかったのだろうか? 慣れない街で生活を始めたから。
 多分、それもあると思う。お母さんと弟と三人で、毎日、大変だったのは覚えている。だけど、割れた鏡の欠けたピースのように、やっぱり思い出せない記憶がある。
 ひなた。その名前を聞くと、無性に腹が立ち、平常心でいられなくなる。この街を捨てて、宇宙へ旅立った、新人類のアダムとイブ。
 ラジオやテレビの中継を見ていた人なら、誰もが知っているはずなのに、私は彼女のことを一切知らない。
 クラスメイトだった、と周りの人は言うのだけど。

 雨が降っていた。ただでさえ暗い夜の世界は、雲に覆われて、より冷たく、より暗くなった。
 山から帰ってきた次の日、そらたちはまたちあやのガレージに集まっていた。
 二人がガレージに入ると、ちあやはあいから譲り受けたバイクをいじっている所だった。
「ちあやさん、おはよう」
「おはよう、二人とも。いい所に来たね」
 油臭い軍手を外し、ちあやは寝不足の目を空に向ける。
「そら、鍵出して」
「え? ガソリンはこの間ので最後ですよ?」
「それじゃなくて、二番目のやつ」
 怪訝な顔をして、そらはキーホルダーを取り出した。ちあやはそらを手招きして、あいのバイクのスロットルを指差した。
「回してみて」
 そらが鍵を差し込むと、抵抗なく、根元まで入った。そして、回すと、セルが音を立て、エンジンが始動した。
「あれ!?」
「思った通り」
 困惑するそらを尻目に、ちあやはバイクの不調箇所を指折り、数える。
「ひなたがバッテリーの予備を残してくれてて、本当に助かったよ」
 エンジンがかかったことがうれしいのか、にこにこと機嫌のいい声を上げるちあや。
「待ってください、どうして、そらがあいのバイクの鍵を持っているんですか?」
 ちあやの肩をがしっと掴んで、あすかはちあやを揺すぶった。がくがくと頭を揺らして、ちあやがあははは、と笑う。
「どうしてだろうね? 私にも分からないや、あははは」
「その笑い方は、知ってますよね!」
 わざとらしい笑い声を上げるばかりで、ちっとも質問に答えようとしないちあやに、業を煮やしたあすかが、あーもう、と頭を抱える。
「そらも何か言ってよ!」
 あすかは、そらの顔を見て、固まった。
「……そら?」
「ごめん、私、行かないと」
「え、どこに?」
 ちょっと待ってよ、と叫ぶあすかを置いて、そらはガレージから飛び出していった。
「あの三人は、少し複雑なんだよ」
 と言って、ちあやはあすかを慰めた。
 そらが開け放しで出て行った扉から、冷たい雨と風が吹き込んでいた。

 公園の真ん中で、焚き火の燠が燃えていた。街にキャラバンがやってくると、住民は集まり、祭りを開く。肉や魚、各地で探窟家が掘り出してきた缶詰などを調理し、みんなで分け合うという程度の集会だが、それでも、鬱屈とした夜の世界の、数少ない娯楽だった。またその日は、ひなたの出発の前日ということもあり、前夜祭を兼ねた宴はいつもより盛大に催され、夜も更けた今は、その熱気の余波が穏やかに公園を包み込んでいた。
 そらは、焚き火の近くに座り、白く炭になった薪を枝で突き崩し、暇を潰していた。彼女の視線の先には、ひなたとあいの姿があり、何かを話している様子だが、その声はそらには聞こえない。
 火の粉越しに、二人をじっと見つめるそらの表情は複雑そのものだった。ひなたとあいの距離が近くなったのを、うれしく思いつつ、そこに自分がいないことを、悔しがった。
 歩けるようになった頃からの幼なじみ、と言っても過言ではない三人の付き合いの中で、秘密ができるのは、二度目だった。一度目は、ひなたとそらの間、あいの知らない場所でできた秘密だったが、あいとひなたの秘密は、そらの目の前で作り上げられている。
 ふいに、ひなたがあいに何かを渡す。あいは手を振り払い、それを拒絶した。だが、それでも構わず、あいの手の中にそれを押し込んで、ひなたは笑った。
 話を終えたひなたが、そらの方へ歩いてくる。
「話、終わった?」
「うん、待っててくれて、ありがとう」
「私には、話してくれないだよね?」
「ごめん。秘密の話」
 そらは立ち上がり、スカートに付いた土を払った。
「あいはいいの?」
「……一人にしてほしい、って」
 振り返ると、あいは手の中の光るものを見つめていた。
「ひなたの秘密はあといくつあるの?」
「これっきりだよ」
「私、ひなたが嘘をつく時の癖、知ってるよ」
「奇遇だね。私も知ってる」
 かまをかけるなら、もっと上手にやりなよ、とひなたは笑った。
「だけど、もし全部知りたくなったなら、ちあやに聞いてごらん。話せることは、全部話したから」
「……ひなたから聞きたい」
 ひなたは困ったように笑い、
「わがまま言わないで」
 と情けない声を出した。
「私は、ここで生きていくことはないからさ。いなくなっちゃうから、あまり変なことは言いたくないよ。ひなたも、あいも、ちあやも、きっと変わっていくのに、私だけ、そこにはいないんだ」
 ひなたはおかしなことを言う。この街を離れ、長く生きていくのは、ひなたのはずなのに。
「だから、私のこと、忘れちゃってもいいよ」
「忘れないよ! 私は絶対に」
「……泣くことないじゃん」
 でも、うれしいよ、と言って、ひなたはそらを抱きしめた。
「あいのこと、責めないであげて」
 唐突に引き合いに出されたあいの名前を、そらはひなたの腕の中で聞いた。耳を押し当てた彼女の胸に、あいが響いていた。

 冷たい雨の中を走りながら、そらは、あいの悪口を思いつくだけ、毒づいていた。十種類ほどしかない罵倒のレパートリーを、ぐるぐると繰り返し口にして、顔面にたたきつける雨粒を睨み付ける。
 ずっとずっと、そらは二人の背中を見てきた。誰よりも近く、誰よりも詳細に二人を見つめてきた彼女は、もしかすると二人よりも二人に詳しいかもしれない。アイデアマンのひなたと、批評家のあい。馬鹿げたこと、阿保らしいこと、楽しいことをひなたが口にすると、あいはそれをいつも口を酸っぱく、批判した。二人は同じくらい色々なことに詳しく、同じくらいの知識を持っていたから、お互い最高のコンビだった。口論が煮詰まってくると、ひなたはそらに向かって、手伝って、と叫んで、あいと喧嘩別れする。そらはそうやってひなたに話しかけてもらうまで、二人の会話に入ることができなかった。いつも一緒にいたけれど、隣には誰もいなかった。ひなたとあいは、そらの前を行き、決して振り返らない。二人と一人、そらはずっとそう感じてきた。ひなたの周りには、彼女の優秀さにつられて、すごい人たちが集まっていて、あいは不愛想ながらも、そつなく、その輪に入っていったが、そらは同じようにはできない。ひなたが振り返り、そら、と声をかけくれると、ようやく、その場に存在していいという許可を得た気分になった。
 そらにとって、三人でいるということは、そういうことの繰り返しだった。
 ある日、あいにそのことを相談したことがあった。二人の話についていけない、二人に置いていかれるような気がする、と。
「そんな訳ないじゃん。私もひなたも、そらを置いていったりしないよ」
 そう言って、あいは否定した。それでも、納得していない様子のそらに、
「私は、そらのしてくれる話も好きだけど」
 と照れたように、顔を背けて、言ったあいを、そらは信じることにした。
「側にいてもいいのかな?」
「別に、許可とる必要なんてないでしょ。そらが側にいたいなら、好きにすればいい」
 二人に追いつきたい、という思いを、そらが口にすることはなかった。与えられるばかりで、与えることのできない自分が、二人の近くにいるのは間違っているんじゃないか。その思いは、今もそらの胸の中で育ち続けている。本当は、こう言ってほしかった。側にいてほしい、と。
 けれど、あいも、ひなたも、そらに言ったのは、側にいるのはそらの自由だよ、というそれだけだった。
 だから、そらは二人の側にいる。ただ、一緒にいたい、という一心で。
 そして、それはまた、自分を傷付ける刃でもあった。自分自身のわがままを貫き通すことで、そらは二人に迷惑をかけているのではないか、という思いに苛まれた。自らの欲望を押し通すことが、概して、そういう性質を持つとも知らずに。
 そらがあいの家に辿り着くと、あいは顔をしかめて、そらを家に入れた。
「ちょっと、ずぶ濡れじゃない!」
「あいに、伝えたい、ことがあって」
 息切れの合間にも、もどかしそうに口を開いて、そらはあいを見つめる。
「な、何?」
「一緒に、太陽を見に……行こう」
 そらはもたれかかるようにして、あいの肩を掴んだ。
「一緒に行って、それで、ちゃんとひなたに、お別れしないと……!」
 あいは、そらの手を振り払い、しかめた顔をさらに険悪にする。
「勝手なこと言わないでよ。こっちの都合も知らないくせに」
「知らないよ。だから、誘えるんだよ」
 深く息を吸って、呼吸を整えたそらの瞳は、いっぱいの光を称えていた。
「あいにどんな事情があるのか、私は知らないけど、もし、知っていたら、あいに何か言うことなんてできなくなっちゃうと思う。きっと、あいはそう言いたかったんでしょう?」
「な、何の話?」
「私は、二人に追いつきたかったよ。でも、二人とも、そうした方がいいなんて、一度も言わなかった。私は弱い自分が嫌だったけど、あいとひなたが、そんな私を好きでいてくれるのは、分かってたんだ」
 そらの瞳から、光がこぼれ、頬を伝う。
「だから、私はひなたがいなくなっても、能天気に言うよ。あい、一緒に太陽を見に行こう」
 あいは何か言おうと口を開いて、躊躇い、つぐんだ。唇を固く結び、そっと目を伏せる。
「あい……」
「すぐには答えられない」
 上がって、とあいは言った。
「タオルと着替えを用意してくるから」
 そらは着替えると、あいの部屋に通された。あたたかいお茶を飲みつつ、ベッドに腰掛けたあいの様子を伺うと、彼女は頬杖を突いて、窓の外を見つめていた。
「知ってると思うけど、この家には父親がいないの。私とお母さんと弟の三人で、どうにか暮らしてる訳。そこから、私がいなくなったら、どうなると思う?」
 あいは、そらの方を見ずに、とつとつと話し始めた。
「弟はまだ小さいし、お母さんの負担だって軽いものじゃない。私のわがままで二人に迷惑をかけるわけにはいかないの」
 それに、とあいは続ける。
「それに、私は太陽なんて見たくない」
 言った後、あいは下唇を噛んだ。
「それは嘘だよ」
「……何が?」
「太陽なんて見たくないって話」
「分かるの? そらに?」
「嘘つく時の癖、私は知ってるから。それと、検問所でのこともそうだよ。あんなさびしそうな顔して、山の向こうを眺めてたのに、見たくないなんてさ」
 あいは嘘が下手だね、とそらは薄く笑った。それにつられて、あいも苦笑いをこぼす。
「でも、家族のことは何も言えないや。誘ってるのは、私のわがままだし……。一緒に来てほしいのは本当だけどね」
 両手で包むように持ったカップを覗き込み、そらは黙った。部屋には雨音が響き、どこからともなく、隙間風が吹き込んだ。
 あいは、俯いた姿勢のそらを見つめ、口を開く。
「そら、私に秘密にしてることがあるでしょ」
 びくっと身体を揺すり、そらはゆっくりと顔を上げた。
「どうして?」
「ひなたって誰なの? 彼女が私たちにどう関係してるの?」
 あいは全部わすれちゃったんだね、とそらは呟いた。
「教えてあげない。これが私のたった一つの交渉材料だもん」
「つまり、知りたければ、付いてきてってこと?」
 そらは頷いた。
「ずるくてごめん」
「私は嫌いじゃないよ、そのずるさ」
 出発はいつの予定、とあいは尋ねる。
「来てくれるの?」
「それはまだ。一応、聞いておこうと思って」
 そらはわずかに落胆しながら、
「ガソリンが手に入り次第ってことになってる」
 と言った。
「それでもタイムリミットはあって、どうしてもガソリンが手に入らない場合は、歩いてでも行こうとは思ってる」
 それを聞くと、あいはまた思案顔になって、窓の外を眺めた。ガラスを滑り落ちる水滴の軌跡がいくつも、稲妻のように視界を裂いた。
「私、今日はもう帰るよ。邪魔しちゃ悪いし……」
 そう言って、そらが立ち上がる。あいは視線を戻し、
「いいよ、泊っていきなよ」
 と言った。そして、
「それに貸す傘もないしさ」
 と微笑む。
 それを見て、そらは照れくさそうに頬を染め、ありがとう、と笑った。
 雨音が強く、あいの部屋の窓を叩く音が響いていた。

4、あすかの場合

 そらのことが好きだった。一目見た時から、ずっと。
 この街に来てすぐの頃、右も左も分からない私を助けてくれたそら。短く刈り揃えられた髪が揺れ、こどもみたいに大きな瞳に、私が写った。そらが、なにものでもない私を見つけてくれたのだ。
 きっと、厭われると思っていた。街の外から来た余所者を、誰も歓迎しないだろうと。現に、街への居住を許可された私は、旅立つとき、石を投げられた。醜聞という石。
 幸運に恵まれた自分が、この世に生きていてはいけないのではないか、という疑問が、頭をよぎった。めぐり合わせた運によって、天国と地獄が入れ替わる。それを、私はいけないことだと信じた。
 だけど、そらはそんな私とは無関係に、私にやさしくしてくれた。世界を遍く照らす光のように、やさしさは不意に曲がり角から現れて、私にぶつかったのだった。
 出会いは突然だったから、私は名前を聞きそびれてしまった。そらは、ひたすらに笑顔で、私の元から去っていった。
 学校が同じだと気付いたのは、そのすぐ後だった。でも、話しかけられなかった。その勇気がなかった。理由も、きっかけも。
 今も、どうすればよかったのだろう、と頭を抱え、眠れない時がある。私は運命に出会っていながら、差し伸べられた手を、掴めなかった。
 私は、どこにもいて、どこにもいない。人と人の間に、私の居場所はなく、一人ぼっちで、誰にも気付かれず、ただ待ちぼうけの夜に立っている。
 歩き出すきっかけを私にくれたのは、例にもれず、ひなただった。
 私は秘密の契約を持ち掛けられた。答えは、もちろんイエス。
 あいの記憶の受け皿に、私はなった。
 流れ込んできた、たくさんのそらの感情や表情。全て受け止めて、私はようやく、そらの隣へ立つ。
 偽物の幼なじみとして。

 いつものガレージに、あいを含めた四人が集まっていた。雨がやみ、少しばかり寒さの和らいだ日、そらが話したいことがある、とみんなを集合させた。
「あいも行くことに決めたの?」
 あすかが、不満げな表情で尋ねる。
「まあ、ね」
 と良いとも悪いとも言わない口振りに、あすかは腹を立てたが、あえて口をつぐんだ。そのすぐ後に、そらが話し始めたから、口を開くチャンスがなかったとも言えるが。
「今日、集まってもらったのは、太陽を見に行く目的を改めて、みんなに話そうと思ったからなんだ」
 ふわ、とあくびをするちあや。そらの真剣な表情に反して、雰囲気はあたたかな気温につられ、のんびりしていた。
「目的って、ただ太陽を見たいからじゃないの?」
 とあすか。それを横目に、あいが鼻で笑う。
「何?」
「別に」
「二人とも、ストップ」
 火花が飛び交い始めたところに、すかさず、そらが割って入る。
「二人には、本当の理由は秘密にしてたの」
「待って、それじゃあ、ちあやさんは?」
「あすか、騙してごめんね。本当の立案者は私なんだ」
 え、と声を上げ、驚くあすか。
「実は、そうなんだ。私もちあやさんから話を聞いて、太陽を見に行くことに決めたの」
 そらは、懐から鍵の束を取り出して、掲げてみせた。四本の鍵と、銀のイルカのキーホルダーが揺れる。
「これは、ひなたから預かった鍵とキーホルダー。鍵はバイクのキーが二つと、ガソリンを保管してた金庫の鍵が一つ。最後の一本はまだ、何の鍵なのかは分からないまま。ひなたは結局、秘密の鍵だって言って、教えてくれなかった」
 それで、とあいが先を急かす。
「大事なのは鍵じゃなくて、こっち」
 と鍵を手の内に握り込んで、そらはイルカのキーホルダーに注目を集める。
「この中にひなたの声が入ってるみたいなの」
 首をかしげるあすか。
「どういうこと?」
「ここからは私が説明する」
 とちあやが一歩前に出る。
「このキーホルダーの中にはマイクロチップが埋め込まれていて、そこにひなたの音声データが保管されているらしい。どうにかデータを抽出して、再生できないかと試したけど、強固なプロテクトがかかっていて、ダメだった。さらに、このキーホルダーは、太陽光で動く電池を搭載していて、その電源から受けた電気でなければ動かないらしい。もしかすると、それもひなたの仕込んだプロテクトなのかもしれないけど。とにかく、これは太陽光で動き、その中に、ひなたの何かしらのメッセージが隠されている、ということになる」
「何だ。それじゃあ、そらもちあやも、私と目的は同じだったわけだ」
 とあいが呟く。
「どういうこと?」
 あすかの質問に、薄笑いを浮かべながら、あいは続ける。
「私も、そこの二人も、ひなたの影を追いかけてるってこと」
 結局、ひなたがいなくなっても、あの子の言いなりになるしかない訳だ、とあいは自嘲した。
「それがひなたなんだと思うよ」
 あいにつられるように、ちあやも薄笑いを浮かべた。少し空気が重く、湿ったようになり、四人の口が閉ざされる。
「……とにかく、出発の日時を決めよう」
 そらの号令に、全員が気合を入れ直し、返事をした。

 出発の日、月の海には、ひなたたちの乗るロケットの青白い噴射光が重なって、見えていた。
 ちあやとそらは、ガレージからバイクを運び出し、エンジンをかける。軽妙なエンジン音の二重奏は、誰もが眠っている街に響いていく。
 エンジンが温まるのを待っていると、路地の向こうから、あいが来て、荷物をバイクに括り付けた。
「あすかは?」
 聞かれて、そらは首を振る。
「まだ」
「何やってるんだか」
 あいは手をかざして、月を見上げた。
「今日ははっきり見えるね」
「ひなた、元気にしてるかな?」
「コールドスリープに入ってるんじゃないの?」
「月の重力圏を抜けるまで、手動操作って聞いた気がするよ?」
「じゃ、起きて、仕事してるんだ」
「無重力って、どんな感じだろうね」
 と雑談していると、人影が見えた。
「あ、来たみたい」
 おはよう、と声をかけたそらを無視して、あすかはバイクに取り付けられたあいの荷物を解きだした。
「ちょ、ちょっと!」
「あいは、ちあやさんの方に乗って」
「はあ?」
 険悪な応酬の間に入り、そらが二人をなだめる。
「あすかちゃん、何かあった?」
「……」
 うつむいたあすかの顔を覗き込むように、そらは腰をかがめた。あすかは顔を背け、
「二人だけで話したいことがある」
 と言った。
「あい、悪いけど、ひとまず、ちあやさんの方に乗って」
 荷物を載せかえると、ちあやが怒ったように声を上げた。
「予定より、五分オーバーだよ」
 甲高い音を響かせ、バイクは走り出した。
 住宅街の路地を抜け、四人は大通りへ出た。早い時間帯だからか、車も人もなかった。ひび割れ、落ちくぼみ、盛り上がったアスファルトの道は荒れながらも、真っ直ぐに街の外へ続く。道端に打ち捨てられた廃車で眠る猫が、バイクのエンジンに驚いて、悲鳴を上げた。
 そらの右後ろを走っていたちあやが、速度を上げ、バイクを隣に付ける。
「そら、ルートは頭に入ってる?」
 四人の計画では、街の大通りを突っ切り、峠を越える。検問所の自警団には、あいが話を通してある。隣町に出たら、次は、山中を通る高速道路に乗り、一路、東へ。シンプルなルートだった。
「ちあやさんが先行してください」
 ぶい、とピースサインを出して、そらはゆっくりと減速した。そして、ぴったりとちあやの後ろに入ると
「それで、あすかちゃん。話って?」
 あすかは、そらに隙間なく寄せた身体を、わずかに固くした。お腹に回した手が、緊張したように白くなっている。
「あいのことなの」
「やっぱり不満?」
「私が、あいのこと嫌いだと思ってる?」
「……違った?」
 ヘルメットの中に吹き込んだ風が、耳元で渦を巻き、がやがやと騒ぎ立てる。あすかの沈黙は、風にかき消された。
「ねえ、本当のことを教えて。そらは、私のこと、どれくらい知ってるの?」
 先行くちあやのバイクが、アスファルトのギャップを乗り越える。わずかに遅れて、そらたちもがくんと揺られた。
「記憶のこと?」
 そらのお腹に巻かれた、あすかの手がきつく、彼女を締め上げた。
「知ってたの? いつから?」
「初めて、会った時」
 初めてじゃない、とあすかは叫びそうになった。
「あすかちゃん、お腹くるしいよ」
 ごめん、と呟いて、あすかはそらの背中から身体を離した。
「あいが失くした記憶を、あすかちゃんが預かってくれてるんだって、思った。ひなたが秘密にしたがるわけだって。でも、私も二人のこと、悪く言えないかな」
 あはは、とわざとらしく声を上げて、そらは笑った。これ言うの、勇気いるなあ、と。
「私、急に二人がいなくなって、さびしかったんだ。だから。偽物でもいいやって、心の中で思った。全然、知らない子が、幼なじみの記憶を持って、目の前に現れて、気持ち悪いって感じもしたけど、それ以上に、一人でいるのが怖かったからさ、本当はあすかに助けられてたんだ」
 あすかがいてくれて、よかった、とそらは言った。
「……」
 あすかは頭を下げて、そらのヘルメットにこつんと当てた。
「うそつき」
「私は、記憶はもうあすかちゃんのものだと思ってる。だから、あいに返すかどうかは、あすかちゃんが決めて」
 それから二人は、峠の検問所まで無言だった。つづら折りの山道を上っていき、自警団の事務所が見えた頃、ぽつりと、あすかが口を開いた。
「ごめん、そら」
「え?」
 そらが真意を問いただそうとした時、前を走っていたちあやのバイクが完全に停車した。事務所の方から、一人の人影が歩いてくる。
「大崎先生?」
 ずかずかと早足で、そらたちに近付いてくるのは、そらの担任の大崎だった。肩をいからせ、短い髪を揺らしながら、ずんずんと進んでくる。
「どうして、ここにいるの?」
 とあいが困惑した声で言う。
 そらは、後ろのあすかに振り返って、
「あすかちゃんが話したの?」
 あすかはヘルメットを脱ぎ、頷いた。そして、バイクから飛び降りると、一目散に、大崎の元へ駆け寄った。
「ああ、そういうことだったんだ」
 あいの声が、冷たく渇いたものに変わる。
 大崎は、駆け寄ったあすかを脇に追い払い、
「そこの三人! エンジンを止めなさい!」
 と叫ぶ。
「そら、行ける?」
 ちあやが、アクセルを捻り、エンジンをふかした。
「検問を突破するってこと?」
「それ以外に何が?」
「あすかちゃんはどうするの?」
 置いていくしかないでしょ、とあいは冷たく言い放った。
 自警団はまだ動き始めておらず、そらたちを遠巻きに眺めているだけだった。仕掛けるのなら、今しかない。
「いい? そら、行くよ」
 一息にアクセルが回された。後輪が空転し、砂利を弾き飛ばして、バイクは一気に加速する。
 突然のことに固まる大崎。だが、すぐに気を取り直して、そらたちの進行方向へ駆け出した。
 が、すぐにその表情が驚愕に染まる。
「そら!?」
 ちあやのバイクの進行方向から、直角にそらは走り出した。
 大崎は自分めがけて突っ込んでくるバイクに、あたふたと困惑する。
「あすかぁ!」
 そらが叫ぶと、大崎は横っ飛びに飛んで、バイクを避けた。タイヤが高く鳴り、ゴムの焼ける臭いが煙と共に立った。
 そらは、ぽかんと呆けた顔のあすかの隣にバイクを付け、腕を掴む。
「行こう!」
「でも……」
 そらは、ヘルメットのサンバイザーをはね上げて、あすかの目を覗き込んだ。
「行かないの? ここで立ち止まるの?」
 その時、バイクのミラーがちかりと光った。そらたちの後ろから、自警団の電動自転車が迫っていた。
「……」
 無言のあすかを見て、そらはバイザーを再び下ろす。
「さよなら、あすか」
 そらは掴んでいたあすかの手を離した。
「あっ……」
 間の抜けた声がして、あすかがそらから引き剥がされる。大崎が、彼女の腕を掴み、自らに引き寄せたのだ。
「二宮さん、あなたもバイクから下りなさい」
「嫌です、先生」
「あなたたち、街の外がどれだけ危険か分かっているの。見過ごせる訳ないでしょう。下りなさい」
「それでも、行かなきゃいけないんです。行きたいんです」
 そらはギアをファーストに入れる。
「待ちなさい!」
「待って!」
 大崎とあすかの声が重なる。
「そら、私はいらないの? 私は友達じゃなかった? あいの記憶、必要でしょう? 一緒に行こうって、私には言ってくれないの?」
 あすかは大崎の腕を振り払う。駐車場を周回する、ちあやのバイクのエンジン音が、やたら呑気に響く。
「あすかが選んで」
 そらは言った。
「あすかが選ぶしかないよ。私がどんなにおねがいしても、ひなたは宇宙へ行っちゃったよ。あすかはどうするの?」
 あすかはヘルメットを被り直した。
「私も連れてって!」
 そらの口元がにやりと笑った。あすかが、そらの後ろに飛び移る。月灯りは一層、強くなって、遮るもののない検問所を黄色く照らした。
「後悔するわよ」
 大崎のしわがれた声が、二人の背中に降りかかる。
「先生、ありがとうございます」
 今、私たちは後悔しない道を一生懸命、選んでいるんです、と言って、そらは笑った。
「それが青春、でしょ?」
 大崎を置き去りにして、バイクは走り出す。
「ちあやさん!」
 そらが手を振り、自警団を引き付けていたちあやたちに合図を送る。
 駐車場を突っ切って、四人を乗せたバイクは、峠に向かって、最高速で下りていく。
 月を背後に、そらたちはくねくねとヘアピンカーブの続く峠を滑るようにして、下る。やがて、傾き出した月は山の影に隠れ、暗い夜の山道を、二つのヘッドライトが駆け抜けた。

5、ひなたの場合

 自警団を振り切ったそらたちは、隣町で一度、休憩を挟み、高速道路の高架へ上った。休憩の時、ちあやがバイクのメンテナンスも行ったため、運転手を交替し、今はあいと、あすかがそれぞれのバイクを運転している。
 山と山を結ぶように、谷間に架けられた高架橋の道路は、ゆるいカーブを描きながら、谷あいの街の上を、東に伸びていく。
 道路上には、打ち捨てられた車があり、ちらほらと中で生活している人の姿も見えた。彼らは、聞き慣れないバイクのエンジン音に身体を起こし、そらたちを無感情な目で見つめた。
「ちょっと不気味」
 ドラム缶に焚かれた火に集まって談笑していた、幾人かの住人が、会話をやめて、そらたちにじっと注目する。
「なるべく、止まらないようにしよう」
 四人を乗せたバイクは、ひび割れたアスファルトの道を走っていく。
 短いトンネルを三つほど抜けると、道路の左わきに看板が見えた。
「サービスエリアまで、あと七キロだって」
「寄らないからね」
 というそらと、あすかの問答に笑みをこぼし、ちあやが空を見上げる。
「空が明るくなってきたね」
 月が西へ後退し、開けた空の色が、深い青から白っぽいオレンジ色に変わっていた。
 だが、光の形はまだ表れていない。ただ、明るさが光の先触れのように空に浮かんでいる。
 サービスエリアが近付いてくると、道端の車が増えてきた。人の顔色も、心持ち、先ほどより明るい。
「人が集まってるみたいだね」
 辺りを見回し、そらが言う。
「サービスエリアに何かあるのかもしれないね」
 とちあや。
「人が多い分、トラブルも多いってことでしょう」
「あいは、またそういうことを言う」
 と否定的なあいの言葉を、あすかがたしなめた。
 少し進むと、四人は、目の前に飛び出してきた二人の男に、止められた。
 彼らは四人をじろじろと眺め、
「ガソリンエンジンなんて珍しい」
「まだ走るんだな」
 と聞こえるか、聞こえないか、という声で呟いた。
「あなたたち、誰?」
 冷たい目で男を見据え、あいが挑発的な声を出す。
 あいの冷淡な態度に、男たちも態度を硬化させ、睨み付けるようにあいを見る。
「お前たちこそ、誰だよ。どこから来た」
「そんなこと、どうしてあなたたちに教えなきゃいけない訳?」
 わー、わー、と慌てふためいたあすかが、あいを止めに入る。
「は? 何?」
 あいは、ついにあすかにまで喧嘩腰で向かい合う。
「お前ら、仲間割れするのも勝手だが、とにかく、どこから来たのか、言え。何が目的だ」
 と、あいと男たちが口論していると、男たちの背後で、一台の自転車がブレーキを鳴らして、停まった。
「何かトラブル?」
 揺れたポニーテールが、男の背中を叩いた。気付いた彼は、はっとして、佇まいを直した。
「おー、動くんだ、これ。誰が直したの?」
「次から次に……誰?」
 あい、とそらが静かに注意すると、彼女は眉を下げ、口をつぐんだ。
「私は如月。この先の集まりで、一応リーダーみたいなことしてる。で、君たち、名前を聞いてもいいかな?」
 四人は顔を見合わせる。
「言わないのも自由だけど、君たち、ここを通って、どこかに行く途中でしょう。通さないってこともできるけど?」
 仕方なく、彼女たちは名前を名乗った。そして、少し逡巡したのちに、太陽を見に行くという話を告げた。
「ふーん、そう。面白そうな旅をしてるね。で、これは少し話しにくいことなんだけど、これから先の道は、ちょっと通れないかな」
「……どういうこと?」
「そんな怒らなくたって……。べつに、通さないって話じゃなくてさ、サービスエリアの向こうにつり橋があるんだけど、それが二十五年前の砲撃戦で落っこちてね。道が途切れてるんだよ」
 立ち話もあれだから、ちょっと付いてきてよ、と言い、如月は自転車の向きを変えた。
 空は、淡いオレンジに染まっている。

「サービスエリアは、旧軍の中継地でね、この辺りの配給を担当してたんだ。私の父は脱走兵で、旧軍が逃げ出した後、まともな退却もできず、置いていかれた物資の管理を始めたの。その縁で、私も一応リーダーってことになってる。SAに併設されたガソリンスタンドの貯蔵タンクが、いっぱいだったのも運が良かったね。食べるものには苦労せずに済んでる」
 道中、如月は身の上話をとめどなく、話した。
 北東の山を指差して、
「あれが戦争の名残。地形が、丸く抉れてるでしょ」
 弾着の跡なのか、山の頂点が三日月形に削られ、周りと比べても、ひときわ高かったであろう峰は、抉られた部分だけ、空が広かった。
 如月の指は、中空を経由して、西の尾根に立つ電波塔をなぞった。
「あの穴から、電波塔に光が差すんだ。朝の十五分くらいかな」
 ここからだとひと山、ふた山、越える必要があるけど、と説明して、彼女は四人を見た。
「案内してあげようか?」
 飛びつきかけたそらを制止して、ちあやが尋ねる。
「条件は?」
「君が、バイクを直した子?」
 いや、誰だっていいんだけど、と呟いて、如月は続ける。
「直してほしいものがあるんだよね。ちなみに、電波塔までは農道や私道を通るから、私みたいに顔が利く人がいると、助かると思うんだ」
「それだけですか?」
「……疑ってるね。いいと思うよ、その警戒心。じゃあ、これは約束しよう。確約だ。君たちの荷物、バイクには手を出さない。結局、電波塔に行くには、置いていってもらうことになるし」
 にっこりと笑った如月に、あいが口をはさむ。
「めちゃくちゃ優しいですね」
「あはは、この子、毒が強くない? 嫌いじゃないけど。で、どうする? 行くの?」
 黙る四人。その中で、そらが一番に口を開いた。
「理由を聞いてもいいですか?」
「あー、理由? そうだなあ、君たちの旅はここで終わりじゃない気がするんだ。まだまだ続いていく予感っていうのかな、私の中の言葉でいうと、君たちに期待してるの。分かるかな、このワクワク感」
 結局、そらたちは如月に案内人を依頼することにした。つり橋云々を嘘とすることもできたが、行って戻って、再び旅立つガソリンの余裕はなかった。
 だが、そうと決まれば、出発は早かった。サービスエリアに着き、食事を済ませると、そらたちはすぐに建物を出た。
 小暗い農道を通り、倒木を迂回した。一気に山の斜面を駆け上がる坂道を越えて、同じ山の影の、同様に急な下り坂を下りていく。かつては畑だったであろう、叢の獣道を掻き分け、道なき杉林を昇る。電波塔の管理道のアスファルトを踏んだ時、四人は、地面に身体を投げ出して、倒れ込んだ。
「いいね、ここで休憩にしよう」
 と言う如月も、息が切れていた。
「どうせ、今、電波塔に昇っても、朝まで待たないといけないし」
 あいがバックパックから水筒を取り出し、回し飲みをする。一巡すると、あいは水筒の口を固く締めた。そらが、不満を言うのを、帰りもあるから、とたしなめるのは、あすかだった。
「で、君たちさ、どうして太陽なんて見たいの? あんなの見たって楽しくないよ。街からも見えなかった?」
「実は……」
 そらは口にしかけて、一度、止まった。三人の顔を見て、それから、再び話し始める。
「友だちとの約束なんです」
 そらは、ひなたとの話を含めて、全てを如月に話した。
「そっか、友だちのメッセージがね」
 銀のイルカを掲げて、如月は感慨深げに呟いた。ひとしきりキーホルダーを眺めると、彼女は、ありがとう、と言って、イルカをそらに返す。
「でも、そのひなたって子、とんでもないクズだね」
 あははは、と如月は大口を開けて、笑った。あすかが、ちょっと、と顔をしかめる。
「すごい気遣い屋なんだろうけどさ、そんなの直接、言えって感じじゃない?」
 あすかは、他の三人の顔を見て、口をつぐむ。そらも、あいも、ちあやも呆れた笑い顔で、如月の話に頷いていた。
「こんな苦労をかけてさせてさ、しょうもない話だったら、絶対ゆるさないね」
 月の海に浮かんだ、青白い噴射光に手を振って、おーい、見えてるかー、と如月は叫んだ。
「で、そんな頑張ってる君たちに、ごほうびがあるんだが……」
 彼女が、自分の荷物から取り出したのは、桃の缶詰だった。
「一緒にどう?」
 一番に反応したのは、ちあやだった。
「そ、それ見せて」
 身を乗り出して、如月の手から、缶詰を奪うと、抱えるようにそれを両手で包み込み、缶詰の表記をじっと見つめた。
「わ、私にも見せてください」
 とあすかが続き、匂いがするはずもないのに、受け取った缶詰を鼻に寄せた。
「何、バカなことやってるの」
 と注意するあいも、どこかそわそわしているように見えた。
「これ……こんな、いいんですか?」
「私も、いつ食べようか、悩んでたんだ。あそこじゃ全員に行き渡らないし」
「早く開けましょう」
 あすかから缶詰を受け取ると、如月は器用に缶切りを使い、ふたを開けた。中のシロップが揺れて、こぼれ、甘ったるい香りを辺りに振りまく。
「うわ……」
 手に付いたシロップを舐め、如月が声を漏らす。
「すごいよ、これ」
「誰からにする?」
 じゃんけんしよう、とそらが言い、全員が即座に頷いた。
 結局、あい、ちあや、あすか、そら、の順になり、その前に、持ち主である如月が、桃を一切れかじった。
 じゅるり、と音を立て、如月はかぶりついた桃の汁を吸った。
「あ、甘ー!」
 はぐ、と二口目に続き、缶詰を傾け、シロップを口に含む。
「……ん、くぅー」
 食べきると、最後に特大の溜め息を吐いて、如月は宙を眺めた。
「も、もらってもいい、ですか?」
 と思わず、あいまでが敬語になった。
「待って。もう少し余韻に浸っていたい」
 その言葉に、全員が、ごくりとつばを飲み込んだ。
「そ、それじゃあ、いただきます」
 ぱくり、とひかえめに一口食べたあいの顔がとろけ、子どもみたいな笑顔が浮かんだ。彼女は、無言のまま、二口、三口、と食べ進め、ついに一言も発さないまま、桃を食べきった。
「おいしい……」
 ほら、シロップも、と如月に促されて、あいは缶詰に口を付ける。
「ん、少し鉄っぽいかな」
「次、私」
 ちあやは缶詰を奪い取るようにして、あいから缶詰を受け取った。中から取り出した桃の半切れを、大口を開けて、ぐわぁっつ、と一口で食べた。
「んーーーーーー!!!!!!」
 両手で口を抑えて、悲鳴をあげるちあや。ばたばたと足を動かし、騒々しいことこの上ない。
 そんなちあやの影で、あすかが小さく、桃をかじる。すぐに二口目に移り、はぐ、はぐ、と休みなく、食べきってしまった。
 そこに獣のように目を光らせたちあやが飛びついて、缶詰のシロップを喉を鳴らして、飲み下す。
「ちょっと、ちあやさん!」
 三人がかりで、ちあやを引き剥がすと、底には桃が一切れと、わずかなシロップしか残っていなかった。
「じゃあ、そら」
 恭しく渡される、桃の缶詰。それをそっと受け取って、
「これ、食べなきゃダメかな?」
 とそらは言った。
 いらないなら私が、と暴走するちあやをあすかが引き留める。
「どういうこと?」
「……何だか、もったいないね」
「そら、食べちゃいなさいよ。どうせ、今しか食べられないだし。それに、食べさせたい相手は、今いないんだから」
 そらは、うん、と小さく頷いた。
 桃をそっと噛みしめると、そらの瞳から涙がこぼれた。風のない山の中で、音にならない喧騒が、遠い耳鳴りのように鳴っていた。
「朝まで、一眠りしようか」
 如月が告げると、四人は肩を寄せ合って、横になった。空になった缶詰が、からからと音を立てて、斜面を下っていく。
「ああ、言い忘れたけど、電波塔に昇れるのは、二人までなんだ。誰が昇るのか、決めておいてね」
 そう言って、如月はそらたちに背を向けるように、横になった。
「そら、は決まりね」
 あすかがまず口火を切った。
「え、でも」
「でも、じゃないでしょ。それは決まり。決定事項」
「あと一人は誰にする?」
 とあいが尋ねると、ちあやが、私は辞退する、と手を上げた。
「元々、そらの付き合いだし、これ以上、ひなたに振り回されるのは、ね?」
「なら、私もやめとく。そらとあいが、昇ればいいよ」
 そらは無言だった。あいが、
「本当にいいの?」
 とだけ言い、ちあやとあすかは、黙って頷いた。

「起きてー! 朝だよー!」
 如月の号令に、四人は飛び起きた。如月が指差す方を見ると、朝日を受けた電波塔が、その錆びた鉄身を橙色に染めていた。
「さあ、誰が昇るの?」
 電波塔の根元に立つと、その高さが、より実感されるようだった。上を見上げたそらとあいが、不安そうな顔を突き合わせる。
「老朽化してるから、足元には注意してね」
 如月がフックを使い、電波塔のはしごを下ろす。
「そら、私が先に行くから」
「待って」
そらは、あいを止めた。
「大丈夫だから」
 あいは頷いて、先を譲る。そらは、はしごに足をかけ、上を見上げた。電波塔のパラボラに紅の曙光が当たり、輝く鉄骨に、目が痛んだ。
 はしごには錆が浮き、触れた先から、ぽろぽろとこぼれる。
「あい、気を付けてね」
 電波塔は、三階層に分かれ、それぞれがはしごで結ばれている。足場は老朽化が進み、崩れている箇所もある。そらとあいは、足運びを慎重に、しかし、なめらかに電波塔を上っていく。
 最後のはしごを上っている途中、伸ばしたそらの手が、日差しに触れた。じんわりと熱が乗り移り、冷えきった鉄棒を掴み続け、冷たくなった指が、あたたかくほぐれる。
 一段、一段、上る毎に、そらの身体は陽光に包まれる。周りの鉄骨は、光の差し込む水面のように、無数の手裏剣状の反射に溢れ、そらの目を刺す。
「そら、もうすぐだよ」
「うん!」
 そらは、最後の勇気を振り絞り、手を伸ばした。
「直接、光を見ないように」
 そらとあいは太陽に背を向け、最高層の足場に座り込んだ。足を空に投げ出すと、宙ぶらりんの爪先に、ちあやたちの姿が見えた。
 そらは、ポケットから銀のイルカを取り出し、光の中に掲げる。塗装の剥げたプラスティックのキーホルダーは、その身体に鈍く、光の滴をたくわえた。
「……」
「……」
「これ、スピーカーとか必要なんじゃ……」
 とあいが言いかけた時、ザザ……、とノイズが走った。
「……える?聞こえる?」
 あー、よし。大丈夫、とひなたの声がした。
「これを聞いているってことは、私はもうこの世にいないってことになるのかな。みんな、元気にしてる?ところで、誰が聞いてるの?そらとちあやと……まあ、二人だけ?」
 私は無視か、とあいが毒づくと、
「そら、あいには聞かせちゃダメだよ」
 と狙いすましたように、ひなたは言った。バカ、とあいは囁く。
「そらは、ちあやに全部、聞いたあとかな。一応、私はこれを聞くタイミングを二つ、想定しているんだけど……まあ、どっちにしても、そらたちは、私が何をしたのか、しようとしてるのか、気になってるんじゃないかな。特に、こんなメッセージまで残した理由を」
 そこで、ひなたの声が一旦、途切れる。彼女がマイクから離れ、呼吸を整える気配が、わずかに記録されていた。
 そらは、声が途切れたタイミングで、目尻に浮かんだ涙を拭う。
「やっと、ここまで来れた。追い付いたよ、ひなた」
 だが、そらのそんな感傷は、ひなたの次の言葉でかき消された。
「私たち、宇宙船のクルーは、月表面の割れ目から、内部に侵入し、量子エンジンのオーバードライブを利用し、月を破砕することに決めました」
 銀のイルカを掲げたそらの手に、あいの手が重なり、支える。
「結局、神様気取りか……」
「計算上では、私たちが太陽系外の居住可能な惑星を発見し、入植に成功する可能性よりは、ずっと確かな方法です。砕けた月が、地上に無数の流れ星となって、落ちるけれど、それでも何もしないよりは被害が抑えられます。これはクルー全員で何度も議論し、最終的には、満場一致で決めたことです。月のない空を、私も一度、見てみたかった」
 後悔はない、言葉にしなくとも、雄弁な沈黙がそう物語っていた。
「そら、私がいない世界の歩き方、少しは上手くなった?」

 規定時間の船外活動を終えて、ようやく眠りに就けると自室に戻りかけた時、同室のリリが私の名前を呼んだ。
「地上で、何か光ってるんだ」
 リリが指差すモニターには、私の故郷が写っており、確かにそこでは、一定の周期で、街が明滅を繰り返していた。
「これ、何だろう」
 ズームインすると、そこは果たして、私の住んでいた街の、すぐ近くだった。隣街を走る高速道路が画面上を蛇行し、動脈瘤のように、こぶになった場所が、光源であった。
「これだけの光量、どれだけ無茶してるんだか」
 呆れたように言うリリを、尻目に、私にはこれが誰の仕業なのか、うっすらと分かり始めていた。
「リリ、これ、モールスだよ」
 しかも、大激怒の叱責。言葉だけでも、殺されかねない。それくらいの巨大感情が、光に乗って、一天文単位に収まった私たちの距離を埋める。
 言われなくたって、分かっていた。これは自己犠牲ではなく、自己憐憫なのだ。何十億、何百億という同胞を置き去りにして、私たちは生き長らえることを否定した。それはやさしさからの行動などではなく、臆病ゆえの逃避だった。
「うるさいなあ」
 なんて嘯いて、私はモニターの前に座り、時間の許す限り、光の明滅を眺めていた。出来ることなら、その光がずっと絶えることのないように、と祈りながら。

 ひなたのメッセージが途絶えてからも、そらはしばらく、座り込んでいた。銀のイルカは、あいが預かり、そっとそらの肩を抱いた。そうでもしないと、そらが飛び降りるのではないか、と気が気ではなかった。
「ひなたの嘘つき」
 ひなたのうそつきー! とそらは立ち上がり、叫んだ。
「バカヤロー!」
 くるり、と身をひるがえし、太陽を真正面に睨んで、手にした鍵を投げようと、振りかぶった所で、そらはバランスを崩した。
 慌てたあいが、そらを抱き、電波塔の足場に押し倒す。
 頬に流れる涙が、陽の光を受けて、きらきらと光る。二人は、固くまぶたを瞑り、疲れ切ったように、重なり、横になる。
「そらの、ばか」
 息を切らし、あいは、そらの胸に顔を埋める。
「死んだら、どうするのよ」
「わ、私だって、誰かの代わりに死ねるなら、死んじゃいたいよ……! 死んじゃいたいんだよー!」
 そらは逆ギレして、手足をばたばたさせ、暴れる。
「そ、そら。危ない!」
 あいから軽い頭突きをくらって、そらは暴れるのをやめた。
 鼻血が、たらりと垂れる。そらは、涙もろとも、鼻を啜り、手の甲で血を拭う。
「あいは、悔しくないの?」
「悔しいに決まってるでしょ。あのバカ!」
 殺してやりたいくらい、と呟いて、あいは顔を背けた。
「あ……」
 あいの囁きにつられ、そらも同じ方向へ顔を向ける。
 そこには、真っ白な花弁を花開かせて、光の差し込む日向に、花の道ができていた。それは、日差しの限り、どこまでも続いていき、白花の道であるだけでなく、太陽の道でもあった。白い帯が、山頂に垂れかかる。
 ふと目を移すと、電波塔に絡み付いた蔓も、錆をふくボルトの合間から、小ぶりな花を覗かせていた。
「ひなたにも見せてあげたい」
 そらの口から、思わず、あふれた。
「……そんな思いが、これからは増えてく一方なのかも」
 どちらともなく、二人は、帰ろっか、と囁き合った。
 地上に降りると、ハイテンションの如月が二人を出迎えた。
「おかえりー!」
 ぎゅっとハグされて、二人は目を白黒させる。
「早く帰ろう。この辺り、クマが出るんだって」
 血の気の引いたあすかが、そそくさと荷物をまとめる。
「私は、戻ったら、すぐに一仕事だって」
 とちあや。
「そういえば、修理してほしいものって?」
 ハグから抜け出したあいが、首をさすりながら、如月に質問する。
「サービスエリアの発電機を、直してもらうつもり」
 私、発電機が直ったら、やりたいことがある! とそらが手を上げる。
「ひなたに文句を言ってやるんだ」
 いいね、それ、と全員が頷いた。
 太陽は時の流れと共に翳り、次第に光は弱く、淡くなっていく。薄暗い林道に入った少女たちの足元には、ほのかな、けれど、しっかりとした影が落ちる。彼女たちの前に、道は真っ直ぐに続いていた。

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