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短編 「ロビン・グッドフェローズ・シスターフッド」

 本部から基地の放棄を下命された時、管制室とは名ばかりの掘立小屋に、私は一人だった。相棒は先日療養のため、私が内地へ送り届けたばかりだった。口の軽い、いてもいなくても変わらない男だったが、今はあの軽口がないことが、すこし寂しかった。
 滑走路で暗号表などを焚いていると、シエスタから戻ったメイビスが、私の姿を見て、ぎょっとした。
「ロビン、いったい何を!?」
「敗戦処理だ、メイビス。この国は負けたよ」
「え、えっ?」
 ベルトに噛ませた拳銃に手を伸ばしながら、私はメイビスのあどけない表情をじっと見ていた。田舎なら、もう子どもがいてもおかしくない年齢だろうに、彼女はいつまでも幼く、純粋に見える。子どもみたいだとからかうと、耳を真っ赤にして反論していた誕生パーティの日を思い出す。
 結局、相棒が用意したバースデーケーキを丸々一ホールたいらげたのは、彼女だった。
「それじゃ、これからどうするんでス?」
 彼女の訛りは、生まれ故郷の形見だというが、それがどこなのかを私は知らない。
「この基地を放棄して、街に下りる」
 基地は山の影面の中腹にある。東の尾根に向かって歩けば、山一つで、すぐに街だ。といっても、山道を十キロほども歩かなければならないが。
 メイビスはさっと顔の色を暗くした。
「あなたはどうする? 誰か頼れる親戚でもいないのか」
 分かりきったことを尋ねた。メイビスは戦争孤児だ。親類もなければ、身寄りもない。だからこそ、こんな辺境の地で事務方に従事させていた。
「……」
 私の上司の出した指示は正しい。だが……
「街までは送ろう。さ、出発の準備を」
 今この場に、戦友と呼べる相手は、彼女しかいなかった。
 私たちは少ない火薬で、どうにか飛行機と小屋を潰し、基地を出た。向かいの峰々は白い冠雪を粧していた。一年中溶けることのない万年雪だ。山際では吹き散らされる粉雪が、風の形を露わにする。幸い、こちらの風は微風だった。
「私も、荷物、お持ちしまス」
 先を歩かせているメイビスがしつこいくらい振り返っては言う。険しい岩肌の山道を、素人が荷物を持って、歩けるはずもない。私は彼女の申し出を無下にした。
「だけど……」
 と食い下がる彼女に、私は何を言うべきか、迷っていた。息も切れ切れに道を昇っていくメイビスに、これ以上何かを喋らせて、体力を奪うのは忍びない。だが、かといって、彼女の口をふさぐ術を、私は思い浮かばないでいた。
「休憩の時」
「え?」
「休憩の時、何か、話をして欲しい」
 彼女の頭上に疑問符が浮かぶのが見えた。口下手なのは物心ついた時からだった。今更、赤面するほどのことでもないが、この時ばかりは、自分の提案の幼稚さに、顔の熱くなる思いがした。
「だから、今は黙って、何を話すか考えてくれないか?」
「……うまい言い方」
 くす、と笑みを漏らして、彼女は独り言のように呟いた。いや、実際、私に聞かせるつもりはなかったのだろう。だが、メイビスの嘲笑うような口調に、何も感じなかったというと、それは嘘になる。今度こそ、私は自分の顔が赤くなるのを感じた。
 最初の休憩は、メイビスのペースに合わせた分、私の想像より、ずっと遅れたものになった。基地で淹れてきた紅茶を分け合って飲み、一息ついた所で、メイビスが口を開いた。
「話せること、私の話しかないんでス。それでも、聞いてくれますか?」
 私は黙って、頷いた。
「私の母は歌い手でした。旅をして、歌を聞かせる吟遊詩人。山を越え、谷を越え、国境も越えて、母は歌を唄っていました」
 ワンス・アポン・ア・タイム。その決まり文句のように、メイビスは淀みなく、話し始めた。不思議なことに、訛りはなかった。
「私が産まれたのは、戦争の始まる前の歳でした。私の数えは、戦争と同い年でス」
 そう言って、メイビスはにこりと笑った。子どもが産まれ、大人になるまで続いた戦争というものを、私は上手く想像することができなかった。操縦桿とスロットルレバーの感覚、それに高空の鋭く冷たい空気のにおいが、ふいに甦った。
「父は軍人でした。いえ、母からそう聞きました。一度も、顔を見たことはありません。けれど、子どもの頃の私は幸せでした。木苺を摘み、花冠を作って、田園を走り回る。とても平和な日々でした」
 田園、と聞いて、私はすぐに思い至る。地平線まで続く黄金色の穂の海原を、黒煙を上げ、戦車隊が突き進んでいく。
 教練時代の写真の記憶だ。
「その時、私は父が迎えに来てくれたんだと勘違いしまシタ。洗車の前に飛び出した私を庇い、母は亡くなりました」
 メイビスはそれきり黙った。私は話が終わったのだと思い、出発を告げた。
 山道を上りながら、私はやはり上司の指示は正しかったのだ、と反省した。彼女を基地と共に葬り去っておかなければいけなかった。だが、なぜそうしなかったと問えば、私はその理由を簡単に答えられる。
 全ては私の下心だ。
 教練時代、寮内でシスターフッドが流行したのを思い出す。戦闘が近付いていくにつれて、私たちを閉塞感が覆った。戦場が、戦いが近付くことは、すなわち、死を招き寄せることでもあった。
 それを誤魔化すためか、或いは、乗り越えるためか、バディを越えて、より強い関係性を求める娘たちが集まり、契りを交わした。
 私の元へも、ある年少の娘が来た。私は無口で、落ち着いているように見えたから、姉役をすることが多かった。
 今もそうだ。私はメイビスの姉になろうとしている。彼女を守る気でいる。
 私は私を自嘲する。彼女は私よりも年上だった。私が産まれたのは、戦争が始まった後のことだ。
「松明持ちのウィルは元気でしょうか」
 メイビスが振り返らずに言った。
「あいつは内地だ。平気だよ」
 着陸寸前、突然の横風に煽られて、飛行機を一機駄目にした上に、自分の骨まで折る間抜け。だけど、運が良かったと言えるのかもしれない。世渡りの上手い奴は、運もいい。あいつなら平気だ、と本心から言えた。
「ウィルは本当にいい人でしたネ。もう、会うこともないでしょうけれど」
「……そんなことない。会いに行けばいい」
「じゃあ、その時は一緒に行きましょうネ」
 空が橙色に染まり始めていた。薔薇色の雲が私たちの頭上を通り過ぎ、頬を撫でる風が冷たくて、空気が夜のものと入れ替わったのを感じた。
 私たちは見つけた横穴にテントを張り、火を焚いた。携帯糧食を口に入れ、新しく淹れたコーヒーで胃へ流し込み、それで夕食を済ませた。
 私はメイビスが眠った後も、火を見ていた。身体は疲れているはずなのに、少しも眠れる気がしなかった。脳裏には、文書を焼いた焚き火の映像が、なぜかリフレインする。目の前の焚き火と、灰になっていく紙束が重なった。
 戦争に負けたという実感は、火にくべた資料のように、もろく崩れ、中々実を結ばない。代わりに、私はメイビスの故郷の田園を思った。大陸有数の穀倉地。それを横なぎに奪い去ったのは、私の国だった。私が命を懸けて闘った戦争の、その端緒だった。
 もし、戦争がなければ、私とメイビスが出会うことはなかった。その事実に、私は混乱した。よろこびと絶望がないまぜになった。
 私はメイビスの寝顔を見て、幸福を感じる。メイビスのうなじの髪の生え際を見て、ときめきを感じる。メイビスの軽く握られた拳を見て、慈しみを感じる。
 一方で、私の目の前に存在してはいけなかったものとして、メイビスは写る。結婚し、子どもを背中に縛り付けながら、落ち穂を拾うメイビス。暗い蝋燭の灯りの下で、愛する人とぶどう酒を飲むメイビス。手は荒れ、頬の赤く染まったメイビス。
 そして、滑走路で血を流し、倒れたメイビス。私が向けた拳銃に何の疑問も持たず、その暗い銃口を見つめ、やがて彼女は死んだ。
 そういった有り得たかもしれない未来を、メイビスは私に見せた。
「眠らないノ?」
 メイビスが横になったまま、私を見ていた。
「歌を唄う? お話がいい?」
 私は首を振った。そのどちらも、今ほしいものではなかった。
「じゃあロビン、今度はあなたの話が聞きたい」
 そう言って、メイビスは毛布を私に向かって、開いた。さあ、隣へ。メイビスの吐息が聞こえた。
「ロビン・グッドフェロー、いたずら好きの妖精さん。夜は冷えますヨ?」
 私は途方に暮れている。【Robin has been with you tonight】という文句の通りに。
 夜が明けた。私はメイビスの胸に抱かれ、目覚めた。白い曙光が横穴に射し込み、新しい朝を告げていた。
「おはよう」
 メイビスは私より早く目覚めていたようだった。まるで親のような瞳で私を見つめ、そっと髪を撫でる。
「メイビス、すまない。私は」
 と言いかけると、彼女は唇に指を当て、
「もう少し、このままで」
 と言った。
 私とメイビスはその日一日を、横穴の中で過ごした。まるで敗戦のことなど忘れたように、同じ毛布にくるまり、二人で安楽な卵を温めた。
 再び夜になり、私が焚き火を見守っていると、メイビスは荷物の中から、手の平に収まるくらいの小さなブリキ缶を取り出した。ふたを開けると、中には乳白色のクリームが詰まっていた。
 彼女はクリームに触れた指で、私の唇をなぞった。メイビスの指はバラの香りがしていた。
「め、メイビス」
 彼女はにっこりと笑ったまま、私の唇を撫で続けた。
「や、やめへ。めいび、ふ」
 私はメイビスに下唇をつままれて、満足に発音できない。それがよほど楽しいのか、彼女はふふふ、と声を漏らした。
 親指の腹で、私の唇のささくれをいじり、口の中へ指をさし入れる。彼女の丸い爪が上顎に当たり、反射的に顔を引いたのを咎めるように、メイビスはもう一方の手で、私の後頭部を押さえた。
 髪を掴まれ、メイビスを迎え入れるように上向いた口内に、彼女の親指がすっぽりと収まった。
「ロビン。かわいいヨ」
 舌足らずで幼い口調。私はまるで童女にいたずらされているような気分になり、いけない気持ちになった。メイビスの指は相変わらず、薔薇の香りがしていた。
 私は覚悟を決めて、そっとメイビスの親指に歯を当てた。彼女の表情を窺い、やわらかい肌にゆっくりと歯を沈ませると、すぐに骨の感触が響いた。
 メイビスは目を細め、私の様子を窺っている。いや、楽しんでいる。彼女は何をするつもりもないし、何をやめるつもりもない、とその瞬間、分かった。
 私は指を離し、すべて受け入れるように目を閉じ、待った。
 くらやみの中、心臓の鼓動を三十数えた頃、私の口から、メイビスがいなくなった。
「私と一緒に逃げましょう。ロビン」
 戦争も、命令も、故郷も、親友も忘れて、国のない国へ行こう。
 私は瞼を開いて、メイビスの顔を見た。メイビスはまるで怒ったように、眉を吊り上げて、真剣な表情で私を見ていた。
「どこかの民間機に乗って、あなたは郵便屋を始めるノ。海を渡り、第三大陸へ行って、大切な荷物を載せ、帰ってくる。もうトリガーを引く必要はない。戦争は終わったんダカラ」
 私はそんな話、どこで聞いたのだろう、と思う。この国の、いや世界中の飛行機事業は今、黎明の時を迎えている。唯一の懸念であった戦争が終わり、事業はこれからどんどんと発展していくだろう。けれど、
「メイビスは?」
 一昨日の昼、敗戦を告げた時と同じように、メイビスの顔には暗い影が差した。
〈誰がために鐘は鳴ると問うなかれ〉
 その時、メイビスが言った言葉は私には分からなかった。呪文のように、言葉の響きだけが耳に残った。

 次の日、横穴を出た私たちは街を目指し、山道を歩いていた。岩肌に雪が混じり始め、肌で分かるほど、気温が下がってきていた。それでも標高の低い所を狙って、山を越えるのだ。ここより楽な道などなかった。
 私とメイビスは夜以来、言葉を交わしていなかった。黙々と朝食を済ませ、荷物をまとめるメイビスに従って、私は横穴を出た。
 一昨日よりも風が強くなっていた。私が前を歩き、メイビスの風除けになる。それでもお互いの消耗が激しく、岩陰で細かく休憩を取らなければ、進めなかった。
「これからの話は嫌い?」
 私は意を決して、メイビスに尋ねた。薄曇りの空の下、温くなった紅茶を飲み干す。
「メイビス?」
 彼女はカップを両手で包み、じっと中の紅い液体を眺めていた。一口も口をつけていない。
「二度」
「え?」
「二度、国がなくなりましタ。それでも、ロビンは未来の話ができるノ?」
 飄、と吹いた風が、私たちの間を吹き枯らした。
「それでも、したいことぐらいないのか?」
 メイビスはゆっくりと口を開いた。
「……家に帰って、麦を育てたい」
 重苦しく開いた口から、メイビスの願いが漏れ聞こえた。私はそれだけで、視界が開けたように感じた。
「だけど、戻れないでショ? 育てた麦は他の国へ運ばれていって、戦争をするための元手になる。子どもの頃みたいな、あの景色はもう……」
 そう言って、メイビスはにっこりと笑った。愛想のいい、人懐っこい笑顔だった。
「どうして、かなしみを隠そうとするんだ」
 思わず、口から漏れていた。メイビス、あなたはいつも、その笑顔にかなしみを隠していたのか?
「国を失った人はみな同じですヨ。敵だと思われないよう、にっこりと笑うんでス」
 笑顔のまま、メイビスは目を細めた。彼女の顔からは何の感情も読み取れなかった。
「ねえロビン。私はまだ、あなたの話を聞いてない。あなたは、これからどうするノ?」
 私が黙っていると、メイビスは紅茶をぐっと飲み干して、立ち上がった。
「さあ出発」
 山は尾根へ近付いた分だけ、険しくなった。雪や氷の通れない道を避ける毎に、尾根は遠ざかり、迂路は私たちを疲れさせた。
 空を覆う雲がわずかに厚くなり、辺りは漠然と暗くなった。風が雨の匂いを含み、冷たい。早く尾根を越えて、休める場所を探さなければいけなかった。
「雨が降り出す前に辿り着けなかったら、私たち、きっと死んじゃうネ」
 あどけない表情で、メイビスは愉快そうに言った。
「戦争が終わったのに、死んじゃうんだ」
 メイビスから漂う頽廃の匂いは悪くなかった。いざという時、私には腰につるした拳銃があると考えると、切迫感はなくなり、むしろ気が楽になるようだった。
「メイビスとなら、いいよ」
 私が本心からそう言うと、メイビスはいつもの通り、にっこりと笑った。
「ねえメイビス、戦争も悪くなかった」
 スラム産まれの私は人攫いも同然に、国に徴兵され、なぜか飛行機に乗ることになった。文字も数字も読めないのに。
 初めは爆撃機だった。銃座に座らされ、敵を撃った。私は目が良くて、敵を見つければ、褒めてもらえた。誰かの役に立つのは、それが初めてだった。
 だけど、私の乗っていた飛行機は墜ちた。気付いた時、私は病院にいた。全身を包帯で巻かれ、医者には命があるのが不思議なくらいだ、と言われた。長い入院生活の間に、私は字を教わり、四則計算を覚えた。
 訓練学校へ入ったのは、その後のことだ。そこでは友達が出来た。寮の中で生活を共にし、一緒に教官にしごかれる毎日。夢に見たような生活だった。
 長引く戦争で、友人たちは一人、また一人といなくなっていった。私は不出来で、だから、最後まで生き残ることができた。同期の中で、一番最後に戦場に出たのが私だったから。
「戦争があったから、私は絶対に経験できないことをたくさん経験してきた。スラムでゴミを漁る日々と比べたら、ここは天国だ。まだ最悪じゃない。戦争に負けたって、私はこの国で生きていく」
 メイビスが何かを言おうとした瞬間、音を立てて、雨が降り始めた。途端に周囲は煙り、視界が悪くなる。
 私とメイビスは少しでも風を避けるため、岩陰に入った。けれど、氷のように冷たい雨は、服を貫いて、私たちの肌を刺す。
「ロビン!」
 雨音に塗りつぶされた世界で、メイビスが叫んだ。
「いま、幸せ!?」
 私は頷く。メイビスが一緒にいる。だから、幸せだ。
 彼女は私の背負った荷物を漁り、何かを取り出した。それは毛布だった。私は煤とメイビスの匂いに包まれる。気付けば、私は毛布にくるまれていた。
「メイビス!?」
 彼女は私に毛布を被せ、その上に重しのように乗っかった。
「通り雨だヨ。すぐ止むカラ」
 私は抵抗したけれど、メイビスを振り落とせなかった。
 どれほど経っただろう。重たいくらい濃密だった雨の音が遠ざかり、空気がふっと軽くなった。メイビスの言う通り、通り雨だったらしい。
 私は毛布から頭を出した。濡れた毛布は重く、メイビスがどこにいるのか、分からなかった。
 雲の切れ間から、光の柱が射し込んでいた。雨の帳が、東の果てに見えた。
 メイビスは、私のすぐ隣で身体を丸め、うずくまっていた。咄嗟に手を取ると、彼女の手は驚くほど冷たくなっていた。
「メイビス」
 呼吸はある。小さく返事をしたのが聞こえた。
 私はメイビスを背負い、横穴までの道を引き返した。あそこならテントも薪もある。
 私の背中で、メイビスはがたがたと震えている。それが次第に弱まっていくと、彼女は死ぬのだ、と私は知っていた。
 斜面を滑り落ちるように、横穴へ辿り着くと、私は真っ先に火をおこし、メイビスの服を脱がせた。裸になり、同じ毛布にくるまって、あとは祈るように彼女の身体をさすり続けた。
 戦場で何度、同じことを繰り返しただろう。私は幾度も戦友に助けられてきた。私を姉と慕う妹たち、同じ鍋のスープを飲んだ同輩。だから、私は知っている。どうして、メイビスが私を庇ったのか。
 自己犠牲が、最も英雄的な行動の一つだからだ。絶望が深ければ深いほど、自己犠牲の誘惑は強くなる。
「メイビス、まだ話していないことがある。あなたは私の本当の名前を知らないだろう」
 あなたが目覚めた時、それを教えよう。それまで私はあなたのそばを離れない。

 横穴から見える空は、すっかり晴れていた。真っ青な空が眩しいほどに輝いている。
 私は沸かしたばかりのお湯に適当に茶葉を入れて、鍋をかき混ぜた。
「渋くなるヨ」
 とメイビスは言うのだけれど、私は無視して、ぐるぐると中身をかき混ぜる。荷物の底から、雨で固まった、なけなしの角砂糖を取り出して、ぽいと放り投げた。
 私たちは砂糖が溶けるまで、湯気の立つ鍋をじっと眺めた。
 紅茶は、私とメイビス、二人分のカップへ移し替えると、ちょうどなくなった。熱い紅茶を吹き冷ましながら、私はメイビスに視線を送った。
 熱を出して、一昼夜寝込んでいたが、もうだいぶ回復したように見える。頬がわずかに赤らんでいるのは、熱がまだ残っているからだろうか。衰弱した様子はなく、私は少しほっとする。
 メイビスは私の視線に気付き、
「何?」
 と言った。
「メイビスの本当の名前、まだ聞かせてもらってない」
 メイビスはうんざりした表情をする。私にはそれがたまらなくうれしい。彼女はもう、私の前で不本意な笑顔を見せたりしない。それが彼女を助けた対価だからだ。
「手を出して?」
 私はカップを置き、右手を差し出した。メイビスはそこへ何やら文字を書く。
「何て書いた?」
「故郷の文字」
「だから、何て?」
 私が重ねて尋ねると、メイビスは重々しく、口を開いた。
「鶫」
 ツグミ。私は口の中で、何度も繰り返した。
「ツグミ?」
〈ええ〉
 また私には分からない言葉だ。熱が冷めてから、メイビスは意地悪するように、自分の国の言葉をつぶやく。
「ツグミ、どういう字を書くの?」
 私がそう言うと、彼女はもう一度、私の手の平に文字を書いた。
「分からない。もう一度」
 嫌がりもせず、メイビスは繰り返す。
 それでも、私には文字の形が分からず、ポケットに入れてあった手帳に書くよう、おねがいした。
「つ・ぐ・み」
 絵のような文字を書きながら、一言ずつ、メイビスは名前を言った。
 私はその美しい調べを、舌の上で転がす。
「その名前で呼んでも?」
「この字が書けるようになったらネ」
 鶫、という文字と彼女の顔を、見比べた。彼女は意地悪そうににっこりと笑い、それっきり何も言ってはくれなかった。
 私は字を見ないでも書けるようになるまで、繰り返し、筆を動かした。
 私の中で、メイビスが新しく生まれ変わっていくような気がした。

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