掌編 「呼吸がほしい」
夜毎、息苦しさに目を覚ます。灯りを落とした自室の中で、蓄光の時計の針だけが勤勉に働いて、早鐘を打つ鼓動のように、その音で部屋を満たす。既に街は寝静まって、墓標のように整然と並んだ家々が、眠っている私たちは死んでいると告げるようだった。
私はゆっくりと寝返りを打って、枕元の時計に手を伸ばす。深夜三時。あと一時間もすれば、朝だと思う私の認識からすれば、この時間はいやに中途半端だ。
朝と夜のグラデーションに塗りつぶされた、時の空白。誰もが眠り、何事も起こらないこの一時間さえ、私たちの一日の中に存在していると考えるのは、とても奇妙なことだ。勿論、この間にも世界では働く人がいて、物事は動き続けるけれど、それは、何もない一時間を持ち回りで消化しているにすぎない。私たちの一時間が過ぎれば、次の一時間が次の国を訪れる。そう考えることは、世界中の人間が同時に瞬きをするという想像と同じように、馬鹿げていて、故に面白い。
私は私の体温ですっかり温くなった枕を裏返し、天井を仰ぎ見る形で横になった。まぶたを閉じ、十数えながら、息を吸う。
この時間特有の冷え切った空気を吸い込むと、やはり、いつものように、私の呼吸は胸まで届かなかった。冷気は鼻梁を通り、喉までを冷たくするが、それでも私の胸は膨らまない。胸の上にのしかかるような重みがあって、それがどんな時も意識を外れることはない。肩を寄せ、胸を開いても、その重みは変わらずに胸を締めつけ、私は必死にあえぐことで呼吸を通す。息が上手くできなくて、頭がぼんやりすることもある。精いっぱい吸い込んだせいで、心臓がドキドキしたりする。
立っていることさえできなくなると、私は猫背になって、膝を抱え、丸くなる。そうするとなぜか安心した。安心して、呼吸ができたのだ。
私は起き上がって、伸びをする。水でも飲んで、また眠ろう。そう思い、ベッドから出ようとした瞬間、携帯電話が鳴った。
突然のことに驚きつつ、ディスプレイを見ると、リンからのメッセージが来ていた。
「今、起きてる?」
まるで奇跡みたいなタイミングに、思わずドキッとした。返信しようか迷って、やっぱり返すことに決める。
「起きてるよ」
「起こしちゃった?」
「ううん。リンからメッセージが来て、驚いちゃった」
「え? じゃあ起きてたの?」
「うん、ちょっと寝苦しくって」
「ね、今からそっちに行っていい?」
リンの家から私の家まで、歩けば三十分からかかる。リンの意図が読めずにいると、
「今、コウの家の前にいるんだ」
カーテンを開けると、本当にリンがいて、携帯電話を振っていた。
リンを家にあげ、私はリンとベッドの中にいた。リンはさっきまで彼の家にいたらしく、つまりは朝帰りの途中なのだった。
「何となく、繋がる気がしてさ」
と言うリンは、私の貸したパジャマを着ている。私が自分の趣味で買った水色のパジャマは、不思議とリンに似合っていた。
「コウはどうして起きてたの?」
私はゆっくりと息を吸ってから、話し始める。
「前に話したと思うけど、最近よく眠れないんだ」
「ああ、息が苦しいってやつ?」
うん、と答えると、横でリンが寝返りを打った。彼女は私を見て、頭を撫でた。
「どうしたの?」
「昔、お母さんがこうしてくれてさ。小さい頃、無性に怖い夜ってなかった?」
私が分からないでいると、リンが続ける。
「特に理由なんてないんだけど、色んなことが気になってさ。部屋の影とか、ベッドの下に何か得体のしれない生き物がいるような気がして、それでさ、つい怖くなって、お母さんに泣きついたの。一回だけじゃないよ。何度も。そのたびに、お母さんがこうして隣にいて、頭を撫でてくれたんだ」
自慢げに笑うリン。私はその顔を見て、急に安心してしまった。
「ねえ、リン」
「何?」
「もっと話して」
「え、話?」
「うん、今みたいなの、もっと聞きたい」
リンは本当にいろんな話をしてくれた。昔、クローゼットに住んでいると思っていた怪獣の話や、一緒に眠ってくれた熊のぬいぐるみの話、怖い夢の話をすると決まって「俺が夢で助けてやるよ!」と言ってくれた星野くんの話。どの話も楽しくて、気付けば、私はリンのパジャマの袖を掴んでいた。
リンはそんな私を胸に抱いて、やっぱり頭を撫でてくれた。
「私、変な匂いしない?」
えへへ、と笑いながら、リンが言う。
「しないよ」
香りがしないから、リンがいなくなってしまう気がして、私はより強く、袖を掴んだ。
「実は、朝帰りって嘘なんだ」
本当はさ、とリンは続ける。
「今日はコウの誕生日でしょ? 本当はさ、日付が変わったら、メッセージを送るつもりだったんだよね。でも、気付いたらこんな時間で、あーやっちゃったって思って、半分諦めてたんだ。今日、会った時におめでとうって言えばいいやって。そしたら、急に哀しくなっちゃって。これじゃダメだと思ったんだよ。それで、コウの家まで来たら、コウが起きてる気がして……」
何でだろう、変だよね、と言って、リンは力なく笑う。変だねって、私も言う。
「でも、来て良かった」
リンは私をぎゅっと抱いた。
「辛い時はいつでも言って?」
そう言ってから、リンははっとした様子で私を離した。
「苦しくなかった?」
私はリンの胸に顔を埋めて、
「ちっとも」
と答える。さっきまでが嘘みたいに、胸が軽くなっていた。
私はリンの胸にかき抱かれて、胎児のように身体を丸くして、目を閉じる。
次第に、意識はほの暗い海に沈んでいった。
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