BFC2 感想 一回戦A・Bグループ

「青紙」  竹花一乃
 「俺たちはやさしい国に住んでいる。」という最後の一文が、この作品の隠れた価値観を示しているように思う。語り手は、「青紙」が生きる意味を与えてくれると信じている。また、国の権力や家父長制といった、一般的に古いとされている価値観を信じており、けれど信じきるには足りず、ついには裏切られる​。
 淡々と語るようで、最後に投げかけられる皮肉も、弱さをよく表している。つまり、「青紙」を提出することで未来の保証を得ようとし、それを許す国のやさしさに包まれていたいという願望を、ぼくは素朴だと感じた。

「浅田と下田」  阿部2
 契約の不均衡、というどこで見たのか、本当にある言葉なのかすら覚えていない言葉を思い出した。言いたいのはこういうことだ。言った方は軽い気持ちだったかもしれないけれど、それを受けた方は案外重く受け止めているのかもしれない。
 だから、ここで重要なのは、蒸発という語が語義通りの二つの意味を持ちながら、一方で、契約を請け負ったが故に変化してしまった下田の状態をも表すということ。短い小説の中で、そんなに重層的に意味を持たせられてしまった言葉は、ひどく重く歪んで見える。ただ、そのことに甲乙も是非も善悪もない。小説は短く、文章は軽く、言葉は重い。そういう力場。

「新しい生活」 十波一
 言葉のスナップ写真。ストップモーションで見る一年。
 短歌を語る言葉は持ち合わせておらず、見る目もない。だから、平易な言葉で語るとするなら、何気ない日常をハレの日に変える祝祭感が好き。

「兄を守る」  峯岸可弥
 伊藤悠さんの「シュトヘル」を思い出す。なぜかというと、アルファがベータになる、その反転性は他人を深く思うこと――その人に成り代わってしまうまで考え続けること、に繋がると思うから。
 命を賭して助けられた自分の命には、本当にそれだけの価値があったのか。答えはない。考え続ける。兄なら、自分なら、どうしただろうか、と。アルファとベータ、そして、やがてオメガ。

「孵るの子」  笛宮ヱリ子
 自分が冷静さを失うフックに引っかかる作品。
 それでも一言、言わせてもらうなら、男子小学生の夢精した精子に同情・共感しますか。しないのなら、なぜ?もちろん、作品にとって意味のない問です。

「今すぐ食べられたい」  仲原佳
 近代国家が求める、国家の構成単位としての個人とは何か。責任能力を有する人格という幻想、がぼくの考えだ。そこに人格があるとみなす行為、それが個人を個人たらしめている。では、それを突き詰めて考えると、あらゆるものに人格を与えることができる。そこにあるとみなすことこそが大事なのだから。
 ぼくは、この作品のユーモアを愛している。牛に人格があるとみなし、それに基づいた小説が、どうして、これほど人間本位なのだろうか。牛が人に食べられることばかりを考えるなんて……!
 これは、近代的自我の確立を目指し、けれど叶えられなかった多くの近代文学の末っ子、なのかもしれない。

「液体金属の背景 Chapter1」  六〇五
 連想した作品に「ちびくろサンボ」Netflixのラブデスアンドロボットの「目撃者」がある。前者は固体が液体になる話、後者は、追跡するものとされる者のループ。
 個人的に見どころの掴みづらい作品でした。

「えっちゃんの言う通り」  首都大学留一
 混乱と狂騒と終焉。推しメンという言葉がその全てを物語っているように感じる。「状況を自分でコントロールしようとすることをやめた」彼は、えっちゃんの言う通りに、ランダム運行の電車に乗り続ける。
 しようとすることをやめる。試みさえ諦めること。結末は必然なのだろう。

「靴下とコスモス」  馳平啓樹
 ライナスの毛布。移行対象。世界と対峙するための、いつか破れる幻想。今作における靴下とは、そういうものではなかっただろうか。物語に置いて、ライナスの毛布は失われ、形を変えて、手元に戻ってくる。そう思えば、この少し不思議な小説も、オーソドックスな物語に見えるかもしれない。
 それでも、注目してみたいのはKの存在だったりする。靴下に評価を下すのは、あくまでKである。語り手の僕は、ある思い出を話はするが、靴下についての思いをついには語らない。「今すぐにでも穿けそうじゃないか」というKの言葉を「そんな風」と突き放し、僕は靴下を「口に含みもする。」いつも隣にいたはずのKよりも、階下の住人の方がよっぽど僕に近しいではないか。

「カナメくんは死ぬ」  乗金顕斗
「我思う故に我あり」「考える私は存在する」そう書くだけでいい小説なのか。それとも六枚書かなければ、ここには到達できないのか。ぼくには判断できない。

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