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短編 「とってもブラッド、すっごくフェイト」  前編

 幕が上がる。
 傾いた月を背景に、深く影の差し込むビルの谷間。
 それは、たった一つの夜の過ち。突然起こった、夜のアクシデント。出会ってしまったことが不運なのか、いいえ、私という存在があなたにとっての不幸。夜の女王にかしずく者は皆、全て私の仇。容赦はしない。斬り捨てた。

 ほんの一瞬の撹乱と情熱。嗚呼、ほとばしる熱い血潮。男が身に纏うダークスーツは一瞬で染まる。彼らは夜を着る。ならば、私は夜を斬る。例え、私の手にあるものが、とても小さな果物ナイフだったとしても、まして、何も持たない小娘のか弱い爪であっても、私は爪を研ぎ、夜を引き裂く。
 この他に何もいらない。ただ、これさえあればいい。
 夜を斬る。
 私の生きがい、生きる意味。
 月から、赤い滴が垂れる。
 男は死に掛けの震える手で、私の裾を掴んだ。
「お前を、知っている」
 お互いの顔も見えないくらやみで、目だけが白く浮かんでいた。私は、その目をじっと見る。
「私の何を知ってるの?」
「お前は、夜の中でしか生きられない。夜の女王がお前を許さない。お前はもう……」
 枝垂れた柳の影の中、大きく翼を広げた烏。
「死んだ」
 力なく項垂れた男の背中から、じわじわとくらやみが浸みていく。喰われていく。
 私は、ゆっくりと彼から離れた。祈りも忘れない。死に顔は穏やかだった。固く握った彼の手をほぐし、裾を払う。あくびが漏れた。
 月が、傾いていく。
 東の空が青く、夜の衣装を脱ぎ捨てる。私も夜を身に付ける人間だ。世界が朝になる前に、静かな部屋で、静かに眠ろう。また夜が巡ってくるまで。いつか私の夜を引き裂き、斬り捨てる、その時まで。
 私の夜。
 こんなに愛しくて、苦しい言葉。
 私の夜。
 似合いの服を選んでくれたのは、彼女。夜の女王と呼ばれる、綺麗な人。でも、彼女は私を捨てた。私には、彼女しかいなかったのに。
 彼女は、私を、捨てた。
 だから、今度は私が彼女を捨てる。
 たった一つの夜の過ち。
 始まりの夜。私は彼女に出会った。出会ってしまった。まったくアクシデントみたいに交差したのは、運命の糸。だから、私はここにいる。ここに立って、彼女の夜を引き裂いてやる。

 秘密の部屋、蝋燭の穂が揺れる。ぴったりと閉じた扉の金細工が、誘うようにきらめきを放ち、黒く照る彫刻の影を深くした。ここは、日に一人、男が通され、愉楽の果実を貪る場所。天蓋付きのベッドに一組の男女。鏡台の前に座り、それを眺める女。グラスが一杯、中は清らかな水が満たす。部屋には香が焚かれ、ぼんやりと霞がかったように、光が淡い。隅の方ではくらやみが踊り、蒸発した汗の匂いが絨毯の上へ積もる。揺れる火の穂が、それらをかき回し、部屋は混沌としてくる。
 男が一つ果てると、灯りが一つ消える。一夜のうちに、幾度もの絶頂を重ね、男たちはまるで死に至るように眠りに就く。香りと汗と、女の柔らかく白い身体。薄暗がりの中で、一つの嬌声も上げない女を抱き続ける。意識は次第に遠のき、焦点はただ女の肌の白さへ。彼自身を侵食するように、視界はくらやみに侵され、最期の射精の瞬間、男たちは闇夜に突き落とされる。蝋燭の火が吹き消され、彼らは闇の奥深く、鎖された女を抱いて、眠る。
 男が腰を振る度に、天蓋を支える支柱が揺れる。それほどの巨漢の下に組み敷かれながら、女は、もう一人の女を見ていた。
 名はイクノ。雨のように落ちてくる汗を意にも介さず、一心不乱に夜の女王の名を持つ女を見つめる。イクノは彼女、アマネに恋をしていた。元々、イクノは娼婦ではない。また、この部屋も男に娼婦を抱かせるための部屋ではなかった。秘密の部屋は、アマネが男を吊り、如何ようにでも調理するために作られた部屋であった。何故、この部屋が秘密の部屋と呼ばれるのか。それは、この部屋を秘密にし、誰にも知らせないという意味ではなく、部屋の中のものを一つも漏らさない、そういう意味の名だった。
 アマネは男を愛さない。特に愚かな男を。イクノは以前、アマネに尋ねたことがあった。どうして私を抱いてくれないのか、と。彼女は、飽きてしまうから、そう言った。アマネがイクノを男に抱かせるのも、同じ理由だ。隅々まで眺めて楽しむ。イクノがどこをどのように触られ、感じるのか。何が好きで、何が嫌いなのか。覆い被さった男の隙間から、イクノを眺める。アマネが本当にイクノを愛しているからこそ、男に抱かせるのは楽しく、そして、辛かった。また、それはイクノも同じだった。アマネを心の底から愛しているからこそ、見知らぬ男と寝ることが出来た。それをアマネに見せるのは嬉しく、やはり苦しかった。
現に、イクノは男の指や視線では感じない。アマネが組んだ足の付け根、その暗がり、グラスを飲み干す仕草、イクノの心臓を射抜くような、哀しげな瞳。イクノはそういったものばかり感じ取り、男の物は意識的に拒絶した。男と寝るのは、単にアマネのためだった。アマネと愛し合う、たったそれだけのため。
 イクノはアマネに向かって、手を伸ばす。アマネはグラスの水を一口含み、喉を見せつけながら、ゆっくりと飲み下した。イクノは、アマネの恍惚とした笑みを見て、声も上げず、絶頂した。

「男ってつまらない」
 まったく火の落ちた部屋で、イクノの頬に手を当て、アマネは口づけした。くらやみの真ん中で、イクノは身体を震わせる。
「そう思うでしょう?」
 アマネはイクノの耳を指で挟む。人差し指で輪郭をなぞり、ぷっくりとした耳たぶを擦った。ただそれだけで、イクノの耳は赤く、熱くなっていく。
「アマネが男だったら、ボクは男を愛してた」
「私は私。男も女も関係ない」
 肩に手を置いて、アマネはイクノへ唇を寄せた。舌をもつれ合わせ、溶かしたものを流し込む。イクノは素直に受け入れて、飲み干した。
「私は女のイクノを愛してるんじゃない。イクノを愛しているの」
「うれしいよ、そう言ってくれて」
「これぐらい、いくらでも言ってあげる」
 本当に? とイクノはアマネを曇りなく眼差す。アマネは答える代わりに、もう一度キスをする。
「アマネがいてくれれば、それだけでいい。ボクはそれ以外、何もいらない」
「嘘」
 アマネのその転調に、イクノはいくらか驚きつつ、言葉を返す。
「ボクがアマネに嘘ついたこと、ある? アマネらしくないよ」
 アマネはイクノから身体を離して、彼女の顎に指を当てた。
「昔、そう言って、私の元から去っていった娘がいたの。とてもやさしくて、愚かしいほど素直な娘だった。けれど、その娘はきっと、自分だけを愛してくれる人、自分を裏切らない私が欲しかったのね。私は捨てられた。人生でたった一度だけ」
 イクノは話を聞いて、口角を上げた。アマネの手を包んで、頬ずりする。彼女はくらやみの中でも、アマネの表情、立ち方、哀しい瞳ーー涙をたたえ、壊れそうなガラス、を十分に想像することが出来た。
「アマネ、かわいい」
 イクノはアマネの手に鼻を当てる。胸一杯に彼女を吸い込んで、くらくらする匂いにアマネの姿を映す。一目、目を奪われる美貌を持つアマネ。組織を動かし、社会を一変させてしまえるアマネ。女として、人として魅力を持ち、それを磨き上げるのに余念のない、努力家のアマネ。そんな彼女が抱える大きな夜。アマネをただの美女でなく、ただの実業家でなくするほどの影。イクノはそれこそがアマネの本当の魅力だと知っている。だから、アマネからは哀しみの匂いがする。どんな厚化粧でも隠せない。どんな香水でも隠せない。否応もなく見えてしまう、アマネの生地。恋に恋する、か弱い乙女。アマネが恋人に自ら触れようとしないのは、恐れているから。何を? それは、自らの恋、幻想が壊れてしまうこと。
「ボクは裏切らないよ、アマネ」
 自分を愛してくれる、絶対に裏切らない恋人。それを欲しがっているのは、アマネを裏切った誰かではなく、アマネ自身。裏切られるのが怖いから、自分から先に裏切ってしまう臆病者、それがアマネ。
「愛してる」
 ボクはこれだけでいい、とイクノは心の中で呟く。いくらでもアマネを愛してあげる。どこまでも吸い上げられて、搾り取られても構わない。どんな底なしの沼であろうと、アマネが飽きるまで、ボクの愛を注ぎ続けてあげる。
 あの夜、イクノはアマネによって、この世に生を受けた。当然、それ以前の人生もあった。けれど、イクノにとって、それは無に等しい。彼女は考える。確かに、あの日、ボクは神に創造された。始まりの人類のように、アマネによって、この世へ生み出されたのだ、と。
「アマネさえいてくれればいい。それ以外、何もいらない」
「……ありがとう、イクノ」
 そして、イクノは抱きしめられた。包まれて、イクノは安心した。
「ねえ、アマネ。一つ、聞いてもいい?」
「何?」
「その、アマネを裏切った恋人の名前、何ていうの?」
 アマネは耳にそっと唇を当て、呟いた。
「ソメイ」

 走る・走る・走る。
 夜の帳が上がり、青い夜明けの街で私は走る。続く足音は三つ。誰も夜を着込み、懐深く、己を隠している。彼らは誰もが同じ格好をして、満足しきっている。アマネの手足、そうあることを自分に言い聞かせた人形。それが幸福であるための第一条件であり、幸せそのもの。命じられれば、死ぬことも厭わない。
 直線を避け、角を曲がると、ちょうど私の顔の高さのコンクリートが弾けた。振り返ると、一人がこちらへ発砲してきていた。
 私は逃げる。西へ走る。日差しが怖い。夜から移り変わっていく空の色、風が運ぶ朝の匂い、短い時の中で、こうまで簡単に変わってしまう全てが憎い。細い路地、暗い路地。私はなるべく人の手の入っていない道を行く。なるべく、昔あるままの道を。
 古い道は、時に行き先を失くし、新しく建てられたビルが、道を袋小路へと変える。私はダクトを昇り、ビルとビルの間の狭い隙間へ身体を押し込む。追いついた男たちは、穴へ棒を突っ込んで、無暗にぶっ放す。
 頬が削れる、爪が剥がれる、肉が抉られる。たらたらと血を流し、けれど、致命傷がないことに安堵しつつ、先を急ぐ。立ち止まれば、追いつかれ、捕まる。全てが終わる。勿論、それを望む私もいるが、破滅願望は、最期のその時まで大切にしまっておく。
 さあ、次の路地へ。
 そう思った刹那、発砲音が私の肩を抉った。耳をかすめる風切り音、そして、熱さ。肩に火が付いたように熱くなる。すぐに物陰へ身体を隠し、傷の具合を確かめる。抑えた手の平が真っ赤になった。ふ、と息を吐いた拍子に力が抜け、気付けば、壁にもたれている。右手が垂れた血で染まる。頭の中で、水音が反響する。くわんくわん、と水の器が揺れる。
 私は、意識をここへ取り戻したい。目をしきりに動かして、全体の把握に努める。男たちは? 私は? 動ける? 歩ける?
 何かが過剰になる。何かが過敏になる。何かが過大になる。何かが……。
 右肩の熱、力の入らない両足、しきりに鳴り響く眼底、悪夢の種。
 足音!
 私の本能が、身体と意識を共に引きずるように歩き出す。ここで死ねない。死にたくない!
 視界の端に映った扉へ、蜘蛛の糸へ縋るように、手を掛けた。頭の中では、まだ水音が響いていた。私の身体がどこか遠く見える。物事が膜を一枚隔てたような、ぼんやりとした中へ浮かぶ。身体の内側、そのもう一つ奥に、私という存在が閉じ込められてしまったような、引き込んでしまったような、私を囲うこれは一体何だろうか。天上へと導かれるような浮遊感。厚い雲の向こうから光が差してきて……。
 夜が遠ざかっていく。
 私は自分の身体の熱さに、我に返った。肩の銃創からは、まだ血が流れている。
 周りを確かめると、ここはどうやら古書店のようだった。ベージュ色の石の壁を、温白色の光が照らす。今では珍しくなってしまった紙媒体の書籍が、所狭しと並び、見た目よりも部屋の中は暗い。そして、私がまだ、あの男たちに捕まっていないと考えると、扉は開いたということだろうか。私は一息ついてみるが、途端に身体が重くなるのを感じた。どうにかして、肩の出血を止めなければ……。
 立ち上がろうとして、私は床に倒れ込んだ。もう起き上がる力もないらしい。情けない。こんなところで死ぬのか。何も果たせないまま。
 自嘲の笑みを浮かべると、涙が出た。まだ死にたくない。せめて、アマネにもう一度、会うまでは。もう一度会って、聞きたいことがある。どうして、どうして私を捨てたの、と。
 指先が冷えていく。肩の傷を抑えるにも、力が入らない。全神経を集中してやっているが、どうにもままならない。
 その一方で、私の中心は汗をかくほど熱くなっている。涙もそこからやって来るらしく、頬を伝う滴はとても熱かった。わがままな子どもが私の中で泣いているらしい。
 生と死は、私の意思の天秤の上で揺れていた。今は、私が生の側へ力を入れているので、死は軽く、揺れているが、一たび、私がその力を緩めれば、死はすぐに私の元に降ってくる。
 甘い眠りに似た永遠が、私を甘やかす。それはあらゆる力を使って、私の意思を砕き、力を奪い去ろうとする。もうここまで、と告げて、幕を下ろす。私もそれに包まれて、うとうととまぶたを下ろすことを考える。目覚めていることがどうにも苦痛で、心が掻き毟られるように疼く。もう止めてしまおう。こんなこと意味もない、と。
 それなのに、私は自らの傷へ指を入れ、そうまでして、心地いい眠りを遠ざけようと努力した。
 重たいまぶたが閉じ切る前、誰かが、私の側へ屈みこんだ。

「まだ起き上がらない方がいい」
 忠告に従って、私はじっと天井を見つめた。
「弾は貫通していたよ、運が良かったな」
 首を回し、声の方へ目を向けると、そこには白髪の老人が立っていた。
「運? 何の?」
 老人は茶で唇を湿らすと、私の枕元へゆっくり近付いてきた。
「私ほど、手際良く、銃創の手当の出来る人間はそういない」
 彼は私の後頭部へ手を入れ、少し起き上がらせた。
「さあ、飲みなさい」
 急須で、少しばかりの白湯を飲まされる。
「私はキハチ。そちらは?」
 私は元の通り、天井を眺めたまま、答えた。
「ソメイ」
「その名は、母親からもらったのか?」
「いいえ、この名前は、私が自分で付けた。私の母は私を産んですぐに亡くなったから」
「そうか、いい名だ。他に家族は?」
「今は父一人だけ。十年前までは祖父がいたけれど、彼が死んで以来、家族と言えるような人とは顔を合わせてない」
 私は、キハチが何か言いだす前に畳みかけた。
「もう充分でしょう、満足した?」
 キハチは沈黙して、それから、
「ゆっくり休みなさい」
 と言って、部屋を出て行った。その際、彼は灯りを消し、ランプに火を入れていった。
 身体が熱かった。それは傷の影響ではなく、自らまくしたてた身の上話のせいかもしれない。今、思い出しても、私の内側は熱く燃えたぎる。私は、母から名前を授からなかった子どもなのだ。
 普通、母親は出産の対価として、子どもに名前を付ける権利を得る。それは、生まれたばかりの子どもに対して、初めて与えられるものであり、それ故に特別な意味を持つ。古くから、名を与えた親は、子どもを支配する力を有すると信じられてきた。だからこそ、母親が亡くなった時が、大人として認められる瞬間なのだけれど……。
 つまり、私は産まれた時、既に大人になってしまったのだ。子どもという、時の流れ方を知らない。父は、私の個を尊重して、家と不自由しない金を贈ってくれたが、家族という空間は与えてくれなかった。私はいつもどこか渇いている。私のお腹の中で、夜が大きく口を開け、全てを飲み込んでしまう。
 ランプの火の穂が揺れた。影が部屋を一周し、また元の位置に戻る。
 私の夜。アマネはそれを狙って、私に声を掛けてきた。アマネは、人の夜を食べる。そうして、ああまで夜を大きくした。組織の人間がみな、アマネに心酔しているのは、彼らの夜を、アマネが丸ごと包み、温めてあげるかrだ。生暖かく、やさしい夜。けれど、貪欲で、内側のくらやみを、もっともっとと増やしていく。止まることを知らない怪物なのだ。だから、私が負けることは運命付けられているのかもしれない。大きな、大きな夜。どうして、ちっぽけな私がアマネに逆らえるというのか。私の理性は知っている。意味のない闘争、勝ち目のない反抗。それでも、心が疼く。アマネのことを思うと、足が震え、指先が震える。心が、燃えるように熱くなるのだ。私はアマネの夜を引き裂きたい。夜のベールを脱いだアマネに、こう言ってやるのだ。
「もうあなたに夜はいらない」
 夜を斬るとk米多比、私はアマネにステラrた。そんな仕打ちをしたアマネを、今も恨んでいる。だから、もう一度アマネに合って、聞く。どうして、私を捨てたのか、と。
 他に何もいらない。これさえあればいい。
 私の夜。アマネの夜。ぶつかり合い、傷付け合い、どちらかが倒れるまで、私たちは死の舞踏を踊り続ける。
 私は、それを望む。

 アマネのいない夜。
 イクノはワインを飲み、溜め息を吐いた。部屋の中央に置かれたグランドピアノを、裸の少女が弾いている。彼女は、イクノが退屈しないようにと、アマネが置いていったのだが、イクノは冷めた手つきでその玩具をいじり倒すと、すぐに飽きてしまった。飾り物にするには、もったいないと話を聞けば、ピアノを演奏できるというので、イクノは少女の服を剥いて、ピアノに座らせた。
 少女は夜の伽をする教育は受けたが、こうして、裸でピアノを弾くというのは初めてだった。日常と非日常、裸で男女の相手をすること、ピアノを演奏すること。線ではっきりと分けられていた境界を取り払われて、少女は目に涙を浮かべる。鍵盤を叩く指は間違える。耳が赤くなる。すると、裸であることを余計に意識し、少女は強く足を閉じた。
 といっても、少女とイクノの歳はそう変わらない。場所が場所ならば、二人は制服を着て、机を並べていたかもしれないが、少女を見るイクノの目は冷たい。退屈しきった猫の目だ。猫は仕留めた相手の息の根を止めない。瀕死の獲物がぴくぴくと痙攣するのを、名残惜しそうに眺めては手を出し、毛を繕い、後は眠るだけ。
「ねえ、少し外に出ない?」
 少女は顔を輝かせる。この苦痛から逃げられるとでも思っているのだろうか。
 確かに、猫ならば息の根を止めない。
 イクノは少女に首輪をつけて、そのまま連れ出す。当然、少女は抵抗したが、イクノは平手を一つ、そして愛らしい笑顔を一つ、アマネの名を出して、少女を歩かせた。部屋を出ると、見張りの男が三人、付いてくる。イクノは彼らを見て、何を思いついたのか、一度引き返し、少女へコートを羽織らせた。
「道へ出て、男を捕まえて、セックスしてきて」
 少女はまじまじとイクノを見つめ、小さく、いやと呟いた。
「なら、あなたはどうしてここにいるの? アマネ、何て言った? 私を退屈させないようにって聞かなかったの?」
 イクノの合図で、男たちが少女を押し倒す。
「まだだよ。えっとさ、あなた何て名前だっけ? いや、いいや。あなたって、何か好きなものある?」
 少女は夜を着た男たちに身体を抑えてつけられた状態で、頷く。それを見て、イクノが喜色ばむ。
「やっぱり! それで何が好きなの? アマネ? ピアノ? それとも、お金? ここに来るってことはさ、それが欲しくて来たんだよね……?」
 イクノは答えを聞く前に、男たちへ合図を送った。少女は涙を流す。叫び、暴れたが、何の意味もなかった。猛獣に食われる子羊のように、少女の抵抗は却って、獣の蹂躙を激しくした。少女は最後まで抵抗した。
 イクノはその様子を眺めて、ほくそ笑む。
「あなたの好きは、その程度なんだね」
 と独りごちて、嬉しがる。自らの愛の深さが、少女よりも深いと確かめられて、イクノは嬉しい。アマネのためなら、男に犯されたって構わない。命だって、投げ出す。何故なら、一番大切なものはアマネなのだから。アマネが全ての物事に優先する。自分のプライドや身体などは、あって意味のないもの、とイクノは初めから決めつけていた。そして、それが意味を持つのは、やはりアマネが愛してくれるからだ、と。
 少女がどんな理由でアマネに近付いたのかは知らない。けれど、この程度で泣きごとを言うようでは、きっとその好きは実らなかったに違いない。どんな困難にも打ち勝つ魔法。それは、好きという気持ち。その気持ちがあれば、出来ないことなんてない。好きを思い続けて、ずっとずっと闘っていれば、叶わない夢なんてない。好きの気持ちが強ければ強いほど、この世界は幸せに満ちていく。厳格なルールの、残酷な勝負に勝つのは、いつでも気持ちの強い者。負けたのは、それほど好きではないから。勝ったのは好きだと思い続けたから。だから、好きだと伝え続けて、実らなかった恋はない。イクノはそう考える。好きが全て。好きが世界を変える。好きがみんなを強くする。
 でも、諦めて?
「あなたの好きは、その程度だから」
 イクノは固く確かめる。世界で一番アマネが好き。噛み締めるように、心の中で呟く。
 濃厚な夜の香りを吸い込んで、イクノは満足そうに笑った。大きく口を開け、叫ぶようにして。そして、少女に群がる男たちを退けて、少女の側に屈んだ。
「今日はお疲れ様。もういいよ」
 イクノが手を出すと、後ろで控えていた男が、そこへナイフを差し出した。
「きっとあなたは、この世界では幸せになれない。何でか分かる?」
 少女は涙を拭い、イクノから目を背けた。
「それは、好きが足りないからだよ」
 少女を胸に抱いて、イクノはナイフを突き立てた。少女の手が、イクノの背を掴む。じたばたと暴れるのも気にせず、それが収まるまで、イクノは少女を抱き続けた。
 事を終え、イクノはさっぱりとした顔で、
「少し、散歩に出ようか?」
 三人の男を従えて、外へ向かう。受付係がイクノに声を掛けた。
「どちらへ?」
「ちょっと、そこまで」
「アマネ様が怒りますよ」
 すると、イクノは笑って、
「いいね、アマネに怒られてみたい」
 そう言って、出て行った。右手にはナイフを持ったまま。

 イクノは口笛を吹いて、上機嫌だ。イクノは、アマネに叱られたことがない。愛されているが故だ、ということを知っているからこそ、余計に叱られてみたい、とイクノは思う。アマネがボクをどんな風に叱るのか。その愛を確かめてみたい。手を上げられたとしても、きっと受け入れる。アマネはボクの全て。
 イクノはアマネを盲信する。笑うアマネ、怒るアマネ、泣くアマネ。どんな彼女でも受け入れ、包みたいと願望する。どんなに矮小で、卑怯で救いようがない愚物だとしても、イクノは救ってみせる。また、アマネが百人いようと、千人いようと全員を平等に、徹底的に愛してみせる、と確信している。イクノの好きは、アマネ個人を問題にはしない。アマネに出会ってしまったこと。それがイクノの全てを決定付けた。イクノは愛さずにはいられない。幸福を祈らずにはいられない。アマネの夜に深く手を入れ、その深奥のアマネ自身を掬い上げる。悲しみのない世界。アマネにかかわる、それ自体がイクノの幸福だった。だから、いつまでもアマネを愛し続ける。何があっても。

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