日記 6月7日 書く力と読む力
最近の自分の実感を話すと、書く力に読む力が追いついていない! なので、非常に刺さりました。という話をしようと思っていたのですけれど(ツイートを見たのが昨日の夜)眠って、一日仕事をしたら、綺麗さっぱり何を言おうと思っていたのか忘れました。
たしか、大滝さんのこのツイートを見る前に、保坂和志botのツイートもタイムラインに流れてきていて、この小説は何について書かれているのかと考えることは小説にとって無駄だ、というような内容だったはずで、その辺りと繋がる予定だったことはぼんやりと覚えている。
閑話休題。
ここ一、二か月文章が上手いとコメントをもらうことが増えてきて、もう十年以上、小説を書き続けているのだから、それぐらいは身についていてもらわないと自分のこととはいえ困るのだが、それはそれとして、そろそろ自分はもう少し「小説が上手く」なりたい。
これは以前だと小説はまあ置いておいて、文章が上手くなりたい。上手い文章を書き連ねていけば、自然と小説も面白くなるだろう。と思っていた。「移動する祝祭日」なんかは、その方向性が上手く機能した小説のような気がしているけれど、じゃあ、それはやっぱり何について書かれているのか分からない小説でもある。保坂和志はそれでいい、という。いや、それがいい、かもしれない。
一方で、そういう小説は広く読まれるのだろうか、と考える自分がいる。保坂和志は小説固有の特性を活かす方法について、小説や小説を書く方法について書くことで深めようとしているのは分かっている。だから、そういう特性を薄める方向で小説を広めていくことは、あまり意味のある事とは思わないかもしれない(と自分は想像する)。
ここの分断をぼくは上手く乗り越えられない。昔は文学性とエンタメ性とか言っていた。最近は、小説という媒体自体の読者の少なさを思う。小説というと語弊があるかもしれない。オルタナティブ文芸とかその辺りが、割かしぼくが耳にする名前だ。純文学とは違うように感じている。が、ぼくがそう感じているだけで違わないかもしれない。ぼくのツイッターのタイムラインに登場するクラスタの人たちが、そういう方向性を持っていると思っているが、それぞれはまったく別の方向を向いていると言われても、ぼくは反論できない。
何が言いたいのかというと、分からないということが言いたい。で、なぜ分からないかというと、ぼくが小説を全然読んでいないからだ、と結論付けることができる(追記、書き終えた後読み直して。自分の読書量が少ないことを卑下して、それを原因化し、分からない理由にするのはたいへん気持ちがいい行いである。自分の至らなさを反省するという態度でもって、自己省察を怠けている。)。ぼくが小説を読んでいないことは事実である。
これで、冒頭の話に戻れる気がする。
ぼくは自分が書いた小説が何を書いたものなのか分からない。分からないことが多い。公募に提出した後で気付くこともあれば、落選してネット上にアップロードしたあともよく分かっていないこともある。
読む力が弱いのだろう。
これは三つの意味で言っている。一つは、読書を続ける体力がないことだ。気が散ると言い換えてもいい。長い文章を読むという行為に忌避感が生まれてしまった。
二つ目は、文章の意味が充分に取れないことがあること。もはや円城塔作品は読めない。何を書いてあるのか理解できないからだ。より正確には、文章から読み取れることを、脳内で想像・補完・保持しながら読むという行為の疲労度が以前より増した。腕立て伏せをしようとしたが、腕が細すぎて、身体が上がらない、というような比喩が相応しいかもしれない。
三つ目に、小説の背景を想像することが難しいことだ。背景を構造などと言い換えてもいいと思う。これは二つ目の理由と重複しているはずだ。文章を読んだ先から忘れていく。留め置くには、こうして日記に残すのがいい。当然、背景が飲み込むように理解できる作品がある。自分と近い作品だ。一方で何も理解できない作品もある。けれど、重要だと思うのは、その中間だ。分かるけど分からない。そのグレーゾーンを増やしていくためにこそ、読書量の確保が重要なのだと考えている。
小説を書くというのは、分かるところから分からないところへ進んでいくことだと思う。書き始めは自分の理解している場所から始まる。そうでなければ、小説など書けない。どんな人物が、どんな場所で。とはじめに書く必要があるのだから。
書いているうちに、自分が考えていなかった部分に広がりが生まれてくる。それは無意識から漂い出てくるものかもしれないし、既に書かれた文章から連想されたものかもしれない。確かなことは、そういうものが小説を書いていると増殖していくことだ。なぜかはよく分からないけれど。
というわけで、書き進めると不確定要素とでもいうものが増えていく。自分が分かるものだけで書き始めたはずが、いつの間にか、分からないものの方が多くなっていく。書いている自分はそれをわかる範囲に押しとどめたいという思いを抱く。というよりむしろ、そうすることでしか小説を終わらせることはできない。
分かるものと、分からないものが両手の中で抱えきれないくらい、溢れんばかりに膨らんでいく感覚を知っている人は、恐らく小説を書いた経験のある人ではないか(あるいは、他の創作も?)
この時、きっと指標にできるのは、道しるべとなるのは、どれだけグレーゾーンを歩いてきたかではないか、と思う。読む力というのは、自分が分かる範囲がどれだけ広いかではなくて、分からないものへどのくらい対処してきた経験があるかだ(と言い切る)。
これがぼくなりの書くために読む必要がある、の理由だ(と思う)。自分がどんなものが好きかを知るために、読む必要があるという人もいる。それはぼくも正しいと思うし、間違っていると言いたいわけではないが、それでも、読めば読むほど好きなものは増えていき、好きは拡散する。そうでなくとも、子どものころ好きだったあれやこれやが、今は楽しめないなんてこともある。
何が正解かは、やっぱりぼくには分からない。
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