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「探偵(および真実)の不在」

 書かれていないことは存在しないのなら、私はこう書かなければならない。
 犯人は神崎である。

 ここに死体がある。(ここ?)
 神崎が見つけたとき、書斎は密室だった。(見つけたとき?)
 新野の書斎には鍵がかかっていた。新野は机に突っ伏している状態で、ポケットには書斎の鍵が入っていた。書斎は部屋の壁一面を本棚で埋められており、窓はない。換気用のダクトがあり、扉のほかに出入りする場所はない。密室だった。
 その夜、新野家には私立探偵として有名な高見順一郎が諸事情により宿泊していた。新野の口角に付着していた涎の泡から、彼は新野が毒殺されたものとした。
 問題は、誰がどのように新野に毒を飲ませたか。新野が書斎へ入る前、何か飲んでいたところを見た人間はいなかった。(換気用ダクトは関係ない)書斎にはグラスの類は見つからなかった。代わりに、高見が新野の襟が濡れていることに気付く。(なぜ、ほかの人間は気付かなかったのだろう)
 新野が飲み物をこぼした理由は何だろうか。その前に、新野の死体が発見される前の互いのアリバイを確かめることになった。(新野家には、新野・新野の妻・探偵の高見・助手の浅川・新野の友人、神崎の五人がいた)
 新野が書斎へ入ったのは二時間ほど前。制作会社から連絡が入り、新見は絵コンテ作業に入るため、居間を離れた。新野を待つ間、新野を除く四人は客間にいた。新野の妻(彼に妻はなく、実際に同居していたのは新野の妹である。)が茶を淹れるのに、わずかに席を外しただけで、その他に離席した人間はいない。彼女が戻った後、新野が客間へ顔を出し、もう少し待つようにと告げている。もちろん、新野は茶に口をつけていない。
 それから四人はしばらく歓談を続けた。話題は新野や神崎のフィルモグラフィに及び、想定線を敢えて無視する繋ぎについて、高見は質問した。それは新野・神崎のフィルムの特徴だった。議論は文芸に想定線は存在するのか、するならばどういった形で、という方向へ流れていった。あるタイミングで神崎がトイレに立ち、ついでに進捗を尋ねてみると言ったのが、新野の死体発見につながる。返事がないことを不思議に思った神崎が扉を叩き、その音を聞いた高見たちが書斎に駆け付けた。このときの神崎の異様な様子にほだされた高見たちは、鍵のかかった扉を突き破ることになる。神崎の袖口は濡れていた。(この疑惑を見逃さなかったために、探偵は一つの真実を作り出すことになる)
 机に突っ伏した新野が、扉を突き破った瞬間、見えた。新野の名を繰り返し呼ぶ神崎は真っ先に駆け寄り、覆いかぶさるようにして彼の身体を全身で揺すった。(扉を突き破った瞬間、机に突っ伏した新野が見えた。真っ先に駆け寄った神崎は覆いかぶさるようにして、新野の身体を揺すり、繰り返し名前を呼んだ。)この時、高見たちからは新野の姿が神崎に隠されて、よく見えていない。神崎が助けを求めるように彼らを見てはじめて、高見は新野の脈を確かめた。
 (ここまでの情報を整理した高見は、一つの結論を導き出す。新野を殺した犯人は神崎である。まず、神崎がトイレに立った時点で新野はまだ生きていた。神崎は書斎に顔を出し、新野に毒を飲ませる。無理やりだったため、新野の襟や神崎の袖口が濡れたのだろう。その後、神崎は鍵を持って書斎を出る。中を密室にした後、騒ぎ立てることで高見たちをおびき出し、部屋が密室だったことを印象付ける。真っ先に新野に駆け寄ったのは、鍵を彼のポケットに忍ばせるためだ。こうして、書斎は完全な密室となった。)
 高見はこの推理をその場にいた全員に明かした。警察と救急がじきにやってくる。科学捜査は何が正しいのかを示すだろう。

 新野の死因は持病の心臓発作だった。彼が書斎に鍵をかけたのは、ちょうどそのころ、にわか雨が降ってきたためだった。普段、書斎は環境を一定に保つため、換気用ダクトを通じて、空調管理が徹底されていた。
 新野の襟が濡れていたのは、彼の吐瀉物だった。心筋梗塞の前兆に吐き気を伴うことがあるのは、迷走神経と呼ばれる神経が心臓と胃腸の動きに関係しているためだ。
 神崎の袖口が濡れていたのは、トイレで手を洗ったときについたものだろう。また、新野に駆け寄ったのは、彼が心臓に持病を抱えていることを知っていたからであり、書斎の扉を異様な様子で叩いていたのも、それで説明がつく。
 助手の浅川はこの端的な事実を著書に記していない。このような例は他の著書にも非常に多くみられる。読者は事実とフィクションを注意深く見定めなければならない。
 (端的な事実とは?)
 (警察の取り調べに、神崎は「アニメーションは描こうと思ったものしか画面に映らない。新野とは創作論や映画観が違ったが、喧嘩らしい喧嘩はその程度だ」と答えている。彼には動機がない。)
 (不在の証明はできない。)
 (気象庁の記録によると、にわか雨が降り始めた時刻は新野の死亡推定時刻から三十分ほど遅れている。)
 (神崎のモデルとなった人物はこの事件ののち、不可解な死を遂げている。事件後、主演俳優の不祥事により、彼の映画は公開中止となった。)
 (のちにノイタミナでアニメ化された際、シリーズ構成を務めた奥山がこのエピソードについて、トリックに欠陥があるため採用しなかったとインタビューで答えている。出典元とされる雑誌に当該記事は存在しない。)

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