日記 4月16日 大商圏と小商圏
サイゼリヤ創業者の方の本を読んでいる。
すごく、小説を考えるときに役立つことが書いてあると思って、メモを残しておこうと日記を書き始めた。
公平世界仮説、という考え方がある。簡単に言うと、因果応報ということだ。正しい行いをしたら報われて、悪い行いをしたら祟られる。世界はそういう風にできているという考え方だ。
小説に限らず、自分が作ったものにはコストの分だけバイアスがかかる。あれだけ苦労したのだからとか、こんなにいいものなのだからとか。けれど、受け取る側の人間には、そういう作り手の苦労と言うものはどうでもいいもので、大抵の人は、自分にとって価値があるから小説を読むし、レストランに行くし、買い物をする。逆に、価値が値段(コスト)に見合わなければ、小説も料理も、手に取ることはない。
「おいしいから売れるのではない 売れているのが美味しい料理だ」
本書のタイトルだ。これは絶望ではなくて、希望だと思う。本の中で、おいしさを計測可能な数値化する必要があると語られる。シビアだが、「おいしさ=客数」と置き換えられる。閲覧数でも、売り上げ部数でもいいだろう。ここで重要なのは、まだ料理(作品)に改良の余地がある、と考えられることだと思う。
「面白さ」という定量化することの難しいものを扱い損ねて、傷付くことがある。「面白さ(おいしさ)」は自分にとっても絶対的なものではないし、それは他人にとっても同じだ。かつて熱中したアニメを見返して、何だかハマらないという経験は誰にだってあるはずだ。
だが、当然、そういう量の価値観だけではないという意見もあると思う。自分もそれには賛成する。きっと、多くの人には受け入れられなくとも、素晴らしいものはある。けれど、その二つは実は矛盾しないのではないか、とずっと考えてきた。それを上手く説明できないでいたのだが、本書の「大商圏と小商圏」の話は、ぴったりとこの例にはまる。
大商圏とは、広い範囲から目的をもって訪れられる店をさしている。そこでは、非日常的な料理が提供され、一人ひとりの客の来店頻度が低く、その分、価格帯は高めに設定されている。
小商圏は、周囲の人が利用する店で、シンプルな料理を同じ客に何度も頻繁に来店して利用してもらい、そのため価格は低くなっている。
現代日本で純文学と呼ばれるジャンルは、大商圏として売り出すべき商品だ。けれど、相手にしている客層は小商圏の規模である、と自分は思う。芸術は儲からないなどという話は、何の腹の足しにもならない。もっと広く、読まれる必要がある。それは、自分自身の拙い願望かもしれない。けれど、「商業性」と「芸術性」のせめぎ合いにこそ、新しい価値が生まれるのではないか。
こう言い換えてもいい。大衆が肌感覚として感じているものと、個人が抱えている世界観がぶつかる場所に、世間に迎合するだけでなく、ナルシシズムに囚われるでもない、新しい現実があるのではないか、と。
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