情報の乗った、重たいパンチ
小説に限らず、作品を見ている時に、目が滑るという経験をしたことはないだろうか? 目が滑るというと抽象的に過ぎるかもしれない。つまりは、作品を楽しんでみていたのに、あるシーンに入った途端、スマホの通知が気になったり、外の物音が耳に入ったりなど、作品への没入感が失われることを、ぼくは言いたい。
昨日ホラー作品について語ったのだけれど、その時、見ていた作品に「23:59」という中国のホラー映画があった。内容はとある島にある軍学校で、島の亡霊に新兵たちが取り憑かれる、という言ってみれば、ありきたりな作品だった。時間も80分程度で、それほどお金がかかっているものでもないと思う。
と、大分腐すような言い方をしているけれど、面白い作品ではあった。もとより、幽霊系のホラー映画は苦手なのだ。超常現象系の作品なら、あれは別の世界のお話だと考えられるのだけれど、幽霊となると話は別だ。
子ども時代、映画のフィルムに映り込んだ幽霊の映像を見て以来、その手の映画は別物と割り切れないのだ。
閑話休題。
先の「23:59」だけれど、短い作品ということもあり、基本的には集中して見ることができたのだけれど、あるワンシーン、つい目が滑った。それは亡霊による最初の被害者と、主人公が向かい合って対話するシーンなのだが、それがどうも、退屈だった、という話だ。
そして、本題。
この目が滑る、或いは没入感が損なわれることの一因を、ぼくは情報量の多寡だと考えている。
情報量などと簡単には言うけれど、その実態は何なのか、と考えていきたい。
対話シーンと聞いて、最初にぼくが思い浮かべたのは「ダウントンアビー」だ。基本的に登場人物の会話で話が進んでいくダウントンは、かなり意識的に会話が飽きないように設計されていると思う。
映像からして、対話のシーンでは両者を向かい合わせるカットを使うことで、真正面からの対立を感じさせるし、恐らくは広角レンズを使ったカットで、奥行きを制限し、より緊密に話し合っている姿を象徴的に映していたと思う。
脚本の段階では、無駄を省くように、繰り返しの言及を避けている。一度言ったことは、二度言うことはないのだ。省略の手筋が非常に洗練されていて、さらには、小事件がいくつも並行して、話が進んでいくので、見ている側は話を自分の中で整理しながら、見ていかなければならず、端的に言って、情報量が多い。
いや、多いというよりは、単純に並べ替えの問題で、見かけの情報量を増やしているだけなのかもしれない。
だが、少し待ってほしい。映像を研究した所で、それを小説にそのまま還元できるわけではない。一般的に、目も耳も使って観客に訴えかけることのできる映像作品は、あらゆる媒体と比べて、情報量が多いとも言われている。それを小説で再現することなど不可能だ。
とまあ、言い切ってしまうことは簡単だ。
ここで、立ち止まって考えたいのは、映像と小説の差し示す「情報量」という言葉には、違いがあるのではないか。
といっても、巷間で言われているような、文章表現が得意なことは心理描写であるとか、現実には存在しないものも描くことができるという甘言に逃げるのではなく、どういう風な戦い方ならば、小説の良さを引き出せるのか、と考えたい。
では、それは何か。
ぼくが考えるのは、読者の想像力を利用することである。
ぼくらが現在使っている言文一致体は明治期に発明された、およそ百二十年程度の歴史しか持たない、言語である、とここではあえて言い切ってしまおう。
近代文学の歴史において、描かれようとしてきたのは、目には見えない、つまり存在するはずのない自我や個人の内面であった。また、それを表現するために、言文一致体が発明されたといっても過言ではないだろう。
ぼくがここで言いたいのは、近代小説はその成り立ちから言って、読者の増力を利用しなければならなかったということだ。自我や内面というものは、言葉では表すことはできない。うれしい、かなしいという心の作用については語れるが、うれしいとは何か、うれしいと感じる主体は果たして、人の脳なのか、魂なのか、ということを、ついには語り得ない。
話を本題に戻せば、小説における情報量とは、あえて書かれていない余白だと言えるだろう。それは「行間を読む」という言葉に示されている通り、ぱっとしない、ありきたりな真実である。
今、ふと思い出したのだけれど、三枚のお札という話を昔、聞いたことがある。知っている人も多いのではないだろうか。鬼に追われた坊主は、和尚からもらった三枚のお札に願いを込めて、窮地を脱していく。
だが、坊主はこう願えばよかったのではないか?
「鬼を消してくれ」と。
勿論、そんな物語が面白い訳はない。それは何故か?
読者の想像力の入り込む余地がない、とはこういうことを言うのだろう。
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