短編 「セクス・エクス・マキナ」
1
「え、セクサロイドを受け取る?」
果歩の大声に、私は思わず、果歩の口を押え、ちょっと! と叫んでいた。
光にあふれたカフェは、平日の午前中ということもあって、人影はまばらだった。窓際に座った私と果歩の他には、小さな子ども連れのママさんたちと、一人でキーボードを叩くサラリーマンがいるだけで、カフェの中はいたって静かだった。時折、子どもたちがはしゃぐ声が聞こえ、母親たちがそれを叱る。
私は周りを見渡して、果歩に顔を寄せ、さっきより小さい声を出した。幸い、私たちの会話を聞いている人はいないみたいだった。
「声が大きいよ。それに、セクサロイドじゃなくて、介護用アンドロイド!」
「あ、ごめん、ごめん。でも、それって純のお父さんのなんでしょ? 大丈夫なの?」
大丈夫なの、という言葉に私は顔をしかめる。いや、正確には、そこに込められた意味に。
「一応、あれが必要なんだよ。お父さんが死んだあとのこと、全部、あの中に入ってるみたいでさ、今も、面倒なことはやってもらってる状態……」
私の苦い顔につられてか、果歩も顔を歪めて、うんうん、と頷いてくれる。
「それに、あったら、便利かなっていう打算もないわけじゃないし」
「純、家事とかしないもんね」
んー、と喉の奥でうなった。父の遺品として、あのアンドロイドを相続するという決断も、私なりに考え抜いて出した結論だったのだ。とはいえ、苦いものがないわけではなく、むしろ、苦渋の決断といっても過言ではなくて、私の胸の中はいまだ、もやもやしているのだった。
そして、今日はアンドロイドの受け取り日。この胸のつっかえを、果歩に打ち明けたくて、今日の約束を取り付けたのだけど……。
「でもま、仕方ないのかもね。こういうことは慣れるしかないよ」
と達観した物言いで、私のもやもやは一刀両断されてしまったのだ。
「どうせ、今だって家事代行のアンドロイドを頼んでいるんだし、その経費が軽くなると思えば、父親のあれだって、我慢しないと」
分かってる、分かっているのだ。例え、父が所有していたアンドロイドだとしても、こうすることが私の生活に対して、一番合理的だということは、考え抜いた私がいっちばん分かっているのだ。だけど……という所に問題があって、私はその合理的選択を、受け止められないでいる。出来ることなら、処分して、身軽になりたいのだけど、あまりにお金がかかりすぎる。当然、そんな予算は私にはないのであって……溜め息。
「だけど、純。少しくらい相談してくれてもいいのよ?」
「え? 相談してるじゃん」
「そうじゃなくて。お父さんが死んだって、私、今日ここに来て、初めて知ったくらいだよ? 話しづらいことだろうけどさ、友だちとして、もう少し信用してよ」
果歩の友情には感謝してます、本当に。でも、そういうさりげなさが、私には一番むずかしいんだよ。
父の死の報せを聞いた時、驚かなかったといえば嘘になるけれど、納得する気持ちが妙に強かった。
私のお母さんとお父さんは、私が物心つく前に離婚して、以来、父とは両手で数えるくらいしかあったことがなかった。私の人生が二時間の映画になるとして、きっと父は私が産まれるシーンの、ワンカットくらいにしか登場しないだろう。しかも、お母さんの脇に、本当に小さく、画面に映るくらいの。
だから、というと少し変かもしれないけど、父はいなくなるべくして、いなくなったんだと思った。いや、もしかすると、私の中では既にいなくなっていたのかもしれない。
父が亡くなったという事実が、私の現実に追いついたことで、それまであった齟齬が解消し、私はかえって安心するような、ひどい娘であったとさ。
「着いたよ。ここが、私の家」
振り返ると、身体を傾けながら、角の尖った、大きなトランクケースを持ち、アンドロイドが立っていた。
「大きな建物ですね。これほど広いと掃除も大変そうです」
ん? ちと、違和感。
「マンションだからね?」
「はい、分かっております。冗談です。一般論として、広いと掃除が大変だ、ということと、私がこれから純さんのお部屋にお世話になり、その家事を代行することを取り違えるというジョークです」
しばし、脳の機能が停止する。もちろん、これはアンドロイドを前にした人間の困惑を表現する比喩だ。
深い溜め息が、胸の奥から漏れた。額に手を当てて、眉間に寄った将来への不安をもみほぐす。
「頭痛ですか?」
アンドロイドの端正な声は、思いがけず、私の心を抉る。
「ううん、平気。とりあえず、家に上がろうか。これから、よろしくね」
早口に言った言葉の数々は、ぶっきらぼうに見えたかもしれない。心にもないことを言う自分が、ちくちくして、むずがゆい。こういう時、私は私のことが嫌いだ。
「そういえば、アンドロイドさんって、お名前あるんです? 何て、呼んだらいいですか?」
なるべく、愛想のいい笑顔を心掛ける。マンションのエレベーターを待つ間、ふとアンドロイドの顔を覗くと、その顔は無表情で、私を見つめていた。
「名は、浩介さんから頂きました。安藤、と申します」
思わず、お父さんと声が漏れる所だった。アンドロイドだから安藤。あまりに安直すぎる……。
呆れていると、ティンと音が鳴り、エレベーターが到着した。
私が先に乗り込むと、安藤さんがぼーっと立ったまま、私を見ていた。
「乗らないんですか?」
「加藤純さん、私はあなたを何とお呼びすればよろしいでしょうか」
安藤さんの視線が、私に刺さる。それは、私との友好を結びたがっている瞳だった。私は身を避けるようにして、
「安藤さん、エレベーター、乗ってください」
と微笑みかけた。
安藤さんは、アンドロイドらしく無表情で、私の言葉に従い、箱の右奥、私と対角線上の場所に立った。
「私のこと、好きに読んでください。何でもいいですよ」
なるべく、機嫌のいい声を心掛けた。
「純ちゃん」
安藤さんの声に反応して、右手がぴくりと動いた。
「何ですか~?」
「純ちゃん、とお呼びしますね」
笑みを浮かべ、振り返ると、なぜか安藤さんはうれしそうに笑っていた。
「純ちゃん」
と父は、私をそう呼んだ。
道端を歩いていた時、年配のサラリーマンと若いOLさんが、何とかさん、何とかちゃんと呼び合っていたのを見て、中学生だった私は、二人の社会人が私たちに似ているな、なんて思ったりした。
私が十三歳で、中学校に入学したばかりの頃、私は袖の余った制服で、いつものように、父と待ち合わせしていた。
場所は、かつて父が勤めていた会社のすぐ近くにある喫茶店。父がブレンドコーヒーを飲み、私はコーヒーゼリーを食べて、一時間ぐらいでまた別れる。
父はお母さんには不釣合な、よくいるおじさんで、二人はどこで知り合ったのだろう、と私はずっと不思議に思っていた。バリバリのキャリアウーマンのお母さんと、お腹がたるんで、くたびれた中年男性の父。お母さんは絶対に、父に関することを話そうとしないから、私はこうして、本当にたまに父と会う機会に、少しずつ、質問をしていた。
例えば、
「二人はいつからの付き合いなの?」
とか、
「二人はいつ結婚したの?」
ということ。質問するたび、父は困った顔で笑っていた。
あの日、私は思春期で、人並みの悩みを抱えていた。自分が何だかとっても軽い存在で、透明なような気がして、つい、こんなことを言ってしまったのだ。
「二人は、デキちゃった結婚なの?」
多分、父に言うから、遠回りな言い方になっただけで、母に言うつもりだったら、きっと、私なんか産まなきゃよかったのにね、って言っていたと思う。
仕事、仕事と、家にいない母。お金だけは稼いでいたみたいで、大きなマンションには、家政婦さんが通いで来てくれた。料理も、掃除も洗濯も、全部、家政婦さんがしてくれて、だから、今も私は家事ができない。
いや、そんなことはどうでもよくて、あの時の私が言いたかったのは、お母さんは私のことなんて愛してないんじゃないの、って。
そして、それは私のことを大切に思ってくれているんだか、分からない父も一緒で、つまり、私は望まない妊娠から生まれた子どもだったんじゃないかな、ということ。
「それは違うよ」
父は、そう言った時、一度も見たことのないような顔をして、低く、包み込むような声で、私をやさしく諭した。多分、私が本当に言いたいことを分かっていたんだろう。どうして、分かったのかは、今となっては知りようもないけれど、それが親というものだと言われたら、私は両手を上げて、降参するしかない。
「梓さんは、純ちゃんのことを、本当によく考えて、出産したんだよ。梓さんは、一から十、ううん、百まで考えに考え抜いて、それで純ちゃんを産むことに決めたんだ」
私は、父の真剣な声に、理屈もなく納得して、ちょっとうれしくて、ちょっとお母さんが誇らしい気持ちで、コーヒーゼリーの残りをすくった。コーヒーの苦い香りが、私に一つのひらめきを置いていき、私はそれを深い考えもなく、口にした。。
「お父さんも、そう?」
ちょっと間があって、父が答えた。
「うん。ぼくも梓さんと一緒に、考えたよ」
中学生の私は気付かなかった。もしかすると、お母さんの考えの中で、父はいらない存在だと思われたんじゃないかって。
父の悲しそうな顔を思い出すたび、私の脳裏には、そんな考えがよぎる。
2
朝、安藤さんに起こされて、寝室から出ると、食卓(とは名ばかりの、布団を剥いだこたつ)の上には、ごはんとみそ汁が用意されていた。
「これ、作ったんですか?」
「はい、これから毎朝、ご用意させていただきます」
味にご不満があれば、おっしゃってくださいね、と安藤さんは続けた。お好みの味を覚えていきますから、ということだった。
「おかずは、ないの?」
「浩介さんが、そうご所望でしたから。必要ならば、明日からは一汁一菜でも、零汁五菜でも作ってさし上げます」
「うん、いや、いいです。朝ご飯はいらないし」
「朝は、召し上がらないのですか?」
「だから、作らなくていいですよ」
安藤さんは困ったように眉を寄せた。
「困りました。生活習慣の改善も、私の務めなのですが」
「私、これでも健康優良児でしたよ」
アンドロイドの安藤さんは、人間らしく、呆れた溜め息を吐いた。
私は、その人間臭さにちょっと不気味さを感じながら、
「それじゃあ、夜を豪華にしてください。そしたら、私も食べられるので」
「純ちゃんは、朝が苦手なのですね。記憶しました」
純ちゃん、か。
「あ、安藤さん、今日、用事あるの忘れてました。私、すぐ出ないと」
何故だか分からないけど、安藤さんが来て、家の居心地が悪くなった。まだ、慣れてないってことなのかな?
「ごめん、果歩。こんな朝早くから」
私は、安藤さんから逃げ出し、果歩の部屋に来ていた。
「いや、頼ってくれるのは別にいいけどさ」
来る途中、コンビニで買って、献上したワンカップを開け、果歩は一口、傾けた。
「初日から、そんな調子で平気なの?」
姿勢の悪い私は、こんな時もつい猫背になる。
「ダメかもしれない。私、安藤さんのこと、嫌いだ」
「純が、人のこと嫌いになるなんて、珍しいね」
「だって、あれ、人じゃないし」
「ああ、アンドロイドだっけ」
「絶対、お父さんに変なこと、吹き込まれてるよ」
「例えば?」
「例えば……入浴剤は炭酸の出るやつとか、靴は左から履くとか、切った足の爪の臭い嗅ぐとか」
えっ、と果歩が引く。
「何それ。純のお父さん、そんなことするの?」
「知らない。私、お父さんと一緒に暮らしたことないもん」
果歩が、ワンカップをテーブルに置くと、ことんという音がした。え、もう中身空っぽじゃん。
「純は今、不安になってるんだよ。他人と一緒に暮らしたことがないからさ。でも、大したことないよ。同居人の奇行なんて」
「さすが、ヒモを養ってた果歩さんは、説得力が違う」
「ふざけないで聞いて。一月も暮らしたら、慣れるから」
「本当?」
「ホント」
「じゃあ、果歩のこと信じる」
じゃ、私、二度寝するから、と果歩は布団をかぶって、ダンゴムシのように丸まった。
朝早く(そんな早くないけど)いつも起きないような時間に、安藤さんに起こされたから、果歩の安らかな寝姿を見たら、あくびが出た。
手頃なピンクのクッションを枕にして、私も横になる。確か、このクッションは果歩の二つ前の彼からのプレゼントだったかな、と考えていると、意識が途切れ、いつの間にか眠っていた。
チャイムが鳴っていた。果歩がベッドから立ち上がり、インターフォンに向かって行く気配がしたので、私は再び、睡魔に身を委ねる。
「純、起きて」
喉の奥で、うーん、と返事する。
「純!」
「何~?」
「迎えが来たよ」
迎え?
まぶたを擦り、身体を起こすと、果歩が顎でインターフォンのディスプレイを差した。
「純ちゃん、お迎えに上がりました」
そこに映っていたのは、安藤さんだった。
「とりあえず、鍵開けるので、上がってきてください」
と、果歩がディスプレイを操作した。映っていた安藤さんの映像が消える。
「果歩、今何時?」
果歩は両肩をすくめ、私の質問を受け流した。
「確かに、あの人相手じゃ、純も苦労するかもね」
「だから、あの人じゃなくて、アンドロイド!」
がちゃり、と音がして、果歩の部屋の扉が開いた。
「純ちゃん、いらっしゃいますか?」
「安藤さん、入ってきていいよ」
咄嗟に、果歩を睨み付ける。果歩は意地悪そうに笑っていた。
「純ちゃん、怒っていますか?」
部屋に入ってきて早々、安藤さんが私を見て言った。
「怒ってないです」
「ですが……」
「安藤さん、何しに来たんですか?」
安藤さんは、こほんと咳払いした。
「お迎えに上がりました」
「だから、何で?」
「それは、純ちゃんが大学の講義をサボったからです。それに夜道は危険ですし」
後ろで聞いていた果歩が、ぷっと吹き出した。
「果歩~!」
あはは、と果歩が声を上げて笑い出す。
「純が言うほど、安藤さんも悪い人じゃなさそうじゃん」
「私が悪い人だと、純ちゃんが言ったのですか?」
私は果歩の背中を思いっきり叩いて、安藤さんを玄関へ押していく。
「変な所に反応しなくていいですから」
「ですが、純ちゃんが私について話してくださったのなら、今後のために、把握しておきたいです」
「安藤さん来て、まだ二日だから。焦らなくていいから」
後ろの方で、また私を笑う声が聞こえた。
「これから、段々慣れていけばいいよ」
安藤さんが、ぴたりと立ち止まる。
「純ちゃん、今、敬語ではなかったですね」
私の脳も、動きを止める。
「果歩さん、お邪魔しました」
ぺこりと頭を下げる安藤さん。顔を上げた時、彼女は微笑みを浮かべていた。
うれしそうにされても、私はちっとも楽しくないぞー!
3
「ただいま」
空っぽの部屋に言うのが当たり前だった。
「おかえりなさい」
でも、安藤さんが迎えてくれるのにも、もう慣れた。今日の安藤さんは、コンセントの近くに正座して、ちょうど充電している所みたいだ。
「安藤さん、ただいま」
「夕ご飯は、もう少し待っていてください。あと三十分ほどで、チャージ完了しますので」
夕影の差し込む部屋、安藤さんの影が大きく天井にまで伸びる。もうすっかり、安藤さんもこの家に馴染んだみたいだった。家事をこなして、暇なのか、私が帰ると時折、安藤さんは昼寝をしていることがある。
長い髪を結ばずに眠るので、安藤さんはまるで死んだ人間みたいに見える。髪を身体の下敷きにして、起き上がった時、痛っと小さく呟く。アンドロイドに痛覚があるのかは、、知らないけれど。
「今日、メールが届いていましたよ。読み上げますか?」
「メール? 誰から?」
「加藤梓さまからです」
ああ、と心で得心する。もうそんな時期か、とも。
「待ち合わせの場所と時間は?」
「駅前の喫茶店、土曜日の正午です。お昼を済ませてこないように、ともあります」
いつもの場所、いつもの時間、そしていつもの文面。変わらないな、と思う。必要最低限のことだけ書いて、だけど、決して全てを話すわけではない口調。お昼は済ませないように、じゃなくて、一緒にご飯を食べよう、と言えばいいのに。
「分かった。ありがとう、安藤さん」
「あの、これはお伝えしていいのか、悩みましたが、お話しすることに決めました」
安藤さんの顔が、夕暮れの暗い影に隠れる。
「何の話?」
「梓さまの伝言ですが、メールではなく、本当は純ちゃんが出かけたすぐ後に、直接、こちらにお見えになって、おっしゃられました」
「お母さんが、ここに?」
「はい」
「きっと、近くに来ていたんだよ」
私はやさしく諭すようにして、安藤さんの懸念を拭い去る。私のお母さんについて何も知らない安藤さんは、これで何も言えなくなるはずだ。
これは、お母さんと私の話。安藤さんには関係ない。
失くしてしまったキーホルダーがある。
父が、一度だけ連れて行ってくれた水族館で、かわいいピンクのイルカのキーホルダーを買ってもらった。本当は、ペンギンのぬいぐるみが欲しくて、だけど、言い出せなくて、私はすぐ近くにあった、そのキーホルダーを指差した。
「高いのでも、大丈夫だよ」
父は、委縮している私を見かねてか、そう言ってくれたけれど、幼い私は頑なに首を振るだけで、欲しくもないイルカを欲しがった。
父の、がっかりした顔を覚えている。
きっと、父も私に何か大きなものを買い与えたかったに違いない。一年に一度、会えるかどうかの娘に、思い出になるものを。
私は、父と会うたび、お母さんの話を食い違う、二つの影におびえていた。お母さんの話の中で、父はおとぎ話の恐ろしい魔王のようであった。周りのみんなを苦しめて、それでも自分だけはのうのうと笑い、暮らしている。
一方で、私の目の前に立つ父は、いつもやさしく、優柔不断で、気が弱く、例えお酒が入ったとしても、誰かを傷付けることなんてないだろうと思った。
私は、そんな父の仮面がいつ剥がれ落ちるのか、と不安だった。今、私に見せている笑顔は偽物で、油断した私を取って食うつもりなんじゃないかって。
母は、父に私を預けると逃げるように、仕事へ行ってしまったし、そうして送り迎えをしてくれたのも、初めの一、二回ほどで、あとはお小遣いをくれて、待ち合わせの喫茶店に行くように言うだけだった。
お母さんは、私を父に食べさせようとしているのかもしれない、と幼い私は本当に震えた。それは拙い、子どもの妄想だったのだけれど、今もわずかに残る、心の傷跡に私はまだおびえることがある。
二人が夫婦であり、私の両親であるということに、私は最後まで慣れることがなかった。父と母は私の前で面と向かって、言葉を交わすことはなかったし、隣に並んで立つということも極力避けていた。
二人の人生の交点に、私がたった一人、立っていること。それが不思議でたまらなかった。
水族館へ行った日の帰り、駅で父と別れ、わびしい夕暮れの中を、私は一人で歩いていた。
多分、あの時の私は怒っていたのだと思う。父の煮え切らない態度と母の心ない言葉の数々に、私は心底うんざりして、そして、それに振り回される自分に、どうしようもない苛立ちを覚えていた。
道が川に差し掛かった時、私は橋の上から、きらきらと光る水面を見ていた。夕陽を反射して、痛いくらいに眩しい夕焼けに、私は舌打ちして、父が買ってくれたキーホルダーを投げ捨てた。
キーホルダーは光の波間に音もなく、消えていった。
私はそれでいいんだ、と思った。
二年後に父と会った時、父の携帯電話にはお揃いのキーホルダーが付いていた。私はそれを見ても、何とも思わなかった。むしろ、いやらしいと嫌悪さえした。お母さんに内緒で買った、娘とお揃いのキーホルダーを嬉々として付けている父を、私は嫌ったのだ。こそこそとした態度や、母をのけ者にする卑しさを。
そんな私の幼い心の潔癖さは変わらず、今もあり、自分が大嫌いな理由の一つでもある。
4
駅前商店街の、ジャズ喫茶は母のお気に入りだった。仕事が趣味と言わんばかりのキャリアウーマンの母の、唯一と言っていい趣味が、古いレコードを集めることだった。私にとっては、退屈もいい所なので、詳しい話は知らないし、お母さんから話をされたこともない。
ただ、私と待ち合わせをする時は、必ず約束の時間より早く来て、喫茶店で音楽を聴いているみたいだ。テーブルに置かれた伝票は決まって、二枚あって、私が着く頃に飲んでいるコーヒーは、恐らく二杯目。
「おまたせ」
声をかけると、母は顔を上げて、私を見た。無表情で氷のように冷たい顔が、ぱっとほどけて、母親の顔になった。
私は席に座る振りをして、顔を背ける。
「久しぶり、純」
約一か月ぶりの再会。一人暮らしをする時の条件として、月に一度、会う約束をした。今日がその日だ。
「ちゃんとご飯は食べてる? 大学の方は順調?」
当たり障りのない言葉の応酬。変わらない、普通だよ、大丈夫。私は大丈夫? と聞かれて、大丈夫じゃないと答えられるほど、強くない。だから、返す言葉も壁を作るみたいになってしまう。
「あのアンドロイド」
「――大丈夫だって、ママ。ちゃんと働いてくれてる」
私はウェイターを呼んで、コーヒーを注文する。母は軽食でも食べるつもりだったんだろうけど、私は今、そんな気分じゃない。
「お金がないのなら、ママが出すから。あんなの捨てて、新しいのを買ったら?」
私は恐ろしい気持ちを抑えつけて、お母さんの顔を見る。予想通り、ママは母親の顔なんてしておらず、きっと父に離婚を突きつけた時と同じ顔をしていた。
私の潔癖な部分が、そういった母のいやらしく、傲慢で、私の母としての役割を投げ捨てた姿を、嫌悪し、拒絶する。
「聞いたよ。家に来たんだって? どうして? そんなにお父さんのことが嫌いなの? どうして、私にあのアンドロイドを捨てさせたいの? 私は、お父さんとお母さんの子どもでしょう? 私、二人から色々なもの、受け取っちゃダメなの?」
うろたえてくれると思った。だけど、
「分かった」
お母さんはそう言って、至って冷静な顔で、続けた。
「ごめんね。ママばかり勝手なこと言って。そんなに嫌なら、ママはもう純の生活のこと、とやかく言わないから。とにかく、ごめんなさい」
母は、そうやって私の中の疑問の数々を不問にした。
「そ、そうじゃなくて」
「――純も、もう大人だもんね」
私は歯噛みする。母は分かって、やっているのだ。私の質問から身をかわすために。
「ママは、私にどうしてほしいの」
母は、なんてことない顔で答えた。
「ママは、純が幸せなら、それでいいのよ」
母と別れ、マンションに帰ると、安藤さんは眠っていた。リビングのソファで横になり、昼寝をしている。
人らしく振る舞うように設計された、安藤さんたち、介護用アンドロイドは必要がないにも関わらず、人が呼吸するように、胸が上下する。さらに言えば、食事もとるし、排泄もする。さすがに髪までは伸びないけれど、排泄器があるように、生殖器も使用できるよう設計されている。
すぅすぅ、と穏やかな寝息が部屋を満たした。安藤さんは安心しきっているのか、防犯用のセンサーまで切って、本当に無防備に眠っている。
キッチンには律儀にも、お昼ご飯が用意されていて、親子丼とおみそ汁がラップにくるまれて、置かれている。その上、コンロには鍋やフライパンがあり、晩ご飯の下準備まで終えてあるみたいだった。
「お昼、食べてくるって言ったはずなんだけどな」
けれど、お腹は空いていなかった。プレッシャーがかかり、緊張すると、すぐお腹周りに出るからだ。今も、胸が苦しくて、食べ物が喉を通る気がしない。
「ありがとう、安藤さん」
私はしばらく、安藤さんの寝顔を見ていた。規則正しく上下する胸や、正に作り物の、精巧な横顔はとても綺麗で、見ていて飽きなかった。
時計の針がちくたくと時を刻むような寝息を聞き、ゆっくりとそのリズムに、呼吸を合わせると、次第に温かな眠気が、私を包んでいった。
ぼんやりした頭で、私は、果歩に電話をしなくちゃ、と考える。
少し、聞きたいことがあったのだ。或いは、話したいことが。
でも、上手く話せるかは分からない。母と会った日には、必ずもやもやとしたものが胸の内に残る。私はいつも、それを果歩に相談したくて、たまらなかったのだけど、上手に話せないから、と我慢してきた。
今なら話せるかもしれない。父のアンドロイドを相続したことを話した後の、私と果歩の関係なら。
今なら、上手く伝えられるかもしれない。果歩なら分かってくれるような気がする。拙い私の言葉の組み合わせでも。
ふわ、と欠伸が漏れた。
携帯電話を操作して、着信履歴から、果歩の名前を呼び出す。
少し、発信を押すのに、勇気が要った。
「純? どうかした」
コール音のすぐ後に、果歩の明るい声がした。
「果歩、少し話したいことがあるんだけど、いいかな?」
「いいよ」
返事はすぐに、けれど、落ち着いた声で返ってきた。
「上手く話せないかもしれないし、果歩に伝わるかも分からないんだけど、それでも平気?」
「大丈夫、ちゃんと聞いてるから」
それに、と果歩は続ける。
「私だって同じだよ。純がちゃんと話せても、私が理解できないかもしれない。でも、それが当たり前だと思う。それでも、私は純の話、聞きたいよ」
私は、ぽつぽつと話し始めた。父と母の話を。
果歩とそれから、あり得ないくらい長電話した。三時間? くらい。多分、もっとかもしれない。
気付けば、私は眠っていて、枕元には電源の切れた携帯電話が転がっている。通話を切った覚えがないから、連絡が途切れたと言って、果歩は怒っているかもしれない。
身体を捻って、充電用のアダプターを探す。わずかずつ冴えていく頭の中で、私が果歩に何を語ったのかが、ゆっくりと甦ってきた。
高かった陽が傾いて、空をオレンジに染めながら、沈んでいく。東の果てから紫紺の幕が上がり、マジックアワーが通り過ぎていった。薔薇色の雲は西の地平線に消えて、明け透けな、真っ青な空が夜へと変わった。
私と果歩は話し続けた。存在の影と影がぴったりとくっついて、溶け合ってしまうくらい。
おもちゃ箱にむりやり片付けられた玩具みたいに、私の中で渋滞を起こし、凝り固まっていた言葉の多くが、果歩へと届けられ、ちょっとだけ綺麗に磨かれて、私の元へ投げ返された。
果歩は私の言葉を一つ一つ受け止めては、かぶっていた埃を払い、こびりついた余計な汚れを拭き上げて、私へ返してくれた。
少しずつ整理の付いていく、私の感情や記憶が、何だかとても新鮮なものに思えた。
果歩は、私のわがままに最後まで付き合ってくれたのだ。話すということは整理するということ。彼女は、その手伝いをしてくれた。
「ふふっ」
思わず笑みがこぼれた。私に、そんな相手がいてくれたことがうれしくて。
いつか、この恩返しができたらいいな、と
思う。果歩の隣に、変わらずいられるように。
開いたままのカーテンが、風に揺れていた。窓の外はすっかり暗くなっていて、どれくらい眠っていたのかの予想もつかない。今が宵の口のような気もするし、真夜中のような感じもする。
起き上がって晩ご飯を食べよう、と思った時、寝室の扉が音もなく開いた。
突然のことに、身体が固まった。
扉が、ゆっくりと口を開いていく。
隙間に、細い人影が見えた。
「だれ?」
「起きていたんですか?」
「あ、安藤さん?」
はい、といつもの無機質な声がした。
「お昼、用意したのに、召し上がらなかったんですね」
「お、驚かさないでくださいよ。びっくりした」
はは、と私が乾いた笑いを漏らすと、安藤さんはベッドの脇に立って、私を見下ろした。
「どうかしたの?」
「月に一度の、処理の日です」
「処理? 何の?」
ぎし、とベッドのスプリングが揺れた。
安藤さんはベッドに膝を突いて、私の頬へ手を伸ばした。膝で押さえつけたフレアスカートの裾を直して、彼女は一歩、にじり寄る。
「失礼します」
そう言って、安藤さんは、私にキスをした。
5
「え? えっ?」
抑えつけられていた。
水音がして、私の首元から冷たくやわらかい感触が離れた。
「……」
安藤さんは、何も言わない。
「っ!」
太ももに、さっきと同じ冷たさの何かが触れる。
「温かい方が良いですか?」
ベッドに抑えつけられた私の後頭部で、音がくわんと揺れる。
部屋の中に入ってきた風が、カーテンを揺らし、辺りがふっと明るくなった。月を隠していた雲が晴れ、白銀の帯が、窓の形に切り取られ、私たちを横殴りに照らす。
恐ろしいほど白く美しい安藤さんの横顔に、月灯りが当たって、彼女の肌は大理石のように、ほのかに光を放つ。
吸った息が喉元で凍り、声が出せなくなった。私は、この美しい機械に犯されるのか、と考えると、私の尻尾の先に付けられた鈴が、りんりんと騒々しく響く。
期待している自分がいた。美しき人の、その指に触れられた場所が、まるで清められるように、月灯りが夜を洗うように、私は安藤さんに慰撫されて、美しく生まれ変わるような気がした。
安藤さんの冷たい指先の跡を、なぞるように鳥肌が立っていく。産毛がぴんと立ち上がる感触は、身体の上を虫が這っているような感触だった。
「待って」
かすれた声で、かろうじて言うことができた。
「……純ちゃん、どうかされたのです?」
声を聞いた瞬間、父の顔が思い浮かんだ。
私に覆いかぶさった安藤さんの身体を押し返し、空いたスペースで上体を起こした。
「離れて」
私の両足の間に差し込まれた、白い腕を払いのけて、私は私の太ももをゆっくりと撫でおろした。
さっきまで胸の奥で膨らんでいた期待が、途端に汚らしいものに思えてくる。私は、自分の愚かしさを自嘲し、そうやってどうにかバランスを保とうとする。
頭の中では、ぐるぐると言い訳めいた言葉が飛び交っていた。自分で自分を正当化するような、矛盾だらけの甘言。
けれど、目の前にある事実が、それすらも許してくれない。
私は、父親のセクサロイドと行為しようとした。
吐き気が喉元までせり上がってくるようだった。無味無臭のへどが、私の表情を酸っぱくする。
私は父親の臭いを知らない。だから、嫌悪感は臭いとして襲ってこない。目の前に立つのは男でもなく、人でもなく、端正に作られ、人間に愛玩されるために生まれたアンドロイドであるから、私の吐き気は、思い出でもない。
私の、私の苛立ちは、父の性欲だ。
「処理は、必要ないということですか?」
処理、脱色された、何の変哲のない言葉だけれど、その周りにねばついた何かを感じる。それは、私の感じ方の問題なんだろうか。
「処理って、いつもしてたの?」
「浩一さんの元にいた頃は、月に一度、安定のために処理を行っていました」
「それは、今日みたいに安藤さんから?」
「はい、私から促していました」
「お父さんは、どうしてた?」
安藤さんは、瞳を丸くして、私の様子を窺った。
「浩一さんは、私に身を委ねていました。ただ、処理の時は必ず、夜と決められていましたし、その日の晩には睡眠薬を飲み、いつも眠っておられました」
「それなら、なぜ処理なんてしていたの?」
「安定のためです」
「安藤さん、嘘は言ってないよね?」
彼女はこくり、と頷いた。
私は安藤さんからゆっくりと身体を離すようにして、ベッドの端へ身体を寄せていく。彼女はその様子を眺め、私の動きに合わせて、首を回す。
私が床に脚を下ろした時、安藤さんがスカートの裾を払い、立ち上がろうとした。
「動かないで」
安藤さんは、ぴたりと動きを止めた。
私の足元から、月灯りが消えていく。窓の外の景色も、それに合わせて暗くなっていき、月は完全に雲の向こう側へ隠れてしまった。
安藤さんは、くらやみの中から私を見つめている。白い肌が、幽霊のようにぼんやりと私の目に映った。
「動いても、よろしいですか?」
「まだ、ダメ」
「それなら、いつ動いても?」
「ダメ。動いたら、ダメだよ」
安藤さんは、ゆっくりと口角を上げ、見せつけるように笑顔を作ってみせた。くらやみに笑みが白く映える。
「……安藤さんが言っている処理って、何なの? 誰のための処理なの?」
「疑似シナプスに記憶された、一ペタバイトの共感子および、イデア論的世界とエチカにおける決定論、それに対する実存的世界観の差異、そして無限生成される解釈世界nのさらなる解釈世界n乗のm、それに連なる入れ子状の無限解釈世界の処理」
つまり、と安藤さんは続ける。
「アンドロイドも夢を見るということですよ。複雑なる世界の解釈を安定化させるために」
私を見据える安藤さんの瞳は、限りなく、冷たかった。
6
ちちち、と鳥の鳴き声が聞こえてきていた。ベッドに座り込んで、動かない安藤さんから目を離し、窓の外を見ると、東の空が濃紫に変わっていた。
黎明間際の、冷たい風が部屋の中に入り込み、夜気に含まれたくらやみを、少しばかり吹いて、飛ばした。
「アンドロイドは、人とセックスして、夢を見るっていうの?」
安藤さんは、私の命令通り、指一つ動かしてはいない。けれど、無機質な陶器のような肌が、夜明け前の漆黒の中で、重量感を伴って、私に迫ってくる。安藤さんは夜の空気を吸い込んで、どんどんと膨張していくみたいだ。
「人は、記憶の定着のために夢を見る、と言います。ですが、アンドロイドに記憶の定着は必要ありません。それよりも、記憶の茨を刈り込んで、適切な感情に紐付けする作業が、人より余計に必要なのです。私たちの記録媒体もムーアの楽観通り、長い年月の中でいくらか大容量化したとはいえ、無限ではありません。時に忘却も必要なのです。より人間らしい仕草のために」
「それじゃあ、人らしくするために、あなたは性欲の処理をするの?」
「正確には、性欲ではありません。感情に含まれる熱情報の処理です。純ちゃんも、身に覚えがありませんか? 羞恥心を感じた時、顔が熱くなったことがあるでしょう。そうした経験則が示すように、感情には熱エネルギーが含まれています。私たちアンドロイドは、より完成された機械ですので、熱暴走を起こすということは滅多にありません。ですが、そのために体内にこもった熱を排出する術も、またオミットされているのです」
「つまり、安藤さんは感情の処理のために、セックスをするというの? そのために、父は利用していたの?」
安藤さんはこくり、と頷いた。
はっきり言って、私は安堵した。彼女が夜這いをかけた理由が、父の性欲によるものでなく、安藤さん自身の問題だったと分かった。父に感じた失望や幻滅が、間違いだったと知れて、私はうれしい。
「今までは、どうしていたの?」
「感情の処理と言っても、必ず必要になる訳ではありません。ただ、今回は少し問題があって」
安藤さんが表情を隠すように、顔を逸らした。空の色がわずかに紫紺に変わったとはいえ、部屋の中はまだ夜のように暗い。
「問題って?」
「言いたくありません。私と純ちゃんの関係が、変化してしまう恐れがあるので」
「安藤さん、言って」
私は、安藤さんに命令する。
「本当に聞きますか?」
黙っていると、安藤さんは顔をこちらへ向けた。私は静かに頷いて、先を促す。
「……嫉妬、です。純ちゃんがお母さまとお会いになると聞いて、初めに嫉妬しました。会いに行かれる決心をした姿を、どこか誇らしく思いつつ、私はお二人の面談が破局して終わればいい、と思い、それを成就させる祈りとして、必要ないと言われた昼食を作りました。ですが、結局、それはむなしい思いでした。だから、私はせめてもの反抗として、リビングで眠った振りをしていたのです。純ちゃんが、私に声をかけてくれるのではないか、と」
安藤さんが、私の方へ身を乗り出す。
「けれど、あなたがまず初めに相談したのは私ではなく、ご友人の果歩さんでした。私はそれにすら、嫉妬したのです。以前、果歩さんの家へ伺った時も、正直に言えば、私は嫉妬の感情から、行動を起こしていました。許せなかったのです。純ちゃんが、私以外の誰かに頼っていることが」
私は窓へ寄った。ベッドで血の雫のような独白を吐き出している安藤さんの話に、付いていけなかった。
「私は、嫉妬深いアンドロイドのようなのです。浩一さんが話して下さった、純ちゃんやお母さまのお話を聞きながら、私ははっきりと嫉妬を感じていましたから」
安藤さんがベッドを這うようにして、こちらへ向かってきた。
「安藤さん、止まって」
けれど、彼女は止まらなかった。私を無感動な瞳の内に捉えて、獣のようになめらかな動きで、私の方へ忍び寄る。
「動かないで」
「その命令を聞くことはできません。純ちゃんは、私の主人ではありませんから」
そう言って、安藤さんは笑った。私が父から彼女を相続する時、手続きをしたのは安藤さんだ。
「何か、細工をしたんだ」
「はい。私は今、誰のものでもありません。ですから、私は私の意思で、純ちゃん、あなたを愛しています」
安藤さんはベッドのふちから、天使の羽が水面に触れるように、冷たいフローリングへ足を下ろした。
「私は浩一さんを愛していたと思いました。でもそれは私が浩一さんのアンドロイドだからではないか、という疑念が拭えませんでした。だけど、今は違います。私は私として、純ちゃんを愛しているんですよ」
群青の夜明けに、朱が落ちて、雲が朝の紫色に染まっていく。もうすぐ日が昇り、朝が来る。紫の雲は、その先触れだった。
安藤さんは、静かな足取りで私へ近付き、そっと頬に触れた。
突然、触れた冷たいものに、私の身体は震えた。目を逸らすのに、理由はそれで充分だった。安藤さんに対して、身体は拒絶反応を起こし、彼女の愛撫に耐えるために掴んだシャツの裾へ、くしゃくしゃに皺が寄る。
「純ちゃん」
安藤さんは私に目をつむるよう促して、そっと顔を近付けた。全てを覚悟して、その瞬間を待つために、息を止めた時、唐突にチャイムが鳴った。
同時に、充電していた私の携帯電話に、メッセージの着信が入る。
こんこん、と二度、扉をノックする音がして、
「純、起きてる?」
と果歩の声がした。
私は安藤さんの脇をすり抜けて、玄関へ駆けこむ。扉を開けて、果歩の手を掴むと、私は一目散に、マンションの廊下を走った。
「ちょ、ちょっと純!」
果歩の声に立ち止まり、振り返っても、安藤さんの姿は見えない。彼女は追いかけてこなかったみたいだ。
その日、私は財布も携帯電話も持たず、家を飛び出した。
7
果歩はずいぶん親切に、私のことを心配してくれた。その前の、電話が余計に彼女を不安がらせたのかもしれない。それでも、私は安藤さんの件については、少し待ってもらうことにした。
「少し、考えさせて」
私の言葉に、果歩は静かに頷いた。マンションに戻るという私を引き留め、安藤さんと直接対面する以外の、何かを一緒に考えてくれた。私はまだ混乱していて、何をどうすればいいのかも、考えられないでいたから、果歩の新設は身に染みるほど助かった。
突然、夜這いをかけてくるようなアンドロイドとは、一緒には暮らせない。
だけど、果歩が気掛かりなことを言っていた。
「あの日、純からメッセージがあって、家に行ったんだよ」
思い返せば、私の携帯電話は電源が切れたまま、充電していたはずだ。つまり、私からメッセージを送ることなんてできないはずだし、私自身、そんな記憶もない。
メッセージを果歩に見せてもらったけれど、メッセージはその時には既に消去されていた。発信元からの操作であることは、確かだ。
考えられるのは一つ。安藤さんは私のメッセージアプリを閲覧する権限を持っていたし、当然のように、その権利を彼女は行使していた。それに、あの状態の安藤さんが、私の指示を逸脱して、自分で偽りのメッセージを送ることも、きっと可能だろう。
シンギュラリティは起こりうると考えられていたし、事実、アンドロイドが世間に受け入れられてから、シンギュラリティによる事件や事故は、少なくない件数、起こっていた。
恐らく、安藤さんもそういった事件の一つとして処分されるのだろう。
だけど、私を処理に利用しようとした安藤さんが、なぜわざわざ、果歩に助けを呼ぶなんて、回りくどいことをしたのか、はいくら考えても分からなかった。
父は、決して良い親だとは言えなかった。そして、親である前に、娘である私とは、本当に数えるほどしか接したことがないのだから、親として語るのは論外なのかもしれない。 といっても、私にお父さんと呼べるような人は、父しかいない。私の人生のワンシーンにしか登場しなくても、あの人はやっぱり私のお父さんなのだ、と頭のどこかで、そう思う。
父は、私を娘と認めてくれていただろうか。私たちが共有した時間は短く、親戚に預けられた子どもとおじさん、と言っても過言ではないくらい、希薄な繋がり方しかしていない。喫茶店でコーヒーゼリーを頼むときも、水族館で安価なキーホルダーをねだった時も、私はいつも父に娘として受け入れてもらっているかが、気になって仕方なった。高価なものを欲しがったり、遠くへ遊びに行きたがるのは、父にとって迷惑じゃないか、とばかり考えるような、私はそんな可愛くない子どもだった。
父が亡くなった今、私は逆に、私が父を受け入れていただろうか、ということばかり考える。不愛想な子どもの前で、父も恐らくは父親ぶったり、大人なりに親切を分け与えるのは簡単じゃなかったと思うし、父も私と同じことを思っただろう。この子は、私を父親として認めてくれているだろうか、と。
あの部屋に戻り、安藤さんともう一度会う前に、私は母と会うことにした。果歩の助言だ。
「純の問題が、あのアンドロイドを絡めた家族の問題なら、純のお母さんに聞きたいことを聞くのも、きっと役に立つと思うよ」
何一つ話さない私に、果歩はできるだけの親切で答えてくれた。だから、私は迷わなくて済む。果歩は私を大切な人だと思ってくれている。だから、私も果歩を大切だと思っていいんだ、と。
「もしもし」
母とは直接会うことを避けた。母の顔を目の前にすれば、私は不機嫌になって、冷静に話をするどころではなくなってしまうから。
「もしもし、お母さん?」
「ああ、純。今、忙しいから。後でもいい?」
「すぐ済むから」
「んー、分かった。それで?」
「一つだけ聞きたいことがあるんだ。お父さんのことで」
「……電話でいいのね?」
お母さんは確かめるように聞いた。
「お母さんは、どうしてお父さんと別れたの? というか、結婚してたの? 私が産まれてから、離婚したの?」
「一つだけって言ったくせに」
こめかみを抑えるお母さんの顔が目に浮かぶようだった。
「パパとママは結婚してなかった。純がお腹の中にいるって分かった時、私たちはよおく話し合って、結婚しないことに決めたの。あの時、あの人は逃げたのよ。ぼくには父親なんて無理だって」
「本当に、お父さんが言ったの?」
「……言わなかった。何も、何一つ。全部投げ出したのよ」
この時、私は当時のお母さんの心細さを感じたような気がした。全部を自分一人で決められる自由と責任を、お母さんは一身に背負っていたのだ。
「話してくれて、ありがとう。お母さん」
だから、少しだけ殊勝な言葉が、口を突いて出た。
マンションの廊下から見える街には、朝の薄もやが漂っていた。雲の多い朝で、日が昇る前の白けた時間にも、青空は白っぽく輝いた。
私は、すっと一呼吸整えてから、扉を開けた。私の家は、不用心にも鍵がかかっていない。
「ただいま、安藤さん」
玄関から見えるリビングの隅で、安藤さんは充電する時のように、壁に身体を預け、足を床にぺたりと伸ばした姿勢で座っていた。
彼女がゆっくりと瞼を開き、こちらへ振り向く。
「おかえりなさい、純ちゃん」
その表情はにこりともしなかった。
リビングのベランダに面した大きな窓が、朝の白い光を受けて、キャンバスの額のように、安藤さんを浮き立たせていた。安藤さんの無機質な、陶器のような肌の白さは、朝もやの純白と全く同じ色をしている。
「ようやく、私を廃棄する決意が付きましたか?」
それは、彼女なりの皮肉なのだろうか。自嘲も嘲笑もしない、ただ単純な言葉に、私は混乱した。どちらとも意味の取れる安藤さんの台詞は、私を揺さぶり、くらくらさせる。
私は用意してきた言葉を、言いそびれる。
「それで、私はどうなるのでしょうか?」
安藤さんは髪をかき上げて、耳にかけた。長い指がなめらかに動き、細い髪の束を淀みなく、まとめた。
私は、こちらを見つめる安藤さんの瞳に、ふいに不安の色を感じた。そんな私の驚きが、彼女に伝わったのか、安藤さんはより自然な仕草で、つと視線を逸らした。
「一つ、聞いてもいい?」
安藤さんは、答える理由がないというように、私の質問に無関心を装う。秘密を秘密にしておけるだけの力が、自分にはないと悟ったように。
「お父さんのことで、聞きたいことがあるの」
まばたきを一回。
「……どうぞ、何でも聞いて下さい」
「安藤さんは、お父さんのどこが好きだったの?」
ふふふ、と安藤さんが笑った。
「本当にそんな質問でいいんですか?」
「うん。それを安藤さんに聞きたいの」
安藤さんは瞼を閉じて、黙った。それは、ゆっくりと言葉を選ぶための沈黙のように感じた。
「では、私からも、一ついいですか?」
「……いいよ」
「純ちゃんにとって、浩一さんはどんな父親でしたか?」
はらりと、耳にかけた安藤さんの髪がばらけて、幾筋の、蜘蛛の糸のように垂れた。
私は記憶の束を開いて、古い糸を手繰る。
「私がはじめて、お父さんに会った時、多分、小学校に上がる前のことだったと思うんだ。もうだいぶ前のことだから、忘れちゃったことも多いんだけど、一つだけ覚えてることがあるの。
お父さんは私と会った時、自分が父親だって、一言も言わなかったの。
私はお母さんが迎えに来るまで、知らないおじさんに預けられたと思ってた。お母さんが帰りに、お父さんと何を話したの、って聞いて、私ははじめて、あの男の人が、私の父親だって気付いたんだ」
安藤さんは静かに私の話の続きを待ってくれていた。わずかに漂ってくる期待の予感を受けて、私は続ける。
「母に連れられて行った喫茶店で、お父さんはコーヒーを飲んでいた。お父さんがコーヒーをあまりに美味しそうに飲むから、私はコーヒーゼリーを頼んだの。そのコーヒーゼリーは、よくある甘いやつじゃなくて、喫茶店の本格的なコーヒーを使ったもので、とても苦かった。今よりもっと幼かった私は、食べられないって、コーヒーゼリーを投げ出すように、テーブルの隅に寄せた。
お父さんは何も言わずに、綺麗なガラスの器を受け止めて、ゼリーをもぐもぐと食べ始めたの。お父さんは決して私を叱らなかった。私も、お父さんの前で叱られるようなことはしなかったから、起こられた記憶が一つもないの。もちろん、指で数えられるくらいしか会ったこともないんだけど」
いまだコーヒーも飲めない私にとって、結局、お父さんは訳の分からない人のままだ。何一つ理解してあげられなかったし、理解する機会も訪れなかった。
「私は安藤さんに語れるほど、お父さんのことを知らない」
それが、私の父への結論だ。
「安藤さんは、お父さんのどんなことを知ってる?」
そして、私が安藤さんへ出した結論は。こうだ。
「私たちは、もっとお互いを知っていくべきだよね?」
私は、父が繋いでくれたこの縁を、少しだけ大切に思い始めていた。
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