掌編 「irodori」
「鳥のついばむ、眼の肉は、さぞ甘かろう。
肉が、妙齢の麗しい少女だったとは誰も夢見ないが、屍体はとろけた視界で、永遠の国を物語る。瞳はまさに恋をするものの目である。世界は希望の色をしているので、少女の慧眼もおいそれとは馬鹿には出来まい。
とそこまでを詠嘆した詩人は、まったくの下手である。
荒廃したもの全てが色を失うと考えるのは、陳腐な灰色の脳であろうが、唄う舌は赫々と燃えるのであれば、空もまた灼けるように、青を称えねばなるまい」
と記した万巻の書は、今もバベルの図書館へ蔵されている。
荒廃したもの全てとは、青を称える空とは、また、赫々と燃える唄う舌?
言葉を掘りつくすことは出来ないと知りながら、書かれたものへ注釈を加えていくのは、作家の性である。荒廃したもの全てとは、何を全とし、何を個とするか、という人の意識を問うものに他ならない。ついばまれた少女の肉は、失われたものなのか? それとも、鳥へと巡り、またその屍体が何者かの腹を満たす循環であるのか?
と語った作家が一人いた。
空が青を称えるならば、青を称えない空とは何か? 唄う舌が赫々と燃えた時、なぜ青は称えられねばならないのだろう。赤と青と並列され、舌と空は対比される。万巻の書は、詩人の詩に色彩がないことを語り、詩そのものに輝きが宿るならば、荒廃したもの全て、つまり、人が意識によって裁定した景色が、目の前へと甦るのだ、という陳腐を語るに過ぎない。
という言葉は、万巻の書とは反対に、広く出版されている。
これでは、何が陳腐で、何が陳腐でないか、分からない。
と巷の人は語るだろう。
それが現代だ。現代病だ。
と本は記すのだが、それもまた既に語られた言葉であると指摘するのは、万巻の書の管理者のはずだった。
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