BFC5落選展感想 31~40
リスト、こちらから拝借しております。この場をお借りして、落選展リストを制作された、kamiusi氏に感謝を申し上げます。
一応、趣旨を説明しておきますと、落選展の全作感想を書いていく予定です。断っておきますが、私の個人用として書いた感想ですので、第一に私のために書かれたものとなっております。公開する以上、読んだ方に利するものになるよう配慮しておりますが、その旨ご了承ください。また、個々の感想の分量も、まちまちとなっています。
近況報告から。
忙しさから、今記事も前回から一週間以上、間が空いてしまいました。全作感想は時間がかかりますが、いまの分量を維持しつつ、続けていく所存です。一方で、感想への反応をいただきました。1~10で書いた理念に基づけば、そちらに返信をかえすのが筋だと考えますが、前述の理由から、そちらは断念せざるを得ない状況です。また、いくつか返信の下書きをしましたが、作品の理解を深めるや、作品について語り合う、という方向性ではなく、私の感想の詳細な説明という向きから脱することができませんでしたので、こちらの理由からも、いただいた反応への返信を控えさせていただきます。
以下、感想です。
31、「テュス」Yoh クモハ
いつか見た指は歪に固まり、満足に伸ばすこともできなくなっていた。刃傷が隆起し、シルエットを肥大させている。とある研ぎ師の手だった。長く刃を抑えつづけ、力の入った姿勢で固定された手は、それでも、美しさを宿していた。
女の手が、そう思われる日は来るのだろうか。
という私の疑問は、今作において、何故、娘は死ななければならなかったのか、と言い換えることができる、と私は思っている。
老いた手のみが触れられるガラスの鳩に、娘は息を吹き込み、ぜんまいを巻き、空へ放つ。それを繰り返している娘は、湖にやってくる別種のガラスの鳥と、そのつくりてに心惹かれている。ある日、鳥のやってくる方角の山が燃える。娘は渾身の力を込めて、鳩に命を吹き込み、老いた手を残して、消える。
この世界では、炎の色に意味がある。娘の吹き込んだ命は、はじめ、青く燃えていたが、まだ見ぬつくりてを思うと、そこには赤が混じり始める。また、ガラスの大きな鳥には、白い炎が宿っている。山を包んだ炎も「妖色」とはっきりした色は分からないが、娘たちの炎とは異色のもの、ということだけはわかる。
最後、娘が吹き込んだ鳩の炎は血の色に燃える。”すべてを吹き込んだ”それへと、娘は生まれ変わったのだろうか?
私はそうは思わなかった。老いた手のみを残して、転生するのなら、娘の生に意味などなかった、と私は考える。ここでもう一度、問い直すことができるはずだ。
だから、娘は死んだのだ、と私は解釈する。
神話において、若い女が生贄となる類型には枚挙に暇がない。
何故、娘は死ななければならなかったのか。
それが、私たちの感情をより強く揺さぶるから、あるいは、そうすることで、私たちの社会が変容を受け入れてきた、ということであれば、それは現実の追認でしかないのではないか、と私は思う。
作品と関係のないことばかり書いてしまった。要約するならば、この作品に新しい神話の形を期待した、ということだと思う。
32、「我を學ぶものは死す」茜あゆむ
自作。
天使と神の混同があり、読みづらい。先輩が神を造り、神が天使を造り、そして天使は女である、という一種の円環構造をなしている、と読んだ。その意味では、神と天使の混同に意味はあるのだが、そのモチーフを十全に生かし切れているとは思えない。
前半部と後半部が、同じ話を繰り返しているのも、同様の構造によるものだと思うが、それぞれの要素の結びつきが弱く、構造が物語に貢献していない印象だった。
33、「ファントムミラージュ」乙野二郎
人体複製技術の過渡期の設定らしいことが分かる。
SF的な作品で、今作で完結というより、長編のプロローグになりそうな印象だった。すべてを台詞で処理しているので、読み心地がかなり平坦になってしまっているのが気になったが、「幻想」というモチーフの二転三転する様子は、興味を掻き立てられ、読み進める原動力として力を持っていたと思う。
34、「まぶたといと」岩井平米
現在、公開が制限されている。
以下、感想。
すごく大雑把な感想を言うと、ゲンロンSF講座の梗概作にありそうだ、と思った。異種族の感覚を、私たちの言語で語ろうとするSF作品、という風に私は読んだ(モチーフには、アダムとイブ(創世記?)も含まれているらしく)、”伸びた感覚機関(筆者注 原文ママ)は不可視の光線を放ちながら” という部分で、主語は人類(眠る方の動物)とは異なる「私たち」であると思うのだが(もちろん、眠る方の動物が人類という確証はない)人とシャコですら不可視光線の周波数帯が違うのだから、この場合の不可視の光線は、人類にとっては、可視光線かもしれないなどと、勝手に興がって読んだ。
最後の段落は、自信がないのだが、その前の描写と合わせると、「私たち」は植物系の知性生命体なのではないか、と思った。人類の似姿となる触角は、かつてはチョウチンアンコウのように、人類をおびき寄せて、捕食するための器官で、というのは妄想が過ぎた話か。根拠は、白くて細い繊維が樹液のように思えたというだけ。
35、「唾鬼」雨田はな
なぜだか、芥川龍之介「芋粥」を連想した。
レイが望んだものは、本当に母の唾だったのだろうか。重要なのは、味だけでなく、手ずから食べさせてもらう体験だったのではないか、と思った。
母・愛・性が唾という、少しぎょっとするモチーフで結びついており、作品を形作っているように感じられた。求めるものが何か、分かっていながら、本当は理解できていない。愛という不定形を求める、そんな物語だと思った。
36、「セーラー服」蒼井坂じゅーり
漫才でいったら、ボケの部分だけを聞かされているのかなあ、と思った。短く書いてテンポをつくろうとしている前半より、長くても「こうして、ああして、こうなったのかもしれんし」と流れが続いていく後半の方が面白いと思ったし、読みやすく感じたが、それはやはり前半で場を温めたから、そう感じるのかもしれないので、私には何も言えない。
最後で自己言及しているように、”思考だけはそこに、確かにあって。軌跡はそこに確かにあって。”と思考がとめどなく溢れてくる様子をえがいた作品だと思う。最後の一文の詩情も、作品の奥行きを広げながらも、かっちり嵌まっていて、心地よかった。
37、「武装動物園」西山アオ
かぐやSF3の最終候補作で、審査特別賞にも選ばれた「叫び」という作品があり、今作は、そちらと通底しているものがあるように感じた。
一方で、作品として扱うにおいて、私はアニマルライツに関心がない。というのも、この問題を突き詰めれば、それは人間の原罪であり、最後には人間の消滅を願う思想である、と考えているからだ。この問題は妥協点がなく、故に折り合いがつかない。折り合いのつかない問題は議論のしようがない(とここまでが初読の感想。タイプするうちに、だからこそ、「作品」として表現することに意味があるのではないか、と考えが変遷したことを、ここに記載しておく。ままならない、どうしようもない「現実」をそのままえがくことができるのが、芸術の、小説の優れた点だ)
最後の一行空白のあとの段落は、そのように読むことができるかもしれない。この部分では、人間の視点による、人間に対する感情が書かれていて、それまでの文章とはいささか雰囲気が異なる。先に、人間の消滅を願う思想、と書いたが、これは神の視点から人間を見つめるからそうなるのであって、今作のラスト、人間の視点に近付くことによって、今作は究極の問いを回避している。その問いには答えてはいけないし、問われてもいけない。
人間こそが悪であり、人間は生きてはいけない存在なのではないか。
この視点は正しい。正しいが、あまりに狭い、と私は感じる。だから、最後の一文を読むと、晴れやかな気分になるのだと思う。
38、「嫉妬」くろいわゆうり
構造としては、「生きて帰る物語」だと思う。だからこそ、最後の部分で、一行空白を挟んで、時系列が飛んでしまうのが、もったいないと思った。「僕」はなぜ「僕の暮らす町と(中略)大して変わらない」「死んだ町」へ行ったのか、そこへ行って、何を得たのか、何を失ったのか、もちろん、そんなこと関係のないところに作品はある。私の八つ当たりだ。
だけれども、車の免許を取って、もう一度「町」を訪れて、転機が訪れるのなら、学生だった「僕」の頃に足りなかったものは何だったのだろうか?
作劇についていうのなら、わざわざ名指しにした「河口」が結末に影響せず、浮いてしまっている。「僕」の「河口」への思いは、作品を導入するための装置でしかなかったのだろうか?
39、「車を買いに」唯冬和比郎
見えているようで見えていない、ぼんやりした像を結ぶ、曇りガラスのような印象の作品だった。車に興味のない女性の一人称という以上に、その視点から語られる様子が、モチーフを突き抜けた向こうで、ぼんやりしたイメージを浮かび上がらせている。
実際、「ツーシーター」という言葉が像を伴うまでにタイムラグがある様が描写されていて、その部分が、作品を象徴しているように感じられた。また、「私」の感じている不満が声として出力されないので、響かない。これもまた像を伴わない例かと。
40、「帰宅」ときのき
ノスタルジーかと思うと、ホラーのようにも感じる。
寄る辺なさが行き着いた先、終局の果てという感じ。老婆は、どこかへ辿り着いてしまっている。作品内に、向こうとこちら、という境界があるようだ。二つを分ける場にルールがあるとファンタジーで、ルールがないとホラー、とどこかで読んだ気がする(逆だったかもしれないし、ただ単に私の妄想だったかもしれない)
「こっちにこないか」と手を差し出す老人も、こっちというくらいだから、どこかへ辿り着いているのだろうか。
底知れなさがある。
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