短編 「水の記憶」
1
「結界ごと斬れる業物ってある?」
と半年ぶりに顔を見せた妹は、口にした。
「それ、大業物だからね」
店の商品を物色していた彼女は、淡々とこちらを向いた。
「あるの?」
ない訳ないでしょう、と思ったが口にはしなかった。第一、千年から続く我が家の蔵に何があって、何がないのか、帳簿係の私ですら把握していないのだ。ひょっとして神代の刀が出てきても不思議じゃない。
「何に使うの?」
「うーん、仕事?」
「いや、仕事以外に使う用途ないでしょう。というか結界っていったら、この辺りに一つしかないし」
ちょうど八年前、私たち姉妹が十四歳の時だった。当時、私たちが暮らしていた村はダムの建設予定地とされ、水の中へと沈んだ。建設工事は難航を極め、ついに一人の人柱を立てることによって、難工事を乗り切ったのだけど……。
「そこまで分かってるなら、早く出してよ。業物」
まゆらは、私を睨み付けるように見つめた。
「あんた、まだこだわってるの?」
「約束だからね。なーちゃんを助けるまで、やめるつもりはないよ」
なーちゃん、瀬野なつめ。代々、村長を務めてきた瀬野家の一人娘であり、宣託を告げる巫女の一族の末裔だった。といっても、その力は失われて久しく、彼女の力も単に先祖返りの一つでしかなかった。あの時、選ばれたのは……ううん、彼女が自ら人柱になると身を捧げたのは、偶然ではなく必然だった。もしなーちゃんが犠牲にならなければ、選ばれていたのは妹のまゆらだった。
「で、あるの?」
妹が淡々と私に尋ねる。私が断れないのを知っていて、それでも、聞くのだ。姉さんはどっちの味方なの、と。
力を持たない私は、あの時、何もしてあげられなかった。いや、今も同じだ。こうして蔵の品々を利用した骨董品店の店番をしているのも、私に力がないからに他ならない。店に来る客はごく稀で、本業は海外を飛び回る父と妹がこなしている、
「一つだけ心当りがある。鎌倉初期の作だけど」
「人、斬ってたりする?」
「多分ね。というか絶対」
2
八年という月日はどれだけの遠さだろう。
あの村を離れて、世の中は変わったし、私も変わった。都会の高いビル、乾いた空気、人混みにももう慣れた。外国を旅する機会も増えて、北国の重たい風や、大陸のあっけらかんとした晴空を越えて、私は再び、あの時、あの場所へと戻ることができるのだろうか。
この八年間、父の後について仕事をこなした。時間を見つけては日本へ帰り、この時の準備を進めてきたのだ。
なーちゃんに代わる結界を立て、まじないをして、それをやり遂げるのに八年。
なーちゃんの作り上げた結界の中が、どんな風に変化しているか分からない。彼女の不安を象徴したようなおぞましい世界になっているか、ダムの底というイメージを反映した世界になっているのかは、実際に行ってみないと分からないけれど、あり得るのは全てのことだ。この力で結界を斬り開き、中へ入るまでは。
車は暗い山道を抜けて、少し開けた場所に停車する。
「姉さん、送ってくれてありがと」
私は返事を聞く前に車から降りた。
あの日から、世界に存在する全ての喜びがなくなってしまったみたいだった。見上げるのは空ばかりで、星に手が届くことを夢見て、今日まで続けてきた。双子の私たちとなーちゃんは産まれた時から、ずっと一緒だったのだ。
今も思い出すのは、なーちゃんの胸に抱かれた時の匂い。なーちゃんが村と共に沈んだ時、私は今までずっと、あの香りに包まれていたのだと知った。
あの懐かしい日々を、私は取り戻す。
ダムを、ちょうど半分まで歩いてくると、排水を始めるため、水門が開いた。
湖の水は渦を巻いて、ゆっくりと丸く落ちくぼんでいく。暗い洞がぽっかりと口を開け、吸い上げられる水の円が一定になった所で、私は刀を抜いた。
水門に対し、身体を半身に構え、切っ先から腕までの全てを一直線にして、静かに刀を下ろした。
刀が足元まで来た時、空間に切れ目が入り、中と外の圧力の差で現実が裂け始める。このまま放っておくと、裂け目は際限なく広がり続けるので、呪符を投げ、結界への入口を固定する。
「さあ、仕事だ」
私は中へ一歩踏み出した。
3
長い夢を見ていた。
今なら夢と気付くこともできるけれど、それはやけに優しく、穏やかで、私は私を包む水に溺れていた。
あの日から思い出が私の世界の全てになった。初めは自分の身体の周りのものだけが、ぼんやりと白いもやの中に浮かんでいて、私が手を離すとそれらはもやに溶けて消えた。そうやって、色々なものを空想しては手離して、私は無聊を慰めた。
周りが暗くなり、そして、もう一度明るくなると一日が過ぎたのだと分かった。
眠ることのない私の周りには、うっすらと家ができ始めていた。まず畳敷きの慣れ親しんだ自室。次に、それと廊下を隔てるふすまが白く輝きを放ち、甘やかな年古りた木の香りが漂った。欄間から、大きな龍が私を見下ろしていた。
私はもやの中に立ちのぼったそれらに、感傷めいたものを感じた。ひどく懐かしく、私は包まれて満ち足りた気分になった。胸をしめつけるものがなかったといえば、嘘になるけれど、それも長くは続かず、私は安心だけを受け取り、日々を過ごした。
そして、家の次には庭ができた。祖父母が大切に育てた野菜たちは、夏の日差しの中のように輝き、鮮やかに色づいた。庭から続く道は徐々に伸びていき、美しいあぜ道を形作った。田畑の背後には里山が立ち上り、そこから狸や狐、小鳥たちが畑へ下りてくるようになった。川には魚が泳いだ。
気付けば、村は元通りの姿を取り戻し、人影さえ見えるようになった。亀田のおじさんや果歩ちゃん、美味しい梅干を漬けてくれる千代バア。みんな元気で笑顔で、私はその顔を見るだけでうれしくなった。
けれど、いつまで待っても、会えない二人がいた。
蔵屋敷のはづきとまゆら。
「……」
二人に会いたいな、とぼんやり考え込む日が多くなるにつれ、家へと訪ねてきてくれる人も増えた。私を心配してか、みんな沢山の食べ物を持って、会いに来てくれた。けれど、ぽっかりとあいた穴は、気にしないように注意すればするほど、気掛かりになっていた。
「……!」
ぼんやりする陽が増えた。気が付けば、一日が終わっていることも少なくない。周りがすっかり暗くなってから、はっとして、みんなが持ってきてくれたご飯を食べる。
「……ちゃん!」
声が……。
「……ーちゃん!」
今日も二人は会いに来てくれない。私の方から会いに行く、というとみんなが私を引き留めた。
「なーちゃん」
眩しいなあ。そう思ったら、背景が溶けて、白いもやに戻っていた。
あれ?
「なーちゃん!」
振り返ると、そこには光が溢れていて、くぐもった水の音を通じて、私へと手が差し伸べられた。
4
妹は幼い頃、よくべそをかきながら、家に帰ってきた。遅くまで力を制御する稽古をつけてもらいに、なーちゃんの所へ通っていたからだ。
と、そんなことを思い出すのは、やはり私が無力だからに他ならない。
ダムの中央で開いていた結界の入口が、徐々に狭まっていた。中へ声をかけても返事はなく、私はここで立ち竦むしかない。自分の無力さを思うと、情けなく涙が溢れた。
「人の血の臭いで目覚めたんだ」
白いもやの世界は、人斬りの刀から滴る血の臭いに揺らいでいた。ここはダムを治めるための結界などではなく、その本来の目的はダム湖へと移った龍神を封じ込めるためのものだったのだ。
「なーちゃん、急ごう」
まゆらがナツメの手を引く。けれど、なつめは動こうとしなかった。
「なーちゃん!?」
「ごめんね、まゆら。私、ほっとけない」
もやの世界にひびが入り、向こう側の精霊の姿が見え始める。
なつめはまゆらの手を離し、龍神の元へ向かっていく。
「行かないで、なーちゃん!」
まゆらが手を伸ばす。けれど届かず、まゆらは伸ばした手をぐっと握り締めた。彼女は唇を噛み、両の目で龍神を見据えた。下段に構えた刀を強く握り直した時、声がした。
「詰めが甘いよ、まゆら」
りん、と鈴の音が鳴り、地響きが止まる。
「なーちゃん、もう大丈夫。こちらへ戻っておいで」
低い大人の男の声。なつめは振り返ると、うれしそうに顔を綻ばせた。
「もうお役目はおしまいだ。みんなで帰ろう」
異変に気付いた龍神が、うろこの頭を持ち上げ、振り下ろす。
が、その一撃が結界へ加えられる直前、もう一度、鈴の音が鳴る。
「私の妻と子供たちを返してもらうよ」
なつめとまゆらの二人は、目の前に開いた裂け目へと飛び込んだ。
「なーちゃん! まゆら!」
はづきは、結界から飛び出してきた二人に抱き付き、わっとため込んでいた涙を溢れさせた。
なつめは姉妹二人をまるごと抱きしめ破顔して、泣きそうになった。一方、まゆらはというと私の方を見て、すっかり不機嫌な様子だった。
「何で、お父さんがいるの?」
と視線で訴えているが、私は答えない。それよりも
「なつめ、ごくろうさま。八年間、よく待っていてくれたよ」
私の声に、はづきまでがこちらを向いた。
「あなたこそ、お疲れさま。これだけの結界を作るのは大変だったでしょう?」
なつめの言葉に、すかさず、まゆらが割り込んで、
「私一人でやったんだよ」
と成人済みの大人が子供みたいな声を出す。
まったくと呆れながら、全員が無事でよかった、と胸をなでおろした時、山頂から風が降りてきた。烈風は、龍の鳴き声のような音を立て、私たちの側を通り抜けていく。
私たちは四人で顔を見合わせ、そして、笑い合う。
「おかえり、なーちゃん」
みんなの声が重なった。
※セルバンテスに投稿したものの再掲です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?