掌編 「橘 甘夏」
甘夏は偽名である。彼女は何かと名乗る用のある時は、必ずこの名前を使った。元々詮索嫌いで、人と深い関係を苦手とする、どこか暗い女性だった。軽妙な口振りで、誰とでも親しく話す割に、二度、三度と会うにつれて、疎遠になっていくことが多かった。
特に同性とはいい関係を築くことができず、最近はもっぱら男性と一緒にいる。一人で家にいると不安になると公言してはばからず、空いたスケジュールには何かと理由を付けて、人を呼んだ。
「あ~、来てくれたんだぁ」
わぁ、と手を広げ、甘夏は男に抱き付いた。男の方は満更でもなさそうな顔をして、お前が呼んだんだろ、と呟く。
「さあ、入って入って」
二人きり、閉じられた扉は、哀しいくらい静かだった。
「ごめんね、ごめんね。嫌いにならないで」
かすれた声は、男に馬乗りになった甘夏の赤く滴る唇から漏れる。男の首には鮮やかな噛み痕が刻まれ、彼の胸には血が点々と落ちた。
「ごめんなさい、私、ついやっちゃうの。私……」
甘夏は彼の胸に額を当てて、好き、好き、と繰り返した。
「すき、好きなの。嫌いにならないで」
ゆっくりと顔を上げると、甘夏はついばむようにキスをする。
「ね、好きって言って」
固く閉じた唇に、舌をねじ込む。
「おねがい」
その甘えた声は、あまりに無防備で無邪気に聞こえた。それは、もはや懇願するしかない弱い人間の言葉のようだったが、甘夏は計算ともつかない計算で、その声音を出していた。勿論、彼女にだますという自覚はなく、頭のいい、計算高い性格でもなかった。ただ、彼女は天性の嗅覚で、自分がどう振る舞えば、相手が喜ぶのか、分かっていた。
甘夏は嬉々として、男の首を絞めた。細い指が、男の浅黒い首に沈み込み、突き立てた爪が三日月形にめり込んだ。彼女は彼の口の端から溢れる泡を、舌ですくい取って、満足そうに目を細め、口の中ではずっと、好き好き好き、と呟き続けていた。
抵抗する男は甘夏の腕を力いっぱい握り、骨が軋んでも、力を緩めない。一度、拳を振り上げたが、甘夏は腰骨を強打されても、動じなかった。もはや痛みは感じないのかもしれない。きらきらした目で、真剣に男を見下ろしている。
男の動きがにぶくなってくると、彼女は彼の耳元へ顔を寄せ、ぼそぼそと何かを囁いた。水気の多い甘夏の口は囁き声になると、水音を伴う。と息と甘い声と、不思議な破裂音に似た水の音。男は白くなっていく意識の中で、福音の代わりにそれを聞く。
だが、それらも甘夏にしてみれば、無邪気な遊びでしかない。男を喜ばせる、ただの技術なのだ。
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