掌編 「人混みの中の誰か」
道をすれ違う。匂いの塊が、道一杯に広がって、思い思いの方向へ歩いていく。甘い香り、酸味の効いた刺激臭、石鹸の脂臭さと花を装う香料。私は、その匂いのどれもを、誰かに似ていると分類していく。友人が好んでつける香水、父の加齢臭、小学校の教師のポマード、私自身。あまりに似すぎたそれらは、私たちの生まれ変わりや、はたまたクローンではないか、なんて、そんなことはあり得ないはずなのだけれど、否定しきれないのは私が意志薄弱だからだろうか。
いや、それも関係ない。人混みの中で、私は私たちとなってしまって、だから似通ってしまう。曇ったレンズで眺める人波は、男と女の違いも分からない。ピントを絞ると、今度は視界が狭まって、比較するべき私と他人がいなくなってしまう。
ふと、ハンカチーフの一枚でも落としてみようかと思った。私の匂いの染み付いたハンカチーフは、路上に落ちた次の瞬間に、道を埋め尽くす匂いの一つとなって、もう一人のわたしのように立ち上がり、どこかへ歩き出してしまわないかと考える。まるで初めからそこにいたように、当然とすました顔をして、駅へ行き、電車に乗り、学校で授業を受ける。彼女の方が、私よりも成績が良かったらどうしようと、心配するのはなぜだろうか。
空想へ沈みかけた瞬間、狭くなった視界へ、誰かが飛び込んできた。ぶつかりそうになった私たちは間一髪で避けあった。その人は会釈も挨拶もなく、人混みの中へ消えていく。田舎生まれの私は、人を人と思わないことにまだ慣れない。私が気に掛けるのは、私と同じように、彼も人にぶつかりそうになり、不快になっているだろうことだ。現に、私が彼を危なっかしい人だと責め立てたい気持ちを持つように、彼もまた、私を視野の狭い女と思ってはいないか。そして、そんな思考が固定化され、自分だけの世界に囚われてしまわないか、が他人のことながら不安だった。
「落としましたよ」
背後から掛けられた声は、明らかに私に向けられたものだった。そう確信したのは、どうしてだろう。私はその声を聞いた瞬間に、鳥肌が立つのを感じた。振り返ると、彼は背中に人混みの圧力を受けて、真っ直ぐに私を見ていた。立ち止まった私に、人混みはわざとではないけれど、足を踏みつけて、行ってしまう。彼の背中は人混みの肩がぶつかり、けれど、彼は私へハンカチを差し出した。
「落としたよ」
レモン色のハンカチーフは、人混みの中で一際鮮やかという訳でもなく、雑多な色彩の中へ埋もれてしまうのだけど、私と彼はそのハンカチーフを通して、握手するように手を伸ばし、そして、わずかに触れ合った。
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