日記 2月10日
適当な散文を書きたい欲が出てきたので、また日記でも書こうと思います。小説の文章を書くのに飽きてくると、何だかそういう気分になるみたいです。飽きるというか、嫌気がさすというか。
最近は、800文字書くのに二時間ぐらいかかるときがあります。内訳としては一時間半ツイッターを眺めて、残りの三十分でタイプしてるみたいな感じなのですけど、小説を書くのに全力でブレーキを踏んでいる自分がいるからなんですよね。
先週、将棋小説のために、図書館から色々本を借りてきました。「泣き虫しょったんの奇跡」という将棋のプロ編入試験設立のきっかけを作った人の自伝を読んでいて、ふと今年、奨励会の年齢制限の歳になるんだ、と気付きました。
もう、すごくない自分を受け入れなくてはいけない。すごい自分がいると思うから、小説を書くときブレーキをかけてしまうんですね。自分は上手い小説が面白い小説だと思うのですけど、じゃあ、自分は小説が上手いのか、というと、むしろ下手な部類に入る。だから、すごくない自分を突き付けられるのが嫌で、小説を書くことから逃げようとしている。
いい加減甘えるのはやめて、小説を書くことを職業にする意味を考えた方がいい。ただ現状から逃げるために、小説を書いて自分を慰めるのではなくて、小説を書くことが楽しいのなら、小説を売って生活をしたいのなら、プロというのはどういうものなのか、自分の定義を持つべきだ、と思いました。
同時に、これまで漠然と書いていた小説を、もっと上手に書けるように意識したい。保坂和志さんの小説論を読んで、去年は小説を書きました。今年に入って、三田誠広さんの「書く前に読もう超明解文学史」を読んで、今までの自分の方法論は自然主義的な方法だったのだな、と気付きました。自分が見てきたもの、感じてきたもの、体感したものを言葉で再構築するときに、それが現実のコピーではなく虚構として出来上がる感覚を、小説が立ち上がる、というのだと。
いま自分の書ける文章・小説の狭さが、自分の小説を不自由にしている。昨日の記事にモノローグ調の小説の話をしました。モノローグは自分がいちばん苦手な文章の一つです。あるいは、構造主義的な物語り方。前の方から書いていくことしか、いまの自分にはできない。方法論が足りない。そんなことを考えています。
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