季節の途に咲く一輪の花
山口百恵「さよならの向う側」の歌詞の一部をずっと、誤解していた。
先日、長野の松本で仕事があり、午前四時から車を運針して、行ってきた。今の職場では遠方の仕事が度々あり、明け方から車を出して、作業に赴くことがある。
黎明の無人の道路を車を走らせながら、ラジオを聴いていると、何でもない曲が唐突に心に飛び込んでくることがある。
「さよならの向う側」のギターソロの切なさが、川を渡る吊り橋の街灯に照らされていた。
「さよならの向う側」は山口百恵の実質の引退曲としてリリースされている。そのなかの
という一節をずっと「季節の”ト”に咲く」と勘違いしていた。
漢字に変換するとまず先に思い浮かぶのが「途」であり、いわゆる道のこと。路傍に咲いている花を想像していた。そして、「と」という音の持っている鋭さから、季節の先端、つまりは変わり目をも意味している何かだと、ずっと思っていた。
ラジオでキャンディーズ「微笑がえし」を聞いたときも思ったが、昭和の時代の引退曲の素晴らしさというのは、言葉以上の情念の籠もり方、圧倒される感じにあると思う。たった一曲の中に、人生が詰まっている。そういう濃さが昭和の時代にはあったのだろうという気にさせる。
その濃さは「さよならの向う側」の曲構成にも表れていて、サビまでの盛り上がりと、サビでの落ち着きは、ちょっと普通ではないという感じにさせる。一番を聞くだけでも満足感がすごいのだ。
余談だけれど、同じ日の別のラジオでテディ・エイブラムス「ピアノ協奏曲 オーバーチュア カデンツァ1」という曲を紹介していた。クラシックを紹介するコーナーでのことだった。ぼくはその曲名をずっと「家電図1」と聞き間違えていて、とんでもないポストモダンなタイトルだと感心していたのだった。クラシックはクラシックでも、モダンクラシック!? と。(曲の趣はジャズクラシックみたいだと思った。)
まあ、それだけの話。余談に余談を重ねるなら、ラジオのいいところは身体的に拘束されているところだと思う(それはラジオではなく、カーラジオ)。
だいたい一月前にツイッターのアカウントを消した。
ツイッターをやめてよかったことは、実生活にたいした影響がなかったことで、やめて悪かったことは、実生活にたいした影響がなかったことだった。
アカウントを消してすぐは、なんだか気分が良かったことを覚えている。べつに、SNS疲れをしていたわけではなくて、それが本質的には自死に近いからで、自己破壊欲求を持っている人にはたまらないだろうな、と思った。よくネトゲの世界で引退をほのめかして、結局もどってくる人がいるなんて笑い話を聞くことがあるけれど、同じことだろうと思った。つまりはアカウントを消すこと自体が気持ちいいのだ。
あまりやりすぎると自分も癖になりそうなので、このnoteやはてなブログはとりあえず残しておくことにした。
という話を書くのはなぜかというと、アカウントを消して一月がたったので、アカウント復活ができなくなったから。これでようやく、ツイッターから解放されたことになる。戻るようなことがなくて、本当に良かった(意志薄弱でなくて)。
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