将棋SFに向けて
大滝瓶太さんが将棋SFを書くつもり、というツイートを見てから、自分も将棋SFが書きたくなって、ちまちまと準備している。というよりも、前々から将棋小説は書きたかったところを、今回がいい機会かなと思っている。
とりあえず図書館で「サラの柔らかな香車」「泣き虫しょったんの奇跡」「神の悪手」「駒音高く」「盤上に君はもういない」を借りてきた。宮内悠介さんの「盤上の夜」は図書館にはなかったので、アマゾンでぽちった。
「サラ」と「泣き虫しょったん」をとりあえず読み終わって、いまは「盤上の夜」「盤上に君はもういない」を読み始めたところ。「サラ」は刊行が2012年なので情報に古いところがあるけれど、かなり素晴らしい将棋SFだと思った。特に主人公であるサラの設定が、当時プロとの直接対決を果たしていたコンピュータ将棋ソフトに寄せてあって、人間とは何か、というあたりまで問いが到達している。機械学習によって将棋を覚えたサラの天才性を共感覚で説明されていて、それは「盤上の夜」の由宇にも通じていて、さらに言えば、共感覚へのSFの感じ方というのもかなり興味深いなあ、と思っている。思っているだけで、とくに深い考えがあるわけではない。
ただ一方で、SF的な文法で言えば、それは定跡と言えるのかもしれないけれど、それに不満を持っている自分もいて(将棋でも定跡の勉強をおろそかにしている)あるいは「盤上に君はもういない」で取り扱われている女性棋士誕生をモチーフにするのも、何だか釈然とはしない。
というのも、将棋の面白さと言うのは、昭和棋士列伝的な奇人変人の集まりとしてのプロ棋士であったり、奨励会にまつわる悲喜こもごもとか、タイトル戦を戦う人間のひりひりとした気迫みたいな、そういった人間的な面白さとは、まったく別のところにあるはずで、語弊を恐れずに言うのなら、将棋は現代将棋の時代に入ったのに、それを扱う小説が、近代小説やってるんじゃねえよ、ということになるのだと思う。
で、そういう思いというのが自分の中でどう生まれたのかというと、やっぱりきっかけは「盤上のシンデレラ」を見たからで、それまで言語化されてこなかった将棋の「読み」の面白さがこの作品にはあって、それは映像という媒体だからできたことでもあると思うのだけれど、それを言語でもできないのか。あるいは、この作品で垣間見ることのできる将棋のゲームそのものの面白さを「読み」とは別の魅力から、小説にできないかな、と思っている。同時期に「ぷよマス」を見たことも実は無関係とは言えなくて、どちらもゲームの競技性にスポットが向けられていて、その奥深さ、着眼点の新しさは格別のもので、過言だけれども、盤デレラとぷよマスを参照していないのは時代に追いつけていないと思っている。。
改めて言うと、将棋というものにはその周りに付随している人間や、人間関係の面白さというのは当然あるけれど、将棋それ自体の面白さも同時に存在していて、そちらの鉱脈が実はまだ検討されていないのではないか、ということを考えている。
個人的に掘り下げてみたいのは将棋の中盤戦、特に「大局観」と言われているもの。羽生さんのそのものずばり「大局観」という著書があったと思うので、それも参考資料に読みたいところ。将棋ソフトの評価関数が、その大局観を具体化するかなという期待があったのだけれど(三駒関係など)結局、ニューラルネットに取って代わられて、人間の直感や経験則というものがブラックボックスのまま、将棋AIは別のフェイズに移ってしまった(「盤上の夜」に収録されている「人間の王」はその辺りの話をしてくれていて、すごくうれしかった)。まあ、将棋ソフトに対する理解が浅いので間違っているかもしれない。次のお給料日には、その辺りの参考資料も買う予定。
という辺りが将棋SFに対するテーマ的な関心事。
一方で気になったのは「盤上の夜」「サラの柔らかな香車」の文体について。モノローグ調で、どうやら語り手はジャーナリストとして設定されているようなのだけれど、それが「聖の青春」の大崎善生さんの文章に繋がっているのではないかということ。ここはちょっと調べると面白いかもしれない。
個人的に、モノローグ調の小説を書くのが苦手なので、その辺りの克服につながればいいなと思っている。また、異常論文と呼ばれる小説群がモノローグを多用しているイメージなので、将棋SFへの糸口の一つと思っている。
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