BFC5落選展感想 21~30
リスト、こちらから拝借しております。この場をお借りして、落選展リストを制作された、kamiusi氏に感謝を申し上げます。
一応、趣旨を説明しておきますと、落選展の全作感想を書いていく予定です。断っておきますが、私の個人用として書いた感想ですので、第一に私のために書かれたものとなっております。公開する以上、読んだ方に利するものになるよう配慮しておりますが、その旨ご了承ください。また、個々の感想の分量も、まちまちとなっています。
以下、感想です。
21、「悪いのは誰?」比良岡美紀
叙述トリックが仕掛けられているのだろうか?よく分からなかった。私とミハルは姉妹なのか?
登場人物のイメージが錯綜して感じられ、「私」の母・ミハルの母・母の知人、の三名の像が浮かび上がってくるとき、彼女たちの姿は極めて近い姿をしていた。彼女たちが同一人物であったり、あるいは、呼び名だけが変わって、登場しているように感じられた。
同様のことは、上記の姉妹ではないか、という疑問の発端にもなった。一人のキャラクターが、別のキャラクターの面影とオーバーラップして、借景のように、二重写しに入り込んでくる。登場人物たちがもれなく、有機的にべったりとくっついている印象を受けた。ミハル、見張るという同音異義語も意味深だ。
22、「i」深澤うろこ
手つき、仕草、ジェスチャー。いずれも、そこにはないものが伝わってくる。
私たちの認知は「在る」ことしか認識できないから、「ない」は「ないがある」を便宜的に「ない」としている。ゼロや、虚数や、それこそ「ない」という言葉だって、「ない」がある状態を示している。
最後の場面、「私」はいなくなってしまったのだろうか? ごめんねという言葉に反応はなく、友人である大西と本谷も、「私」を認識していないような語られ方をする。「ないがある」世界では、そういう在り方もできる、という示唆だったのか、自信がない。目に見えないものだけが「ない」ものだろうか、と自問自答した。
23、「デザインする卵」齋藤優
山尾悠子「透明族に関するエスキス」を連想した。特に、街に広がる「睡るころころした裸のもの」など、あるいは、側孔のみずにたゆたう姿を想像して。
「デザイン」という言葉の意味は多岐にわたるが、今作では特に建築や都市構想の分野での「デザイン」という意味ではないか、という印象を受けた。卵がデザインしたのは、「裸のもの」たちではなくて、それを含み、変化せざるを得ない街と、そこに住む人々なのではないだろうか。
街には「そのもの」があふれ、それをのけたり、つぶしたりした人は消えていく。それが「デザイン」の結果ではないだろうか。排除アートのように、それを設置した結果、何かが除かれていく。
24、「面影は消えない」蒼桐大紀
この作品が日本語で書かれいることが、話をややこしくしている。いや、正確に言い直そう。日本語で書かれていることで、私はこの作品をややこしく感じる。
この作品は移民小説だ、ととりあえず言い切ってしまおう。
中国(恐らく)からの留学生、春水は母国語ではなく、日本語で小説を書いている。フランツ・カフカがより多くの読者を得るため、母国語であるチェコ語ではなく、ドイツ語で小説を執筆したのは有名な話だが、
春水の動機は、それとはまた異なるらしい。
そして、その動機を(作品は示唆してくれているかもしれないが)私には理解することができない。なので、この作品が日本人の語り手による日本語の作品だということを忘れてしまおうと思う。
春水はパレスチナからエジプトへの留学生である。
春水はポーランドからソ連への留学生である。
春水はベルリンからアメリカへの留学生である。
世界史の知識が曖昧なので、伝わっているか分からない、が、この作品が内包しているものは、そういう類のものだと感じた。
作品の表を流れる甘やかな香りと、その裏から漏れ漂う血生臭さ、後者の革命前夜のような埃っぽさに、私はより惹かれた。
25、「自転車の群れ」鮭さん
自転車が走るためには、ドライバーがペダルを漕がなければならない。走らなければ、自転車は倒れてしまう。
語り手である「私」は突然に現れた自転車の群れを、何故か「私の責任だ」と納得してしまう。
雪のひとひらだって、海へ向かう。おじさんが乗っている自転車だって、走るのだから、どこかへ向かっているのではないか?
過去を思い出し、涙を流す「私」はまだ進めていないのかもしれない。
でかい自転車おじさんの荷台に飛び乗って。
でかい自転車おじさんとともに走り出す。
「私」にはそんな勇気が必要だったのかもしれない。
26、「誰もいない」鳥山まこと
「わたし」とはもっとも身近な他人で、もっとも付き合いの長い友人でもある。再読したとき、最後まで読み進めて、思わずにやりと笑ってしまった。私なら家で不貞寝しているところだ。飲みに誘う友人もいないのだけれど。
前半の友人たちの多種多様な断り文句の振りが効いている。「わたしとあなた」を思い返す場面で抒情的な雰囲気が出ているのと、コントラストがはっきりしていて、心地いい。
妻の運動会・オンライン地鎮祭、などの部分も自由律俳句のようで楽しかった。
27、「対向車」中野真
作中のモチーフが共鳴し合うように、関連していくのを見るのは心地いい。それを展開が上手い、というのかは分からないが、流し読みしたバフチンのポリフォニーという言葉を思い出す。
助け合い・侵略・『ハンチバック』・『アミ』・信頼・対向車・死ぬ場面は意外と簡単に訪れる・こう着状態。
21~30の作品はブンゲイ濃度の濃い作品が多く、感想を言うのにも苦労するのだが、何故、感想が言いにくいかというと、掴みどころがないからだと思っている。何故、掴みどころがないかというと、作品がひとつの複雑な具体性になっているからだ。
ホタルの光が綺麗だということを、どう説明すればいい? 綺麗な水で育ったホタルは身体が大きく、光も強い、と説明したら、ホタルの光が綺麗だということの説明になるだろうか?
今作も、同じ状況下に放り込まれた二人がいかに互いを信頼するか、心を開く一瞬の出来事が、巧みに書かれている、とひとまず書くことはできる(この、ひとまず書くことはできるということは、今作に限らず、私が感想を書いてきた作品のすべてに言えると思うし、そういう風にして、私は感想を書いてきた)。
けれど、そうすることに意味はあるのだろうか、と私はよく考える。
作品はまず具体性としてある。具体的な、形ある何か、が作品なのだ。綺麗だったり、醜かったり、吐き気を催したり、背筋がムズムズしたりするものたち。
繰り返しになるが、作品が綺麗(きたない・たのしい・ほこりっぽい)だということをどう説明すればいい?
作品に話を戻そう。
今作はそういった具体性を確かに積み上げていっている。すれ違う瞬間の心が通い合った一瞬を描いているから、この作品が爽やかなのではない。日曜日の光や、語り手の世界への信頼感・諦念、細道という隘路。
言葉と、言葉に付随する多くのイメージ、書かれたことと、書かれていないことのバランスの上で、作品は成り立っている。そんなことを考えさせられる作品だった。
28、「あわいの日々」原里実
「わたし」と「あなた」の境界が別たれる前。
その間隙が曖昧な、あわいの日々。
水はいかなる隙間も、そこに空間があるならば入り込む。はじめ、「わたし」と「あなた」をへだてていたものも、水だった。
”湿り気を帯びた、あんたの手のひらがわたしを押し返す。”
その隙間には、やはり、かすかな水が入り込んでいる。
「わたし」は「あなた」との間に、”どうと押し寄せてき”たものになすすべなくうずくまる。けれど、「わたし」は「あなた」の経験を通して、オアシスへ続く道のあることを知る。
そして、「わたし」の水は乳房を通り、「あなた」の口元へ運ばれる。
あわいは間、泡ではないのだけれど、そう読んでしまった。
29、「雪と薔薇」黒塚多聞
「朝になるまで」ということは夜明けだろうか。もっとも寒さが深まる時間に「生きるか死ぬか」脳裏には走馬灯が連想される。そして「白雪」という言葉の持つ、新しさのイメージが重なり、歌集の一番手に相応しい一首と思う。追憶という始まりの形。
雪と対比させた「砂漠」、そして「花」(これも白くイメージされる)
「探すんだ」という結びの言葉の持つ奥行きに期待感が高まった。
対の色彩。世界の果てと彼岸。物語なき日常は永遠、と私は思う。
「彼岸で散った夢の群青」繰り返されたモチーフ、夜明け・終末・無情、それらは結実する先を見つけられず、最後に「散」っていくというイメージの残響が、作品をかすかに震わせているように感じられた。
30、「エマ・グレイグ夫人なる人物について」
書簡体小説。五つの手紙が小説を構成している。ただ、不審に思ったのは、五つの手紙が同じ内容を繰り返してしまっている点だ。もちろん、最後の手紙で ”ネタバラシ” はあるのだが、手紙ごとの文体が変化に乏しいように感じられて、物足りなかった。
何故、似たような内容の手紙ばかり集められたのか、それを説明する材料は作中にちりばめられているはずだ(次元の魔女は、自分が存在した証拠を改竄・隠蔽・削除する癖がある)
しかし、そのことが読者には真に迫ってこない、気がする。今作は五つの手紙から成っていて、ということは、エマ・グレイグ夫人に関する手紙を蒐集した人物がいる、と想像することができる。エマとその人物(つまり作品の位相)があまりに近いため、落差が生じず、どこかのっぺりしてしまっているのではないか、というのが私の拙い考えだ。
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