BFC2 感想 Cグループ

「おつきみ」  和泉眞弓
 とうきび、あるいは、とうきみのくだりを読んで、高校時代の恩師が読ませてくれた論文を思い出した。内容は、土佐日記における亡児表現について、だった(思い出した理由は、ぼくがまだもろこし(唐土)の意味を知らず、大いに恥をかいたことだ)
 今作に漂う別れの予感(物語のはじまりが十五夜であること、そこへ繋がる満ちていくあなた(子ども)の描写、ぴったりしたくつを選ぶこと)の理由は、あるいは誤読なのかもしれないけれど、子を失うことを語り手が既に経験しているからではないか。
 「はらの内のピーナツの電影が消えた」という一文は、まさに、そのことを裏付けるようでもある。また、「あなた」の迎えが来た時、語り手は「わたしはまけていたのです。」と語る。「ほんとうのおかあさんとは、なんでしょう。」誰に問いかけた問いなのかは分からないけれど、それに自ら答えるように、語り手の手はゆるむ。
 まける、とは何に? 勝ったのは誰? それは分からない。迎えに来た女性のうしろ頭のあぜ道は、確かに、「あなた」と同じカーブだったかもしれない。けれど、「あなた」との別れは、「わたし」には既に実感されていた。
 我々の住む地球に、月は一つしかない。

「神様」  北野勇作
 定説は、定説であるが故にいつでも覆る可能性を秘めている。
 様々な選択肢を示しながら、蛇行していく地の文こそが、作品の姿を現しているように思う。
 この作品を通して、ぼくが問いかけられたと感じたことはこれだ。
 ヒトもヒト以外の知性体も補って余りある神様を作り上げたところで、はたして、どの神様に守ってもらえばいいのか、どう神様を選ぶのか、ということだ。
 ここから個人的な話が続く。
 これはBFCという制度への問いのように、僕の目に写った。ファイターが選出され、作品を吟味してジャッジが次へと進むファイターを選ぶ。一方で、ジャッジもまたファイターに吟味され、次へと進む。
 作品の優劣をつけることは比較的簡単だとぼくは考える。物差しを一つ持ってくればいい。だが、どの物差しを選ぶのか、ときかれるとぼくは困ってしまう。また、選んだ物差しに妥当性があるのか、ということも問題になるだろう。そして、それもまたジャッジやファイターに吟味されるのだろうけれど、妥当性の入れ子構造はどこまでいっても終わらない。妥当性を保証するものが存在しないからだ(合意は取れるだろうけれど)。

 さて、作品に戻りたい。
 定説や主張や代案が次々に示されていく本作だが、ぼくが注目したいのはその間に挟まれる文章たちだ。神が人を守らなくなった、という説明から入る冒頭の一連の最後に「そういうことになっている」と捨て置かれる一文や、「お決まりの道筋」「あってもおかしくはない」「定説になっている」などなど、妥当性は示されず、ただ、そうであることに重点を置いた表現が繰り返される。
 どこまでも曖昧な態度で進んでいった小説は、ついに何も決定することなく、決定される日を待つことを決める。それでも、保留付きなのだけれど。

「空華の日」  今村空車
 ……………分かりません。勉強します。

【11月8日 追記】
 車の免許はMTで取った。余談気味ではあるが、MTの車の運転は世界で一番楽しいレースゲームだと思っている。特に気を遣うのがギアチェンジで、紳士的なドライバーを心掛けている身としては、がくっという衝撃が同乗者に伝わらないよう努めるのが義務というものだ。
 さて、何を言いたいかというと、本作もまた、そういったギアチェンジを志向した作品ではないか、ということだ。
 一行空白をおいて、場面の切り替わる瞬間が二つあり、本作は三幕に分けられている。それぞれがラストに向けて加速していくギアであり、そのなめらかなクラッチさばきには、狛犬がゴリラであるとか、社殿がトランスフォームするとかいったことに疑問を挟む余地もない。
 問いが結実しないために、読者が積極的に作品に入っていくことが難しい。だから、これは読者に読ませるものではなく、作者が読ませる小説であり、その意味で、この小説は異質だ。


「叫び声」  倉数茂
 繰り返される、避けえぬ悲劇の日常を生きているとしたら。
 まるで、創世記や神話のような始まり方。叫び声を聞いた女の故郷は、西にあり、それは極楽浄土めいている。
 男と女、彼と彼女をひどく冷静に分別しておきながら、最後に示されるのは、「昔会ったきりの女」という混乱。そして、あの一行。
 近しい悲劇に直面し、それに少なからず影響を与えられる立場にありながら、それを見過ごした時に生まれる罪悪感を、どうほぐせばいいのか。
 「彼」は他人の人生を生きることにしたのではないか。声が聞こえる、と「彼」が語るのは、「彼女」から話を聞いた後だ。のちには、順風であったはずの恋人や仕事を失って、平然としている。
 最後の一文は、はじまりへと戻る円環の端ではなく、「彼」が生きた人生が、既に誰かのものであったことを示すものだと、ぼくは感じた。

「聡子の帰国」  小林かをる
 異なる価値観・世界観の触れ合う界面は乱れる。多様性は不快で、話が通じるはずもない。
 住んでる世界が違う、という言い回しがある。近頃のぼくは、それを認知の領域の差、という理解の仕方をしている。あまりにものの見方が違う人を見ると、あの人はバカだ、と思わず自分を正当化したくなるが、相手から見れば、自分もバカに見えているのかもしれない。
 個人と共同体の軋轢が問題視されて、どれほどの時が経ったのか、ぼくは知らない。それが今も続いているものなのか、それは地方と都市の格差問題へと転換したのか。
 ぼくが感じたのは、少しのアンフェアさだ。事あるごとに大学名を付け加える聡子の「賢く」ない話し方は鼻につく。シラミの湧いた理一郎に同情してもいい、介護と子育てに翻弄される孝介のままならなさを嘆くのもいい。聡子と彼らの、どちらが正しいのかは別にして。それが、個人主義の浸透した現代のぼくから見たこの作品だった。
 きっと現代よりも昔を舞台にした作品なのだろうと思うので、ぼくの見方も偏っているのだろう。

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