我を學ぶものは死す
神は人に似せて造られた。天使は、だから、人に似ている。天使の名が口の端にのぼるとき、そこには必ず学園都市の名が連なった。かつて、天使の噂は学園都市より発し、その姿もまた、都市上空の、絶対に神の坐ませぬ空より現れたのだが。
花の塔より墜落した天使は、花壇の花を散らし、動かなくなっていた。二五六対の腰羽をはじめ、何一つ欠けることなく、天使は死んでいた。生きてはいないものだから、死ぬはずのない天使は、けれどその時、死してなお腐ることのない聖者のように、胸の前で指を組み、美しい花弁の中に横たわっていた。
その死体は、私に問いかけていた。
天使殺しは可能なのか? 死という概念を持ちえない天使が、死ぬとはどういうことなのか。
天使とは機能の一部である、と先輩は説明した。天使は死である。彼らは死ぬべき命を選ぶ。だから、天使は生き物に備わった機能の一部であった。機能の代行者たる天使は、機能であるという一点において完全であり、それが、天使の死なない理由である。天使とは揺るぎない摂理の喩だ、と理解された。
当時、花の塔にいたのは、たった一人の学生で、塔はある種の密室と化していた。鏡を前にして、彼女はこう告げる。
「夕暮れ時、天使が羽を休めに、花の塔へ来ることは知っていました。私は天使にたった一言、お前は死ぬと言ってもらい、花の中へ飛び込んで、美しく死にたいと思っていました。それを試そうと思ったのです」
鏡の中で穏やかに微笑んだ彼女を、私は人とは思えなかった。まるで美しさという機能を備えられた機械のように見えた。
夕暮れの残照を背景に、学園都市の花の塔が山間に高く聳え立っていた。塔に刻まれた、花の基本構造であるフラクタルは、夕闇に溶けて、見えなくなっている。屋上の縁には少女が一人立っていて、それを見上げるように、羽の生えた男が宙に浮かんでいた。
「私は天使に口づけました。そうせずにはいられませんでした。彼らを、私たちが造り上げたのだと考えると、とても誇らしい気持ちになりました。あれほど美しい生き物は、まるで――」
少女が男の頬に手を伸ばすと、彼は塔へと近付いていき、かすかに傾いた夕陽に照らされて、完全な影となる。その濃い夕影の中、少女と男は接吻する。男の腰回りに生えている羽の、ぴんと張りつめていた力が抜けて、男の身体は沈み始める。彼を掴もうとした少女の手は、触れるか触れないかの距離まで伸びて、結局届かなかった。脱力した男の身体は速度を増していき、やがて、私からは見えなくなる。
無数の研究棟に遮られた私の視点は、天使の落下の瞬間を見ていない。私の視界を埋め尽くす研究棟のどこかで、神は造られた。そして、今も神はそこに隠されている。神は天使を造り、それは神を模している。天使は、神の手足を担うものであり、神の被造物である。故に、彼らに死を与えられるものは……。
「神は私たちに似せて造ることにした」
ニトリルグローブ越しに感じていたシャーレの重みが消えかかり、私は落としかけた培地を咄嗟に掴んだ。寒天は私の指で完全に崩れ、使い物にならなくなってしまった。指先に潰れた細胞の感触が残る。
「私たちは神を創造してしまったよ」
私は花の塔の見える研究棟で、培地に菌を擦り付けているバイトをしていた。机の上には山脈の形をした寒天が無数に聳え立っていて、その真ん中に佇むシャーレの円柱は、花の塔の相似形でさえあった。
花の塔の屋上では、電話を繋いだ先輩がこちらに向かって、手を振っている。私は窓の向こうの花の塔と、机の上のミニチュアを見比べて、どちらが現実だろうか、と考えていた。私はどこからか、花の塔を見下ろしているらしく、午後の黄ばんだ光の中で、先輩の羽織った白衣が、風に靡いているのが見える。
意識すれば、私は花の塔の前に存在することができた。重たい扉を押し開くと、正面に見えるエレベータには故障中の札がかけられており、私は塔の内径に沿った螺旋階段を駆け上がる。螺旋階段の向かいには、何故だか先輩が階段をのぼる姿が見えて、追いかけるけれど、追いつくはずがないことに私はまだ気付かない。塔の階段は二重螺旋になっている。花の塔の屋上は実質的な密室である。
私は先輩が自死することを知っていながら、それを一目見るためだけに、塔をのぼっていた。先輩を死に至らしめるための一所懸命の努力。故に、これは完全犯罪となり得る。
気付けば、私は花の塔の前にいた。
ふっと頭上を何かがかすめたような気がして、顔を上げたけれど、青い空と花の塔しか見えなかった。研究棟に戻ろうと視線を下ろしたとき、塔から誰かが飛び降りた、という叫び声を聞いた。もう一度、見上げれば、花の塔が私を見下ろしていた。
天使が、ほどなく空から現れる。
神の坐ませぬ空に。
”見れば白衣の裾に血が滴り、だから、かれは女なのだ。”
山尾悠子 「天使論」
美しい人、私たちに似ている。
私ではなく、私たちに。
だから、彼らは死に値する。
死を賜るに。
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