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感想「かぐやSFコンテスト3」 読者投票作を選ぶにあたって

 

 バゴプラで開催されている、第三回かぐやSFコンテストの読者投票期間の期日が迫ってきています。今回は「未来のスポーツ」をテーマに、募集がおこなわれていました。

 一読して、
『城南小学校運動会午後の部「マルチバース借り物競争」』
『叫び』
『あの星が見えているか』
 の三つのどれかに投票を行いたいな、と思いました。

ほかに印象に残った作品は
『勝ち負けのあるところ』
『マジック・ボール』
の二作でした。

 まず、『勝ち負けのあるところ』では、男女という生物学的な身体の区分を、エイリアンを登場させることで相対化する試みが興味深かったです。一方で、台本が存在するといわれるプロレスという競技を題材にした点と、

戦いはあっても勝敗のないところへ、彼らと一緒に旅立ったから。

勝ち負けのあるところ | VG+ (バゴプラ) (virtualgorillaplus.com)

という最後の一文を読み、作品全体を包む安全性の枠組みのようなものへの個人的な反感から、作品を肯定的に読むことができませんでした。
 語り手である「私」が馬鹿にされるのは、「弱っちい」からではなく、プロレスに対して、本気でないからではないでしょうか。勝つことを至上命題におかないことの是非はともかく、対戦相手の技(勝つために努力した結晶であろうもの)を

おおげさにリアクションをして相手の攻撃を映えさせる

勝ち負けのあるところ | VG+ (バゴプラ) (virtualgorillaplus.com)

と臆面もなく言ってしまうのは、語り手自身のプロレスへの軽視であり、偏見でもあるでしょう。それは、最後のエイリアンとのプロレスの場面でも繰り返し描かれており、「ダメージのない形」で「うまいこと」負けようという台詞は、「宇宙戦争」や「バトルシップ」といった、エイリアンとの戦争を描いたSF作品とはまた違った読み味で魅力的ですが、「勝敗の相対化」とは別のものを感じました。
 彼女たちが負けても、ほかの誰かがエイリアンを倒してくれるだろうという他力本願、あるいは、エイリアンに支配されることへの楽観から(もちろん、今作のエイリアンの狙いは、噂程度でしか書かれておらず、地球を支配することが目的ではないようですが)、ともかく「勝敗の相対化」をするには、語り手たちはあまりに「勝利」の本質的な価値を見誤っているために、その試みは失敗していると感じました。



 次に『マジック・ボール』かなり重いモチーフが組み込まれている一方で、自由とは何かという問いが、終始、好きなスポーツをすることに焦点を当てられていて、ただものではないと感じました。
 奴隷制や南北戦争、世界大戦に公民権運動などが物語の背景に見え隠れする中、エリザベスの親友であるダーシーは、従軍し、負傷したうえで語る内容は、野営地の外で野球をしたことだというのが、ひとつ象徴的でした。また、その直前に話される

道具があれば、あんただって男と対等にやれるんだよ。もっと優れた道具があったらいい。(中略)身体の差異が問題にならないようなルールや道具があればいい。あるいは……自分の身体を感じられなくなればいい。誰もがね……

マジック・ボール | VG+ (バゴプラ) (virtualgorillaplus.com)

という内容は、ある意味で究極のスポーツの相対化であると感じました。正確には、スポーツにたいする究極の否定。同じルール(規制)による違う肉体での競争が、あるゆるスポーツに戦略性を与えている側面があるわけですが、同じルール・同じ肉体で行われる競技はおそらく均一化の道を辿っていくことでしょう。そしてそれは、近代を支える個人というものの否定でもあるはずです(ここ、読み違いをしていました。作品内にあるのは、同じ体を持つことではなく、違う身体を持つことが問題にならない、という趣旨でした)。
 とはいえ、ダーシーが経験し、発見したことが、総力戦と称される戦場であったことは、ものすごい意味を持っていることのように思います。というのも、たやすく個人の人権を剥奪し、匿名化してしまう近代の戦場のグロテスクさが、ダーシーにユートピアを夢見させたという構造に、力強いものを感じずにはいられません。
 作品を読んで、自由とは何かという問いが、好きなスポーツをできること、と感じたぼくの感覚はその点に裏付けされていると感じます。総力戦という大多数の命と引き換えに手に入れられた、女性参政権に代表される女性の権利にたいし、あくまでもスポーツという視点を貫き通した本作に、好意や評価といった言葉では言い表せない複雑な感情を覚えました。

+++

『城南小学校運動会午後の部「マルチバース借り物競争」』
『叫び』
『あの星が見えているか』

『あの星が見えているか』について。
 日常的な動作である”見ること”が競技化されていることの面白さがまずあり、次にプロスポーツとして成立している「競視」の作品での確固とした存在感と、それを支える論理に、ぐっと引き込まれました。
 また、先生という存在について語りながら、それは同時に、語り手である「私」について語ることにもなるという構造を、巧みだと感じました。二人の引退理由が重ねられているのは、そういった意図だとぼくは読みました。”見ること”が主題となっている以上、語り手である「私」は自らの存在を見ることはできない。作品は必然的に「私」の外部を描写することになり、制約を受けるのですが、語り手の先生への信頼は、そのまま、読者から語り手への信頼になっています。先生がこういう人間でした、という描写は、だから「私」もこうしています、という読み、あるいは読者の想像にバイパスするようにできていると感じました。つまり、先生と「私」の信頼の強さが、そのまま作品の強度に繋がっていると思います。

 一方で、細部によって成り立っている作品だからこそ、その奥の広がりが弱いと感じました。特に、引退することが明言されている点で、「私」の選手としての広がりが損なわれており、物足りなさを感じました。最後の試合に臨む選手の感情の流れに焦点を当てた作品であり、その点について過不足は感じませんでしたが、あるいは、先生の去就について、もっとほかの示唆があれば、また違った読後感だったのではないか、というのが個人的な感想となります。

 余談ですが、今作品が暴力と破滅の運び手氏の作品だと思います。『プシュケーの海』と迷いましたが、こちらを推しておきます。理由は、先生に不可視バイザーをかけられる生徒(身を委ねる)姿がえっちだと思ったからです。


『城南小学校運動会午後の部「マルチバース借り物競争」』
 一連の作品群の中で、もっともシンプルに読むのが楽しかった作品でした。まず設定を思いついた時点で勝ち確ですし、その設定を生かしたどたばたを書けたなら、もう優勝しかないでしょう。
 ただ思うのは、4000文字で収めるには、すこし短すぎたのではないかということです。マルチバースを混乱させるため、マルチバース借り物競争が掃除されるというオチは当然納得のものですし、HUBJACK配列のキーボードを作るためのバタフライエフェクトが、そこに作用したのだろうという想像の余地の作り方も、これ以上ないというほどの満足感なのですが、再読時に、その点ひっかかってしまいました。
 月並みな言葉ですが、もっと読んでいたかった、というのが正直なところです。


『叫び』
 ラストのまさに異世界にどっと連れていかれる感覚は、今コンテストの中でも随一でした。そこに収斂していくように構成されている作品だと思うのですが、合間合間に挿入される警句のようなものについて、再読しながら、馬の言葉でもあり、人の言葉でもあるのではないか、と思いながら読んでいたのですが、ストレートに馬の言葉として回収されていったことに、少なからず不満を覚えました。
 馬と人の二項対立の構造が強く目を引く作品で、アレフ・ヴェルナー・エバの挿話は、そこからはみ出していく形で描かれているものの、作品の方向性を決定的に変えるものにはなりえませんでした。もちろん、一方の立場が片務的であり、それほどに怒りは深いという世界観は否定できるものではありません。
 ここで確認しておきますが、ぼくはいま、創作世界というものは現実と同様に複雑であるべきだ、あるいは複雑さをもって描かれるべきだ、という個人的な規範や倫理について、話しています。そのことで作品の価値が、損なわれることはあってはならないとも考えます。あくまでも、個人的な嗜好の話としてしているつもりです。
 そのうえで、何故、ここまで怒りが深刻であるのか、あるいは、怒りを癒すこと(和らげること)は不可能なのか、という疑問を感じました。(作品の末尾には、参考資料が付されていますが、手持ちのエディタで文字数を計ったところ、4000字以内に含まれていませんでしたので、今回はないものとして考えます。参考資料をあたれば、安易な批判として無意味なものとなるかもしれませんが続けていきます)
 
 まず、馬たちの警句が、ヒューマニズムによりすぎているのではないかということが気になりました。馬と人がまったく異なる生物であり、その真意は絶対に理解不能である。一方で、馬を走らせたり、荷役させたりすることは馬にとって苦痛であるという想像は、まったく逆の、馬は走ることが本能であり、早く走ることこそがよろこびであるとする想像と、表裏をなす同じものであるのではないか、ということ。
 後者の想像が、馬の被支配的な立場をうやむやにする、都合のいいフィクションであるという批判を免れないように、前者の想像が無謬の正しさを持っていることにはならない以上、ぼくらの想像力はもっと異質なものを含んでいくべきではないか、と思います。ぼくらの想像力が、ぼくらの身体に依拠している以上(健常者であることや、二足歩行であること、近代思想を是としていることなど)その外側へ向かっていくものを見たいとぼくは思います。
 その点で言うと、今作はぼくらの想像を、馬が代弁してしまっているように感じました。馬たちの怒りを癒すことができないのは、それがあまりに深刻だからではなく、実体を持たないからではないか、というのがぼくの感想です。ぼくらは必ずしも原罪に与する必要はないと考えます。

 とはいえ、これまでの考えは、痛みを無視しようとする卑怯者という謗りを受けるに充分なものでしょう。作品に描かれずとも、それを読んだぼく自身に、そういった揺らぎを生んだことから察するに、今作には十分、複雑な世界というものが書き込まれていて、それをぼくが読み取れていなかっただけなのかもしれません。
 今作の感想に戻りますが、やはりラストに感じる深い感慨のようなものが離れていきません。また読み返したとき、別の感想を思うかもしれない、そんな予感を感じさせてくれる作品でした。

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 今回、ぼくは『叫び』に投票させてもらおうと思います。今記事で感想を書いた作品も、書かなかった作品もいずれも素晴らしいものばかりで、楽しい時間を過ごさせていただきました。
 ぼくが投稿した作品は落選でしたので、次回こそは、舞台上にあがれるように精進していきたいと思います。それでは。

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