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掌編 「安楽椅子の午後」

 ヨハンの声を聞き、シャーリーは右目をかばうように部屋を見渡した。
「そこだ、その椅子に座ってくれ」
 書棚に向かっていたヨハンが彼の方へ振り返り、近くの椅子を指差した。シャーリーはそれをしっかりと目で確かめながら、窓の方へ近付き、冬だというのに、それを開け放った。
 外からは乾燥しきった煙っぽい、煤の臭いが冷たい外気と共に入り込む。が、ヨハンはというと文句の一つも言わず、入り口の扉を閉めてから、律儀に外套を着こんだ。
「それで、今日は?」
 ヨハンは、シャーリーの擦り切れたコートとズボンのすそを見やり、言う。
「すまないが、暖炉の火も落として、かまわないか?」
 シャーリーの病人特有のらんらんとした瞳と、その下にくっきりと刻まれた青黒い隈を見て、ヨハンは仕方ないという風に肩をすくめる。
 シャーリーはヨハンの返事を聞く前に、既に火かき棒を手に取っていた。
「話は手短に頼みたい。長くなるようなら……」
 シャーリーは薪をごちゃごちゃといっじり、灰をかきながら、ヨハンの言葉を遮り、
「長くなる」
 と言い切った。
 ヨハンは廊下の女中に声をかけ、再びシャーリーに向き直る。
「相変わらず、眠れないのか」
「冬の夜は歩くに限る。星は綺麗に見えるし、何より凍死しない。これが夏なら話は別だが……」
 ヨハンはシャーリーの長くなりそうな話を止めた。そして、窓際の自分の椅子に座ると、彼にも腰掛けるように勧める。
 シャーリーはヨハンの言葉がまるで聞こえなかったように無視すると、底の抜けそうな革靴で足踏みを始める。
「ちゃんと食事はとっているのか」
「あれ以来、嗅ぐもの、口にするもの全て、火薬の臭いと味ばかりだ。馬鹿らしいので、代謝を取るのはやめにした」
 シャーリーの言葉に、ヨハンは溜め息を吐いた。彼の常識外れや、偏屈、突飛のなさは出会った頃からのものであるが、以前にも増して、それがひどくなっていることに、ヨハンは責任を感じている。右目の負傷もまた、彼の命と引き換えであったのだから。
 書棚をさも興味ありげという振りをするシャーリーを、ヨハンは複雑な気持ちで見つめた。
 あの日、ヨハンをかばい、砲火を受けたシャーリーはその拍子に、頭のねじをどこかへ落してきてしまったらしいのだ。無造作に伸ばした髪は、盲いた右目を隠す為であるが、そのために一層、彼の風貌は浮浪者じみて見えた。
 とその時、女中が扉をノックし、中へ入ってきた。
 彼女はヨハンの机にティーセットを置くと、シャーリーを横目で見て、部屋を出て行った。
 ヨハンの家のものにしてみれば、彼は幾度も家を訪ねては金を無心していく、小汚い不良者に過ぎない。シャーリーがヨハンの命の恩人ではあっても、確かに、来る度ごとに懐を温かくして家を出て行く姿は、そうとしか映らないだろう。
 しかし、実際は、クライアントの仕事を受けるビジネスマンなのだ、と言っても、やはり誰も信じないだろうが。
「紅茶は?」
 と聞きつつ、ヨハンは既に二つ目のカップにその真紅の水を注いでいた。
 湯気と共に香り立つ甘やかな匂いも、外のすす臭さにまぎれてしまい、いつもほどには香らなかったが、冷え切った体を温める役には立つ。
 世話しなく部屋を右往左往していたシャーリーもカップを手にし、ようやく腰を下ろした。
「ミルクは?」
「いらない」
 ヨハンは、山ほど砂糖を加え入れ続けるシャーリーの手元を見守っていた。
 いつ、紅茶が砂糖の山に埋もれるだろう、と見ていたヨハンだったが、シャーリーは砂糖を注ぎ入れる手間を惜しんだのか、湯気の立つのも構わず、一息にカップを呷った。
 やはりヨハンは、シャーリーのごくごくと音を立てる喉を見守っていたが、杯を乾かした彼の物欲しげな目を見て、シュガーポットを差し出した。
「それで、話は?」
 ポットから直接救ったスプーンを口に入れ、シャーリーは幸せそうに目を細める。仕方なく、ヨハンは溜め息を吐き、机を二度、こつこつと叩いた。
「ああ、悪い。話だったね」
「それで、今回はどこまで行っていたんだ」
「何、少し大陸の方へ」
 ヨハンはもう一度、呆れたように息を吐く。
「近頃、物騒な話を聞くが?」
「まあ、それほどでもない。次の戦争まではあと五年ほどだろう」
「根拠は?」
「仕掛ける方も仕掛けられる方も準備不足だ。労働者階級がもう少し豊かになれば、そういう余裕も出てくる」
「つまり?」
「そういう人間が戦争を支持する」
 ヨハンは前のめりになっていた身体を背もたれに預ける。
「それなら、今の方がいいだろう。苦しいのは今なのだから、すぐに戦争を仕掛けて、奪う方が早い」
 シャーリーは口に入れていたスプーンをぐいと舐め取り、その金臭さに顔をしかめる。
「だから言ったろう。準備がまだ足りない。彼らは戦争するより先に俺たちをどうにかしろ、と言うだろう。『我々の大好きなスポーツ』に精を出していたら、寝首をかかれるさ」
 それきり、二人は沈黙した。
 強く吹き付けた風が窓を揺らし、高く鳴った。隙間を抜けるあの速さの通り、ひゅうと音を立てて、再び静寂が戻る。ヨハンの渋顔も、シャーリーには気に入らないらしい。
「それで、次の話なんだが……」
 ヨハンは吟遊詩人の物語を聞くように、シャーリーの話に耳を傾け、一包みの金貨を支払うのだった。

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