秒間で面白い小説という矛盾

 ネットの普及によって作品の発表の仕方も、受容の仕方もかなり変化してきました。

 少し前なら2000文字~5000文字の日刊連載の小説など想像も出来なかったでしょうし、ツイッターで描かれるような4P漫画というのも、出版の常識には合致しなかったでしょう。

 そして、今、作品に求められる面白さも少しずつ変化しています。

 従来、小説においては、一冊分の文章の束を買ってもらうだけの面白さ、あるいは面白さへの期待があれば十分でしたが、細切れの文章を投稿するにあたって、最も最適化した面白さとは、次のページを読みたいと思わせるだけの面白さを2000~5000文字の内に詰め込むことです。

 漫画ではそういった技術が昔からあるようで、ページの最後のコマ、次のページに行く際に引きを作ることを「めくり」というそうです。

 今のネット小説に求められているのも、そういった類の面白さなのでしょう。次が気になるように作る、とは多くの初心者指南で言われることですが、その次とは、次の文章なのか、次の段落なのか、あるいは次の作品なのか。

 勿論、理想はそれら全ての次へ繋がる面白さですが、大言壮語しても始まりません。

 そして何より、ぼくが注目したいのが、小説のひと塊としての力です。

 この間「侍女の物語」を読んで、認識を新たにしましたが、小説の面白さというのは、凝縮された経験の追体験だと思います。小説というのは変わった媒体で、現在形の物事を上手く語る言葉を持ちません。小説が得意なことは、遠く離れた事象を描くこと、つまり過去と心情です。

 過去と心情に比重を置いた小説が、読者へ要求するのは、語り手への同一化です。過去から現在へ連綿と続く備忘録という形をとり、どうして語り手である私がこのように感じるようになったのか、を語る小説は、読者を自らのフィールドに引きずり込む。

 そのようにして、小説はリアリティを獲得するのです。

 ですが、上に書いたように、ネット小説の文字数は少ない。

 ぼくが考えるテーマはこれです。

 ひと塊の小説の力を、細切れの日刊連載でどのように再現するのか。

 ぼくにとってのネット小説はこれに尽きます。

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