魔女の贄 右
泉の噂を聞き、やってきた森で魔女に出会った。甘やかな、緑の香る木漏れ日の中で、彼女は泉に笹舟を浮かべ、微笑んでいた。
「何か、ご用ですか……?」
笹舟が流れ過ぎていき、ぼくに気付いた彼女は、顔を上げ、そう言った。
午後の光に照らされて、彼女の黒髪は、魔力のこもった黄昏色に染まる。
彼女は立ち上がり、スカートを払って、もう一度微笑んだ。
「実は、人探しをお願いに来たのです」
「それは泉に? それとも魔女に?」
「対価はちゃんと持ってきました」
魔女はまつ毛を震わせて、そう、と小さく呟いた。垂れた髪を手櫛でまとめ、耳へかける。
「では、付いてきてください。話は家で聞きましょう」
家に着くなり、魔女は対価を要求した。
「中身は、紅茶の茶葉でしょう?」
ぼくが渡した缶を開き、彼女は口元へ寄せた。
「いい香り。さっそくお茶を淹れますね」
そうして、彼女がキッチンへ消えていくと、上で何かが落ちたような音がした。だだだだ、と音が続き、そして静まる。
「あの、この音は……」
視界の端に何かがよぎった。顔を向けると、もういない。舞った埃がきらきらと光っている。
「ティナ、お客様にご挨拶をして」
魔女がティーセットをもって、テーブルへ戻ると、その後ろから彼女と同じ髪色をした女の子が顔を見せた。
「娘のティナです。驚かせたでしょう?」
少女はぼくと目が合うと、母親の背中に隠れた。
「お母さん」
「私はお客様とお話があるから。少し、外へ遊びに行って来たら?」
さあ、と背を押されると、名残惜しそうにこちらを振り返り、そして、もう一度ぼくの方を見て、だだだだ、と走り去っていった。
「子どもがいたんですね」
「……魔女だって、子どもを産みますから」
それで、と魔女は紅茶を注ぎながら、言う。
「それで、その探し人は、どのような人でしょう」
「ぼくの古い知り合いです。この街を十歳で離れる前、将来を誓った女の子がいました。ぜひ彼女を探してほしいのです」
「探して、どうするのです?」
「結婚を申し込みます。遅くなってしまいましたが、ぼくは彼女を迎えに来たのです。こう見えて、首都へ行けば、名の知れた店の主なのですよ?」
魔女は黙った。手に取ったティーカップが当たり、高く鳴る。
「彼女が十歳の頃の約束を覚えていると思いますか? いえ、もし覚えていたとして、既に結婚していたら? 子を設けていたとしたら、あなたはどうするのですか?」
「そうだとしても、彼女に一目会いたい」
「あなたは、約束を反故にした彼女を恨みますか?」
勿論、恨むはずがない。だが……。
「どうして、そんなことを聞くのです?」
「もう日が暮れます。森が暗くなる前に、お帰りになるのがいいでしょう」
夕陽は森の木の突端にまで近付き、世界は黄昏に染まる。酔ってしまいそうなほど強い西日が、魔女の家へと差し込み、目眩を誘う。
「いえ、もう少し。この一杯を飲んでから」
時間が経ち、湯気の薄くなった紅茶に、彼女はミルクを注ぐ。傾いた水差しから濃厚なミルクが垂れ、差し口に残った白い滴が、テーブルクロスを汚した。
「あなたに会えて良かった」
そうぼくが口にすると、彼女はカップに残った紅茶を飲み干した。
「夕食の支度がありますから」
微笑み返して、ぼくも紅茶を飲み干す。
その後、彼女に会いに行くことはなかった。
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