BFC2 感想 Hグループ

「量産型魔法少女」 佐々木倫
 人生には一発逆転はないと知るところから、人生は始まる、といつだかネットで見た。○○を持つと人が変わる、という言説は、満たされぬ側の言葉であると、酸っぱい葡萄的に受け止められてしまう。
 だが、希望だけは違う。魔法だけは違う。フィクションと言い換えてもいい。あるいは、身も蓋もなく、嘘とでも。
 死と眠りの違いが判然としないように、嘘と希望の違いもはっきりとはしない。
 人生のある部分に、嘘を持たない人間は信頼できないが、嘘を嘘だと自覚してない人間は手に負えない、というのがぼくの実感である。

「PADS」  久永実木彦
 猫が人の支配者だという小説を書いたのは、星新一だったか。そういうSFが描かれる程度には、人とペットの関係は奇妙だ。あるいは飼育の奇妙さを描き出した作品に高山羽根子さんの「うどん キツネつきの」があるように思う(記憶が曖昧なまま書いている)。
 猫が人を救うべく行動するという点は、人の願望が込められているとぼくには感じられる。ペットを溺愛する愛犬家・愛猫家(犬や猫に限らない)が、この子は私が大好きで、ちっとも離れなくて……などと放言しているのを見ると、失礼ながら、それはあなたの願望ではないか、ということを考えてしまう。
 しかしまあ、そういう風に自分に都合のいいように感情移入して、勝手に感動するのも、人という動物の性なのかもしれない。そういう意味で、この語り手は、信頼できない語り手なのかもしれない。

「voice(s)」  蕪木Q平
 状況に迫られて、選んだ選択を人は後悔しがちだ。育児は、人生はままならないということを、否応なく自覚させてくる。
 現代において、子どもの価値が際限なく上昇している中で、必然的に、育児をする両親の元には、無数の声が届く。それはアドバイスであり、脅迫でもある。そのようにするのが好ましいという表現は、そのようにしない人間を排斥してもよい、とやがて形を変える。
 だから、赤鬼は子どもを責め立てるものであると同時に、親をも責め立てる存在として、表現される。

「ワイルドピッチ」  海乃 凧
 とかく、安易な視点の転換はするな、というのがあらゆる小説の指南書に書かれているのだが……。
 映画の禁じ手の一つに、イマジナリーラインというものがある。向かい合った二人を一本の線に見立て、カットを切り替える時、右側なら右側に立てたカメラを、突然に左側に移動させてはいけない、というルールだ。イマジナリーラインを越えると、カットの意味が大きく変わるために、禁忌とされている。
 だが、イマジナリーラインを越えてもいいカットというのが存在する。それは、一つのカットの内に、カメラがぐるりとラインを回り込むときだ。
 それを小説で行うとどうなるか、ということが、今作では存分に書かれている。
 また、本作は枠(フレーム)というものがとても意識されており、校舎の影や、柱に隠れる互いの姿を追いかける駿介と文乃の二人の視線(ショット)がサスペンスを生み出している。その意味で、本作は映像的、あるいは映画的と言えるかもしれない。
 どこまでも視線であり、カットである本作において、声は遠ざけられる。意味はカットによって示されるため、声・言葉は意味を結実しない。もっぱら、それらは視線の誘導のためにある。

「盗まれた碑文」  吉美駿一郎
 単純に読めていないだけなのか、最後の王の描写が、石碑に張り付いた皮膚の王、と別に、大理石に覆われた王の二人がいるように読めて、よく分からない。石碑と大理石が対比されていることを見ると、二つあると読むのがいいのだろうか。
 王の死は、後継の王の血統の正統性を示すという意味で、死してなお生きるという面がある。
 そのため、死んでいるのに生きているという逆説が成り立つのだが、それは今作の核心なのかと問われると、やはり分からない。

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